染石



  金の巻き毛も美しい、まだ少女と言っても過言ではない女は、神の家で慎まやかに友人の聖句を
 聞いて過ごしていた。
  友人のほうも、つい先ごろまで闇雲に女達に神の御業を信じさせようとしている時の鬼気迫る雰
 囲気を一転させて、いつもの、老人もよく知っている穏やかな僧侶の顔をして、女に聖書の一句一
 句を言い聞かせていた。
  古びた教会には、今いる小屋のようにランプ一つほどの明かりしかなく、救世主が吊り下げられ
 た十字架も煤けて無残なほどだったが、けれども壊れた窓の隙間から差し込む月明かりに、ゆるり
 と照らされた若い二人が、肩を寄せ合い聖書を眺めている姿は、酷く美しく、

 「そして儂は嫉妬した。」

  老人は、何か憎むべきものでも見つけたかのように、今あるランプの炎を睨み付けた。
  まだ若く、僧侶として功徳も積んでいなかった当時の老人にとって、たった二人肩を寄せ合う男
 女が、例え聖書を挟んだ崇高なるものであったとしても、そこに邪な思いを抱かないというほうが
 困難だった。
  もしも。
  そう、もしも、若い僧侶が、老人の友人でなかったなら、話はまた異なったかもしれない。或は、
 友人が神童だと持ち上げられたり悪魔祓い師として一級でなければ。

    「嫉妬の炎とは、かくも容易く燃え盛るのかと、自分事ながら唖然としたものじゃ。しかし分かっ
  ておっても止まらぬ。それこそ、正に人の業よ。」 

  悪しきものとして、聖者として遠ざけておいたものが、唐突に自分の中に芽生えた瞬間。
  老人は、日がな十字架に縋り付いた。己の欲深さに気が付かされて、僧衣を初めて身に纏ったば
 かりの時のように、悪魔に怯える少年のように、銀の十字架を握り締めて神の名を何度も零して、
 腹の底からどす黒い炎が消え去るのを待つだけだった。
  だが、どれだけ彼が己を宥めても、眼を開けば友人は若い女と親しくしている。
  既に、自分達が此処に在る本来の目的を忘れてしまったかのように、女と笑い合う友人が。
  その時、眼に留まったのは女が持ってきた、石の像だった。
  女は既にそれを手放して、友人の持っていた聖書に手を添えている。はっとすれば、彼女はもう
 異教のおぞましい石像など信じていないように見えた。
  友人は、悪魔祓いに成功したのだ。
  だが、老人の眼からすれば、たった一人の女の悪魔を祓っただけで、他の女や、根本たる山の呪
 いはまるで解けていない。

 「今思えば、奴を貶める何らかの理由が、儂には必要だったのだろうよ。奴が仕事を投げ出してい
  る。僧侶として任された仕事を蔑ろにして、女と遊び耽っている、と。女に骨抜きにされて、今
  にも奴自身が悪魔になろうとしているのだ、と。」
 
     そう言う為に、老人は現状の粗を探した。
  そして、尤もらしい言い分を練り上げたのだ。

 「儂は或る晩、奴に言った。」 

  お前はあの女に骨抜きにされているのだ、と。

 「あの女に骨抜きにされて、本来の仕事を忘れているのだ、と。現にあの女は一見すれば異教の神 
  を捨てているように見える。石の像も、あの女はもう撫で擦ったりもしない。だが、それが演技
  ではないとどうして言い切れる?悪魔が天使の顔をする事は良くある事ではないか。よもや、悪
  魔祓い師であるお前が、その事を忘れたのではあるまいな、と。」

  友人は、顔を真っ赤にして起こった。

  ――何を言うのだ!
  ――彼女はどこからどう見ても、立派に我らの神に帰依した!
  ――それを貶めるとは、どういう了見か!

