山禍




  女は語り始めた。

  

 「わたくしが住んでいたのは、いえ、それは言う必要もございませんね。遠い遠い、しかも小さな
  国の事ですから。ただ、山と森に囲まれた国である、とだけ申しておきましょう。」

  交通の要所からは外れ、交易は月に一度、行商人が来るのみの、何処を歩いても田舎だらけとい
 う土地だった。山を開墾して作り上げた畑は、しかし痩せた土しか生み出せず、その日その日の食
 い扶持を生み出すのも精一杯だった。
  しかし、森の中はそうではなかった。青々とした木々が生い茂る森と、山には様々な野生動物が
 住んでおり、畑を作るよりも猟をしたほうが良いだろうと思うほどであった。

 「ですが、国の者達は皆、何故か山に入って猟をする事を良しとはしませんでした。」
 
  むろん、食うに困れば山に分け入って、鹿を打ち取ったり、山菜を探したりしなくてはならなか
 った。けれども、森の奥深くにまで分け入ろうとするものはいなかった。
  それには謂れがあった。

 「わたくし達の国には、有名な山が二つありまして。」

  西と東。
  特に名前は付けていなかったが、とにかくこの二つの山が、身近にあった。まるで双子のように
 並び立つ二つの山は、けれども一方で正反対の呼称を与えられていた。
  西の山には勇者あり。
  東の山には魔王あり。
  と。

 「いつ、誰が言い始めたのかは分かりませんが。」

  けれども、その様に言い伝えられていたのでございます。
  女は、二つの山を眺めているかのような眼差しで、そう言った。
  だが、確かに謂れはあったのだ。西の山は普通に鹿や狼が住んでいるが、東の山にはそれ以外の
 もの達が巣食っていた。群れる鹿の合間合間に、鬼火のような光が点滅するのを見たという者もい
 れば、奇妙な泡が獣の死体を吸い込んでいる様子を見たという者もいた。
  それも、一人、二人ではない。
  大勢の人間が、まったく別の場所で、奇妙に捻じれた獣達の姿を目にしているのだ。
  まるで悪魔か、或いは悪魔が作った動物のよう。神の御業からはかけ離れたもの達が住んでいる、
 と。ある時、騒ぎになったのだという。
  
 「わたくしが生まれる、ずっと昔の話でございますが、しかし時の国王は国民がそのような噂に惑
  わされるのを良しとしなかったのです。当然ですわね。以下に田舎とはいえ、神の家たる教会は
  この国にもあったのです。」

  神の御業に反するものが、この国にあるなどとはたわけた事。
  国王はそう言って、騒ぐ国民達に、いったい誰がそのような事を言い始めたのかと問い詰めた。
  教会の力は、当時強いものがあった。更に教会はその力を強いものとすべく、伝承や民話に詳し
 い老婆達を異教徒の教えを広める魔女として火炙りにしてきた。
  同じような事が、自分の国でも起こるかもしれない。
  国王がそう思っても不思議ではなく、そして国王がそれを回避しようとするのは至極当然の事で
 あった。
  故に、国王はそのような言葉を誰が一番最初に言い始めたのか、その者を御前に引きずり出せと
 御触れを出したのだ。
  とはいえ、噂は既に国中に広まっており、山の中で奇怪なものを見たという者も多数いる。最初 
 の一人を探し出すというのは容易な話ではなかった。
  だが、それでも一人の若者が、御前に引き出された。

 「……本当に、それが最初の一人だったのか?」
 「さあ?」

  問いかけに、女は困ったように小首を傾げた。さらさらと音を立てて、紫紺の髪が流れる。

 「それは誰にも分りません。皆が皆、東の山で奇怪なものを見たと言っていたそうですから、もし
  かしたら彼がそうであったかもしれませんし、或いは、他にも噂を撒いた者がいたのかもしれま
  せん。」

  ただ、と女は苦い笑みを浮かべて、噂の出所を差し出した者に懸賞が支払われていたそうです、
 と続けた。
  もしかしたら謀られたかもしれない若者は、城下町の外れにひっそりと住まう家族の長男であっ
 たという。森に入り、薬草を摘み、薬を売り細々と生活する彼らは、元々その国の人間ではなかっ
 たようだ。森を越え、山を越えてやってきた彼らは、もしかしたら何処か別の土地から追われてき
 たのかもしれないし、また元々この国にもそう長くは滞在するつもりはなかったのかもしれない。
  だから、好都合であったのだろう。

