瘴像



  老人が消えた後のランプの揺らぎを呆然として見つめた後、首を一振りして視界に靄がかかって
 いない事を確かめる。
  もしかしたら、夢でも見ていたのかもしれない。
  老人自体が夢であったのか、それとも老人の話が長すぎて、途中で眠ってしまったのか。
  しかし、老人の語った話は鮮明に覚えているから、鮮明な夢であったと考えるのが妥当かもしれ
 ない。
  だとすれば、随分と夢見が悪いが。
  げっそりとした気分で座り直し、窓の外を見れば、空は相変わらず炭をぶちまけたように暗く、
 朝を迎えるのはまだまだ先のような雰囲気を出していた。闇夜であるが故に、月はおろか、星明り
 さえ望めない。
  自分に残された光は、やはり、目の前で揺らめくランプの炎だけのようであった。 
  固い床の上でもぞもぞと動き、どうにか尻の納まりの良い場所を見つけてそこに体重を乗せ、深
 く長く溜め息を吐いた。
  その溜め息が、ただただ長すぎる夜に対するものなのか、それとも当てのない自分の行く末を思
 っての事なのか、はたまた人ならざる者がやって来るこの地を思っての事なのか、それは自分自身
 にも分からなかった。
  長い長い溜め息を吐き終えた時、不意に、木の扉を叩く音が響き、思わず喉から吃逆のような音
 が零れる。忙しげに叩かれる音は、その一回きりで。  
  今度は、一体何者か。
  そう思っていると、もはやノックする事さえ耐えられなかったのか、木の扉は些か乱暴すぎるく
 らいに強く押し開かれ、一人の男が転がるように飛び込んできた。
  つんのめり気味に入ってきた男は、こちらを見て一瞬ぴたりと動きを止めたが、すぐに気を取り
 直したように、せかせかと明るいほうへと近寄って来る。
  近寄るたびに顔の陰影が見え、顔の皺を数えているうちに、どうやら東洋系の顔立ちである事に 
 気が付いた。肌の色も黄色く、適当に頭に巻いた布から覗く髪や眼の色は、ずっしりと重たげな黒
 だった。

 「ああ、良かった。人がちゃんといて。」  

  東洋の男は、片言と、しかし安堵したような喋りを披露しながら、どっかとランプの前に座り込
 んだ。随分と全体的に重たげな男の姿を、改めてじっくりと見れば、男の服のありとあらゆる隙間
 には、ぎっしりと様々な者が詰め込まれていた。
  よくよく見れば男の服装は、自分達が着ている服とは随分と違い、ひらひらと余分な布が多く、 
 また、服の裾も随分と長い。 
  ぼんやりと記憶の片隅にあった、東洋の商人のような服装だ。
  そう告げれば、東洋人は頷いた。

 「ええ、そうですよ。私は商人です。シルクロードを渡ってやって来る、珍しい異国の品を取り扱
  っています。市場で店を開き、そこで品物を売っているのです。」

  片言片言と喋る男は、つるりとした掴みどころのない顔を向け、人懐っこく話す。
  だが、珍しい品を売っていると一口に言っても、その内容はピンからキリまでだろう。この辺り
 にも珍しいものを取り扱っているという行商人は大勢いるが、しかし本当に異国の品を扱っている
 者もいれば、何処かで取れた魚の鱗に法外な値段をつけている者もいる。
  目の前にいる東洋人は、果たしてどちらか。

    「分かっておりますとも。こういった商人に、怪しい者がおる事くらいは。私自身、異国の商人か
  ら品を買い付ける時に怪しげなものを掴まされそうになった事もあります。ですが、私は自分で
  確かであると確認したものしか取扱いません。」 

  非業の死を遂げた王妃の涙だとか、一角獣の角だとか、蛮族が隠し持っている鉈だとか。そうい
 ったものも、実際にどのような効果があるのか、そして自分で確かめて効果がなければ売りに出さ
 ないという。

 「勿論効果のないものも沢山ありました。ですが、一方で効果があるものもあったのでございます
  よ。そして、その中の一つのおかげで、私は市場で店を構える事が出来るようになったのです。」

     既に全て売り払ってしまい、それをお売りする事は出来ませんが、と東洋人は言い置いた。

 「絵具なのですよ。」

  絵具、と聞いて眼を丸くした。
  絵具とは、画家達が使って絵を描く、あの絵具の事だろうか。
  東洋人は、さよう、と頷く。

 「もしかしたら、こちらの絵具とは多少勝手が違うかもしれませんが、それは岩を砕いて作った絵
  具なのです。といっても見た目は全く大した事はなく、美しい色が出るわけでも何でもない。た
  だ、薄汚れた茶色のような土のような色が出るだけです。」