  おそらく、友人は女に惚れていた。そういった意味では、確かに骨抜きだったのだ。惚れた相手
 を悪く言われて怒らぬ者はいない。
  しかし、老人は友人のその様子を見て、それ見た事か、と言ったのだ。

    「稀代の悪魔祓い師であるお前がそのようになるなど、やはりおかしい。自分で分からぬというの
  なら、もはや手に負えぬ。大学に連絡を取り、新たな助けを呼ばねばならん。」

  老人は、顔を赤くして怒る友人に、そう嘯いたのだ。
  すると目に見えて友人が狼狽した。友人も、流石に今の己の状態――女と昵懇となっている様を、
 まさか神学校の人間に見られる事はまずいと思ったのだろう。要するに、それほど友人と女の中は
 深くなっていたという事だ。それが老人の嫉妬に更に拍車をかけた。

 「本当にあの女が既に神の膝元に頭を垂れていると言うのなら、それを証明してみせろと、儂は言
 った。」

  問い詰めてみよ、と。

 「誰かが疑っているのではなく、他でもないお前が疑っているのだ、と女に告げてみるがいい。決
  して追及の手を緩める事なく、泣き崩れても何をしても、糾弾してみせよ、と。さすれば間違い
  なく、女は真実を吐き出すだろう。儂は、奴をそう焚き付けた。それが出来ねば、やはりお前も
  悪魔に魅入られたのだ。そう言って、奴を女の元に行かせた。」 

  友人を袋小路に追い詰めたのだ。
  友人が一言でも出来ぬと言えば、やはりお前は悪魔に犯されていると言える。友人が女を問い詰
 め、矛先を緩めれば、やはりお前は悪魔に魅入られていると言える。
  あまりにも卑怯な、典型的な魔女狩りのやり方だ。
  しかし、老人はそれを友人に強要した。   友人は、女の元に行き、戸惑いつつもいつもの悪魔祓いのように激しい口調で女を糾弾した。

 「女は当初、ぽかんとしておった。それはそうだろう。今まで物柔らかであった奴が、唐突に豹変 
  したのだから。」

  友人に糾弾された女は、戸惑い、眼を見開き、やがて眼に一杯に涙を溜め、必死になって抗弁し
 た。

  ――いきなり何を言うのでしょうか。
  ――わたくしは貴方の言う通り、聖書を読み、そして神の眼差しを探しました。
  ――まだ神の眼差しは見つかりませんが、それが罪であるとおっしゃるのでしょうか?
  ――だとしたら、あまりにも悲しゅうございます。

     女の涙ながらの言葉に、友人は情を動かされたようだった。だが、そこで情を見せれば手緩いと
 言われる事は分かっていたのだろう。そういう意味では、確かに友人は弱くなっていたし、友人自
 身もその事に気が付いていたようだった。
  以前のような苛烈な悪魔祓いが出来なくなっている。
  それでも彼は糾弾を続けた。
  お前は本当に帰依したのか、と。何度も何度も同じ問いを繰り返し、女も何度も何度も同じ言葉
 を涙交じりに訴えるだけだった。
  だが、悪魔祓いとは、そういうものだった。
  被告人が頷くまで、同じ問いが繰り返されるのだ。友人が稀代の悪魔祓い師と言われたのは、彼
 が人一倍耐え忍ぶ事に慣れていたからだ。
  しかし、今回は、女もまた耐え忍んでみせた。
  三日三晩の激しい責めに、女は泣きながらも耐えた。苛烈な友人の言い分にも、何一つとして頷
 かなかった。
  そして、とうとう、友人はぽっきりと折れた。
  口にこそしなかったが、明け方の晩に見えた友人の眼は、女を信じる事で決まっているようだっ
 た。

 「友人の眼を見て、儂はすぐに神学校に連絡しようと考えた。そうすれば、友人が僧侶としてやっ
  ていけなくなる事は目に見えておったからのう。そして、儂にはそれで十分じゃった。これまで
  ずっと儂の上を歩いていた奴が、下に落ちる。それを見ただけで十分じゃ。奴がその後、女と逃
  げ出そうがどうしようが、儂には感知するところではない。」

  老人がそっとその場を立ち去ろうとしたその時、彼を嘲笑うように、静まり返った夜明けの部屋
 を、笑い声が打ちのめしたのだ。
  かかか、と。
  立ち止まって振り返った老人が見たものは。