 「まるで、鋼鉄を鍛えたかのような眼と髪をしていたそうです。我が国の国民には、ない特徴でし
  た。」

  所謂、余所者を差し出す事になど、なんら躊躇いはなかったに違いない。
  弁護する者もないまま、若者は月の美しい夜に、広場で火炙りにされた。怪我や病をした時以外
 は関わり合いになろうともしなかったにも関わらず、処刑の見物人は多かった。
  娯楽のない土地でもあったから、当然かもしれない。
  いずれにせよ、一人の若者が真か偽かも分からぬままに、燃え尽きたのだ。
  大衆に悪魔の姿を見せ、惑わしたという事が、若者の罪状であった。
 
   「ですが、それならば若者が死んだ事で、東の山からの奇怪な噂も消えるはずでしょう。」

  だが、勿論、そうはならなかったのだ。見た、と言った若者が死んだところで、怪異は止まらな
 い。国民達はやはり、東の山には奇妙な生物がいると言い張る。
  奇妙な女達の姿を見たという。炎を纏った巨大な蜥蜴を見たという。巨大な蝙蝠のようなものを
 見たという。

 「噂は、止まらなかったのです。」

  だから、王は再び御触れを出す事にしたのだ。
  今度は、死んだ若者の家族を追放するように。彼らを東の山に追放し、彼らの手でその怪異を止
 めてみせるように、と。
  原因は若者ではなくとも、国王にはそうするよりも他なかったのだ。
  国王とて、奇妙な生物が東の山に巣食っている事を嘘だとは思ってはいない。自らの親衛隊の中
 にも、そのような事をいう者がいるのだ。自らの眼で見てはいないが、だが、自らの眼で見たらど
 うなるか分からない。
  国王が、一番、奇妙な生物達に恐れを抱いていた。
  それは生命の危機を感じる恐怖でもあったし、それらが本当にいると眼前に突き付けられた時、
 教会に対してどのような言い訳をすれば良いか分からないという自らの地位に対する恐怖だった。
 そして後者の恐怖が、兵士を山へ送り込まぬ理由であった。
  もしも兵士を山にやったら、事態は大事になり、教会の耳にも届くだろう。その時の処罰が怖か
 ったのだ。
  故に、償いと称させて、若者の家族を東の山に追いやったのだ。彼らの手で怪異を止めさせる事
 が出来れば、事態は小さく収まる事だろう。

 「ええ、実に愚かしい考えです。」

  若者の家族は薬師でしかなく、怪異に立ち向かう力などなかった。若者の年老いた母親と、小さ
 な弟と妹がいるだけだった。
  それでも、国王は当面を凌ぐ為にそうさせたのだ。

 「彼らは森へと追い立てられ、鬼火が灯る東の山に追いやられました。勿論、何一つとして彼らを
  助ける為のものは持たせてはやりませんでした。」

  むろん、住む家など東の山にはない。
  老婆と子供だけで凌げるような場所ではなかった。彼らが死ぬ事を見越して、国王はそうしたの
 だろう。

 「もしかしたら、生贄のつもりだったのかもしれません。彼らをくれてやるから、これ以上は出て
  きてくれるな、と。そんな身勝手な言い分が、怪異に通用する可能性など、ありもしないのに。
  それどころか、そうやって怪異を引き伸ばしにする事こそ、教会の教えに反する事だと言うのに。」

    しかし不思議な事に、それきり、怪異は起こらなくなったのだ。
  奇妙な生物は何処かに消えた。
  国王は、それ見た事か、と言った。あのような輩がいたから、奇妙な事が次々に起きたのだ、と。
 奴らは悪魔の手先であったのだ、それが滅んだ。良き事ではないか、と。
  しかし一方で、普通の獣達も東の山には現れなくなった。
  それについては、奴らの魔が残っているのだ、と国王は嘯いた。それ以上は興味がないようであ
 った。
  それもそのはず、その年は王妃が懐妊した年であったのだ。待望の王子誕生かと、皆が浮き足立
 っており、誰もが東の山の怪異など忘れていた。

 「出産は、何事もなく無事に終わりました。」

  美しい王女が生まれた。
  それからというもの、王妃は何度も懐妊したが、そのたびに王女が生まれた。

 「王子は、一人として、生まれませんでした。」 

  どれだけ望まれようとも、こればかりは神の采配。しかし古い家柄の中には、女しか産まぬ王妃
 にあらぬ中傷を与える輩もいた。
  王妃の家柄が悪いから、王子が生まれぬのだと。
  王妃の日頃の行いに問題があるのではないか、と。
  遂には離縁したほうが良いのではないかとまで言われ、王妃は苦しみ、辛い思いをしたそうだ。

 「そして、再び王妃は懐妊します。」

  そして、遂に、王子を生んだ。

 「死産でした。」

  そして王妃は、産褥で死を迎えた。

      「その頃からです。再び、東の山に怪異の噂が立ったのは。」
 
     奇妙な女達の姿を見たという。炎を纏った巨大な蜥蜴を見たという。巨大な蝙蝠のようなものを
 見たという。
  以前と同じような、奇妙な獣の噂。
  だが、それに一つ新たな噂が付け足された。