  しかし、それを東洋人に売りつけた商人は、これを非常に希少なものとして取引していた。
  この絵具は、己の欲望を引きずり出し、それを現実に昇華させる事が出来るのだ、と。この絵具
 で己を描く事によって、欲望を現実に表わす事が出来るのだ、と。

 「むろん、そんな事、信じるわけがありません。」

  何も知らぬ子供でもなければ、そんな世迷い事に近い言葉を信じたりはしないだろう。しかし、
 売りつけた商人はしつこかった。
  ならば、無料でお前を描いてやろう。
  それで何事もなければ二度と此処に来るな。しかし一つ欲望が満たされたなら此処に来て買って
 いくが良い。
  そして、東洋人はその顔を、描かれたのだ。

 「と言っても、欲望が一つ満たされると言っても、小さな欲望では話になりません。なので私は、
  その商人に、己の店が持てるまでは信用ならん、と言ったのですよ。」

  当時まだ小さな鞄一つだけに商品を入れて、転々と各地を移動していた彼にとって、一つの店と
 いうのは夢のまた夢であった。だが、糊口を凌ぐほどの稼ぎしかない行商人が店を持つ事は、一朝
 一夕では出来ぬ事であったし、もしかしたら一生かかっても無理である可能性のほうが高いのだ。

 「だが。」
 「ええ、私はそれから七日の日を数える前に、市場に店を持つ事が出来たのです。」

  大きくはないが、だがしっかりとした作りの、人もそれなりにやって来る店であった。

 「行商から郷に戻った時に、その店の前の持ち主が――老人だったのですが――もう歳だからこの
  店を譲る者を探している、と。それで私に。」

  それも驚く事に、その老人とはほとんど話した事もなかったのだ。それなのに、老人は店を譲る
 と言って、そしてさっさと田舎に引っ込んでしまった。

 「これが良く知っている人間のものだとかだったら、絵具の効果など信じなかったのですが、よく
  知りもしない相手からの申し出でしたからね。」
 「疑わなかったのか?」
 「疑いましたが、しかし私なんぞを貶めても何の意味もありませんからね。」

  貧乏な行商人一人を騙したところで、何の得にもならない。
  その現実に、東洋人は絵具の効果に頷くしかなかったのである。彼は商人の元に行き、絵具を買
 い付け、自分の店でも取り扱うようになった。
  東洋人が絵具を取り扱うことについて、商人は特に何も言わなかったという。ただ、自分もそう
 やって貰ったものだから、と言っただけだった。

 「まあ、そうやって店に置いたところで、食いつく輩はそう多くはいません。」
 「だろうな。」

  だが。

 「もう一度、自分で使ってみようという気にはならなかったのか?」
 「ああ、そうですねぇ。でもなんというか、この手のものは一度使えば十分だと思いましてね。」

  商売柄、薬物も取り扱う事が多い東洋人は、薬の中毒症状も良く知っている。この絵具も、それ
 と同じだと思ったらしい。

 「甘い蜜は一度味わえば何度でも欲しくなる。でも、その果てが最上である可能性は低いでしょう。」

  商売人としての感覚が、これ以上の使用は禁物であると、囁いたのだ。
  そしてそれは、おそらく他の人間にも同じだったのだろう。疑いもあるだろうが、食指を出して
 もある種の恐怖があるのだろう。
  人間には、手を出してはならないものに対して、ある種の停止本能が働くのだろう。

 「だが、それだと商売にはならないだろう?」 
 「いえいえ、稀に、道楽として買っていかれる方がいらっしゃいましたよ。まあそういった方々は 
  既に成功されてらっしゃる方なので、効果のほどは薄いかもしれませんが。」

  そしてもう一人。

    「絵具の効果を試していった子がいました。」

  途端に、東洋人の顔が曇った。
  顔を少し強張らせ、彼自身が商人にして貰った試し描きをしてやったのだと言う。  

 「金もなさそうな子供でした。貧相で、何にも自信がないような。そんな少年です。もう少し物を
  食べれば見てくれは何とかなるのかもしれないけれども。ただ、眼だけが大きくぎらついている
  んです。」 

  大きくぎらついた眼で、少年は絵具を見つめた。
  そして、己を描いてくれと、呻いたのだ。

 「まあ、それで、少しくらいなら、と。」

  本当に簡単に、少年に絵を描いてやった。爪の先に絵具を乗せて、軽く描く程度のものだった。

 「しかし、それでも効果はあったのです。」

  彼の時と同じ、七日と経たぬうちに少年は再びやって来た。身形の良くなった少年は、とある金
 持ちに気に入られて、そこで暮らす事になったのだという。
  その手には、ぎっしりと効果が握られていた。