  ――なるほど、流石流石、稀代の悪魔祓い師と言うだけの事はある。

  たった今まで泣き暮れていた女が、唇を捻じ曲げて嗤っている姿だった。

  ――上手く騙してやったと思ったのに、まだ正気を持っているとは流石流石、立派立派。
  ――また、お前にだけ手をかけていた私も、愚かであった。
  ――お前の友人とやらを、大した男ではないと放っておいたのが、私の敗因よ。 

  嗤いながら、女は身を翻して、部屋の隅に転がしていた石の像を拾い上げ、優しく撫で擦った。
  女の白い指の中で、それも、また、嗤っているようだった。
  友人と、そして若かった頃の老人を。

  ――けれども、お前達は、互いに互いで裏切ったのだ。

  女は、遂に大笑した。

  ――だから、結局は、我らの、勝ちよ!

     お前達の神など、お前達の裏切りさえ、止められなかった。
  女の哄笑と共に、まるで木偶のように突っ立っていた友人が、一瞬で獣のように唸り上げるや、
 手にしていた十字架を投げ捨てて、女に飛び掛かった。
  その一歩で女との距離を忽ちに詰めた友人は、鈍く光る歯を剥き出しにして、女から石像を奪う
 や、それで女の額を割った。
  一撃、二撃。
  友人が石像を振り下ろすたびに、赤い血が古びた教会の中に吹き上げた。だが、友人の手は止ま
 らない。辺りを文字通り血の海にしても、友人は女を殴る事を止めなかった。
  そしてそれは、女の笑い声も。
  美しい撒き毛が埃っぽい床に飛び散り、埃と赤い血が混ざりこんで襤褸切れのようになっても、
 女は笑い続けた。
  唐突に。

 「女の笑い声は、唐突に途切れた。」

  女は、嗤った顔のまま、死んでいた。
  けれども、友人は止まらない。血に飢えたかのように咆哮しながら、血塗れの石像を持ったまま、
 女達が巣食っていた、あの森へと駆け去って行った。

 「儂は、ぴくりとも動けなんだ。友人の心が壊れた事に恐怖と、けれどもその原因が僅かなりとも
  自分にある事に対して、その罰が自分に降りかかるのではないかと恐れて、動けなかった。」

  女を知らない友人は、初めて女に裏切られて――それどころか親友と思っていた老人にも実は裏
 切られていて、壊れてしまった。

 「それから、すっかり夜が明けてから、儂は王宮に赴いて、友人が森から帰ってこない事を騎士に
  話した。」

  自ら森に行かなかったのは、あらぬ疑いをかけられる事を恐れたからだ。

 「騎士達は、襤褸雑巾のように打ち殺された女達の死体と、木で首を吊っている友人を見つけた。
  友人の周りには、石の像が、散らばっていたらしい。」

  老人はその石をとにかく集め、王国の外へと追いやった。教会で浄化して貰うかどうにかせねば、
 間違いなくそれは延々とこの国を呪い続ける。老人が追い出した石像の幾つかは教会に行き、幾つ
 かは教会に行く途中で失われたという。
  ただ、山頂にある岩だけは、どうしても壊れなかった。誰かが削ったのだから、石鎚か何かで叩
 けば壊れるはずなのに、壊そうとしても、一欠けもしなかった。

 「そう、だから。だから、また同じ事が繰り返されたんじゃ。」

  老人の手が、震える。

 「儂らと同じように、嫉妬と、裏切りによって、あの国には災厄が降りかかった。あの、石像が壊
  れなかった所為で。若者が道を違え、国が滅んだ。」

  そして、国から出された、小さな石像達。
  幾つかは教会に行ったというが、その後浄化できたのか、話を聞かない。それに、行方不明にな
 った、その他の石像は。
  一体、何処へ。

 「あれは災厄を招く。あれには未だに、人の業が嘲笑いながら籠り続けておるのだ。」

  時間でしか雪げず、しかし人の数だけ業を飲み込む。
  延々と。

 「あれを見つけなければ。そうせねば、世界中で、同じような悲劇が。」

  だから、儂はそれを。
  捜しているのだ、と言い終える前に、老人の姿はすぅとランプに飲み込まれた。聖書も傍にない
 ランプの炎に。