 「鋼鉄色の髪と眼をした、若者の姿を見たというのです。」 

  国王は逆上した。
  無理もない。それはまさに、自分が生贄にした一家の特徴であったのだ。しかも、それが王妃と
 王子を失った時に現れた。
  国王は、兵士を遂に東の山に送り込んだ。もはや、教会の事に構っている暇はなかった。いや、
 それよりも、もしかしたら自分にも怪異が降りかかり、命が奪われるかもしれないのだ。怪異を元
 から崩さねばならない。そんな考えに取りつかれた。
  兵士はすぐに東の山に登った。 
  そして。 

 「遺体を、二つ、見つけたのです。」 

  白骨化していたが、服装からして老婆と、少女のようであった。追いやられた一家のものだった。
 しかし、もう一つ、火炙りにされた若者の弟の姿が、何処にもない。
    代わりに、山頂に。

    「凄まじい力で抉られた岩がありました。」
 
     まるで人の姿に彫り込まれた岩は、もしかしたら素手で掘ったのだろうか。窪みにはっきりと血
 がこびりついていた。
  周りには一本の草も生えておらず、ただ、奇妙な骨が転がっているだけだった。明らかに食い散
 らかされた様子の骨を見て、兵士達は震えあがった。それは国民達が見たと騒いでいる怪異の骨で
 あったからだ。
  それを、食い散らかしているのは。
  瞬間、人型に掘られた岩の下部が凄まじい勢いで跳ね上がり、先頭を行く兵士が突き飛ばされた。
 突き飛ばされた兵士は岩肌を転がり、それきり動かなかった。首筋には、石を尖らせたナイフが突
 き刺さっていた。 

  ――ざまあみろ!この時を待っていた!

  岩の中から飛び出してきた黒い影が、哄笑した。人の形をしたそれは、鋼鉄色の髪を振り乱し、
 兵士達をねめつけた。
  その手には、固く刀剣が握りしめられていたが、よくよく見れば、柄を握る指は、第二関節まで
 削れていた。

 「岩を、その指で掘った所為でしょう。」

  怪異を食らったその口で、鋼鉄色の獣は、大きく吠え立てた。

     ――己れの家族はもう、戻らねぇ!だから、お前達も戻れねぇようにしてやるんだぁ!

  お前達が怯える怪異とやらを喰らって、そうして誰よりもお前達が恐れる存在になってやる。
  かつて少年であった獣は、叫ぶや、立て続けに二人の兵士の喉笛を掻き切った。その手管は、人
 間とは思えない。 
  もしや、怪異を喰らった事で、少年の中に怪異が溜まりこんでしまったのではなかろうか。
  だが、当時のその場に、そこまで考えられる人間はいなかった。恐怖に駆られた兵士達は我先に
 と逃げ出したのだ。大勢の人間が動き出したことで、あちこちで悲鳴が上がった。押され、押し潰
 され、仲間を踏みしだいて逃げ出す行動によって生み出された死者は、むしろ少年が殺した人間の
 数よりも多い。
  その事実を嘲笑い、更に煽るように少年の影は追い縋る。
  
  ――戻ったところで、どうにもなんねぇぞぉ!お前達の子供も、皆、食ってやるんだからなぁ!
  
  己れと同じ、男の赤ん坊を、ずっと殺し続けてやる。
  その時初めて、王妃が王女しか産めず、王子を生んでも死産であった理由が、少年の所為である
 と確定できたのだ。いかなる業によってか、少年はこの国に、滅びの呪いとして王家に女児しか産
 まれぬようにしたのだ。

 「少年には妹がいましたから、もしかしたら女児は哀れだと思ったのかもしれません。」
  
       とにかく、それ以降、王家には女児しか産まれなくなった。
  話を聞いた国王は、とにかく東の山を封鎖し、誰にも立ち入れぬようにした。
  その後、一人の僧侶がこの国を訪れたが、ただ一つ、首を横に振っただけだったという。手遅れ
 だ、と。時間以外にどうする事もできぬ、と。だが、恨み辛みは何度でも降り積もる。故に永遠に
 この呪いは解けない。

 「王家には、やはりその後も男児は産まれませんでした。女児しか産まれませんでした。ですが、
  王国は滅びませんでした。女児が代々婿を取る事で、滅亡を免れたのです。」

  女児は、その時に死んだ王妃の髪の色を代々受け継いでいる。忘れぬように、という、それも戒
 めに近い呪いなのかもしれない。
  女は、以上でございます、と呟き、深々と頭を下げて紫紺の髪を床に垂らした。

 「敢えて言い残すとしましたならば、私が、その王家最後の女児でありますことくらいでしょうか。」