石眼

 そうして、女は男に付き従った。
 戦が終わり、世が太平を迎えても、男の中にはぐつぐつと煮え立つ欲望が湧き立っている。
 もしも男の欲望が、例えば色で鎮められる類のものであったなら、付き従う女に手を出せば好いだ
ろうし、或いは金銀財宝を求めるならば商人としての才能を開花させる手立てもあっただろう。
 しかし、生憎と男の欲望はそんな並々としたものではなかった。そうそう容易く鎮められる欲望が、
素足で炎を踏み躙るほどの気迫を生み出せるはずもない。
 男の欲望は、平時においては満たせぬ類のもの。 
 男の欲望は太平の世の中で満たせるものではなかった。戦人が戦のない世では生きられぬように、
男の望みは血と死臭漂わぬ地においては花咲かぬものだった。
 いずれは、蕾のままで腐り落ちてしまったかもしれない。戦人が用無き者として沈み行くように、
男もまた、鬱々と生きるしかなかったかもしれない。
 けれども、それを良しとしなかったからこそ、男は焼け落ちる城に飛び込み、女の持つ石を手に入
れたのだ。

 ――お前様。

 女は、戦の爪痕がまだ残る、けれどもしばらくは火種が上がる事はないであろう道を歩く男の背に
語り掛けた。

 ――お前様は、どこぞで石の事を聞いたのかえ?

 女が呪いに使った石は、それほどまでに高名なものであったのだろうか。それを、眉唾物とは思わ
なかったのか。

「妾とて、その石をまっこと本物とは思うとらなんだ。」

 女は口元を奥義で隠しながら笑う。黒い眼が、にい、と吊り上がる。

「しかし、しかしよ。玉藻の前が石とかした、殺生石の事もある。お主も知っていよう?あの、かの
有名な中国から渡ってきた女狐よ。帝を誑かし、その寵を受けたが正体を知られ、最後は殺され石と
変じた、あの有名な伝説。」

 女は、自らも玉藻の前と同じように、時の権力者にすり寄った。女の場合は望まれて、己が家を焼
き払った権力者に輿入れしたのだが。
 しかし、理由は違えど男を絞りつくそうとしたところは一緒である。

「石を持ってきた商人は、妾に、この石は毒気を放つ岩より削り取ったものだと言うた。異国の、神
を象った像の欠片であるとな。」

 商人の口上ほど当てにならぬものはない。まして、こういう呪い物であると。そもそも毒気を放つ
岩など、まるで殺生石そのものではないか。
 しかし、それが女の心にすとんと落ちた。商人は自分の考えを読み取っているのだろうかとも思う
ほどに、己の立場に見合ったものである気がしたからだ。
 そして、
 
「玉藻御前は途中でばれて失敗したがの。妾はやり遂げた。」

 権力者の胤は絶えた。

「しかしその話をどこで、と思うた。」

 男はそれを何処で知り得たのか。果たして、あの商人が喋ったのか。ならば、やはりこの石は本物
の禍物なのか。
 男は、ちらりと女を見た。女の豊満な肉体になど欠片の興味もない、熱のない瞳だった。

 ――なに、そういうのは、分かるものよ。

 女のかつての身分を知っていないわけではないだろうに、男の女への態度は、ぞんざいそのもので
あった。女を、ただただ、一人の色ある手駒としてしか見てない。
 女の美貌と身体を求める輩は大勢いた。如何に冷血と言われようとも、肉体的な欲望には敵わぬ。
血の通わぬ眼をしていても、欲で眼がぎらつく様を何度も見てきた。
 だが、ぎょろりとこちらを見やる男の眼は、些かの熱も籠っていない、まるで蛇か蛙と相対してい
るかのような眼差しだった。

 ――呼ぶ、とでも言おうか。

 男は、その掌の上で、石を転がす。石は、女の元にいた時よりもずっと馴染んで、その武骨な指に
弄ばれているようだった。

 ――儂を、呼ぶ声が、したのよ。
 ――こちらへ、来い、とな。

 立身出世とやらが持て囃された戦乱の世だが、しかしそれが本当に上手くいったのはごく僅か。本
当に、水しか飲めぬ人々には、そこから抜け出す事さえ許されぬ。槍で脇腹を刺され、肉の盾と化す
のが関の山だ。 
 男も、そうだった。
 肉の盾として命を終えるはずだった。

 ――そんなこと。

 男は片頬を歪めて笑う。

 ――誰が受け入れられるものか。

 圧倒的な死臭が、男から漂った。それは正に、毒気。殺生石からも同じように毒気が漂うと聞くが、
ならば自分ではなく、この男のほうがむしろ玉藻の前に近しいのではないか。
 たじろいだ女を、男は小馬鹿にしたように嗤う。

 ――小奇麗に整えられた女共も。
 ――派手派手しい兜甲冑を身に纏った大名共も。
 ――奥で涼しげな顔をした公家も。
 ――己の身を嘆くだけの儂の父母兄弟も。
 ――儂には憎いだけでしかない。

 全てが、悉くが、踏み躙って粉々にし、どうしようもないほど手遅れで誰にも手が施せないほどに
壊してやりたいのだと。
 男は言った。
 自らを頂点にし、そして己を支える土台を踏み潰し貫き、崩してやりたいのだ。己も共に崩れ落ち
ても構わないのだ。

 ――儂は、この国を、天下悉く、完膚なきまでに沈めてやりたいのよ!

 石のような眼で、男は叫んだ。その声は正に瘴気に近く、男そのものが殺生石であるかのようだっ
た。
 もの皆すべてが、天下を治めるのだと豪語していた時代から取り残された男の望みは、天下の縁ま
でを突き崩すことだった。
 しかし戦乱の世は終わり、男が台頭する術はない。眼の前に広がる道は、喧噪が鎮まりかけている。

 ――別に、今である必要はない。

 男は、嗤う。長物のような眼で、嗤う。
 ようやく手に入れた平穏は、誰しも奪われたくないだろう。男が如何に鎌首を擡げようとも、この
国が挙ってそれを廃しようとするはずだ。疲弊した人々は、もはや争いを求めない。まして、破滅へ
の序曲など。
 けれども、平穏はそうそう長くは続かない。いずれ、その鎖は破られる。
 その時こそ。

 ――儂の、乱世よ。

 ちろり、と口の中で、うっとりするほど朱く、長い舌が蠢いた。そしてその時ようやく、男の眼が
玉石のように光を灯した。
 一瞬だけ。微かに、ぎらりと。