  ――もう一度、描いてくれ。

    「眼は、相変わらずぎらついていました。そして、私が知る限り、その子だけです。二度目にも絵
  具を欲したのは。」 

  金を支払って描かれた少年は、それから一か月と経たぬうちに拾ってくれた金持ちが死に、その
 遺産を丸ごと受け継いだのだ。
  だが、それでもぎらついた眼は治まらなかった。
  金なら幾らでもある。
  身体つきもがっしりとして、見るからに裕福そうな姿になった少年は、それからも何度も東洋人
 のもとを訪れ、己の絵を描くように命じたのだ。

 「もう、一体何十回と書いたでしょうか。私はそのうちに彼が恐ろしくなりました。」

  少年は――いや、既に彼は青年となっていた――貧相な生活からは既に抜け出している。富も手
 にし、食うに困る事はない。
  だが、まだまだ足りないと、眼をぎらつかせているのだ。
  一体何がそんなに足りないのか。これ以上何が欲しいと言うのか。

 「もう、彼は止まらなくなっていたのです。」

  求め続けなければ耐えられない。しかし、満たされても満たされても、底のない容器のように、
 すぐに乾いてしまう。
  麻薬と同じだ。
  人間の欲望は底知れない。
  少年は、その欲望に頭から飲み込まれてしまったのだ。

 「そして、再び、絵具を求めて彼はやってきました。」

  今まで以上に一層強く眼をぎらつかせて。
  一方で、何かに酷く傷つけられているような眼差しもしていた。

 「少し、不思議でした。当時、彼は圧倒的な力で近隣の村を治めていました。彼の小飼の連中は我
  が物顔で村の中を練り歩き、悪さをしても皆が泣き寝入りをするしかなかった。」

  誰一人として彼に逆らえないであろう状態であるにも拘わらず、彼は傷ついた眼をしていたので
 す。まるで何かに跳ね除けられたような。
  思いのままに動かせぬものに、遂にぶち当たってしまったような。
  だから、再び絵具の力を得ようとしたのだろう。今、限りない権力を持っている自分の姿を描こ
 うと。
  だが、ちょうどその時、絵具は切れていた。
  それもそのばずだった。少年が何度も何度も求めるために、絵具はすぐになくなってしまうよう
 になっていたのだ。

 「彼は、眼をいっそうにぎらつかせて、すぐに手に入れて来いと言いました。あの爺に一泡吹かせ
  てやらねば気が済まない、と言って。」

  東洋人は、追い立てられるように買い付けに行かされた。何の準備もないままに。

 「ですが、それは幸いでした。私はもう、あの村にいようとは思わなかったのです。とにかく、あ
  の底無しの欲望の淵から、逃げ出したかった。なので、これ幸いとばかりに私は買い付けに行く
  ふりをしてシルクロードに出て、そのまま二度とあの郷には帰っておりません。」

  あの少年に治められた郷が、あの後一体どうなったのかも。

 「もしかしたら、あの少年に一矢報いた者がいたのかもしれません。最後の彼の口ぶりでは、老人
  が言いなりになっていないような事を言っていましたから。でも、もしもまだあの少年が健在で
  あったなら。」

  私を追いかけ、絵具を求めて、私を探しに来るかもしれない。
  それが何よりも恐ろしいのだ、と。

 「今でも恐ろしいのです。あの少年が、爛々と眼を閃かせて、私に襲い掛かってくる様が。あの少
  年はあの絵具で描かれる度に、貧相な殻を脱ぎ捨てるように逞しく、そして残忍に強くなってい
  きました。きっと、私などその手の一捻りで縊り殺されてしまう。」

  それから逃げて、逃げて、逃げて。
  唐突に、ああっ、と男は鋭く叫んだ。

 「どうやら、彼が追いかけてきたようです。私は、逃げなくては。」

  何を言っているのか。
  足音など何処からも聞こえてこない。扉を叩く音も何も。
  だが、東洋人の耳には、聞こえているのか。己を追いかけ、絵具を求める声が。今までも、これ
 からも。そうやって逃げてきて、そうやって逃げていくのか。
  思った瞬間に、やかましい音を立てて東洋人は服に詰め込んだ大量の荷物をそれぞれに擦れさせ
 ながら、来た時と同じように忙しなく扉を開いた。