煉石
 消え失せた男の影の跡に、一筋だけ闇が残される。最初は揺れる蝋燭による陰影かとも思ったが、
そうではない。何もない場所で震える影は、主を持たず、左右に揺れ動く。
 大きく、小さく。
 振れ幅は次第に広がり、一筋と思われていたものは激しい弧を描き、床の上でのたうち始めた。
 まるで、蛇のよう。
 こちらのそんな心裡を読み取ったのか、影の蛇はざわりと床に広がり這った。鎌首を擡げて、こち
らを見る。
 しかし、鎌首と思われていたそれに眼はなく、床に散らばるそれらが髪の毛であると気が付いた。
長く波打つ、女の髪だ。
 それに気が付いた時には、ただ影が揺れ動くだけだった床の上には、しっとりと女が一人、科を作
っていた。脚を投げ出し、腰をくねらせて。赤い紅を差した唇は、その上で咲いた二つの黒い眼とこ
ちらの眼が重なるや、口角が持ち上がった。

「ちと、邪魔をさせてもらうぞ。如何せん、外は寒ぅてな。」

 独特の言葉遣いでこちらに婀娜っぽい視線を向ける様は、艶やかではあったが、それ以上に横柄で
あった。

「少々人に追われておる身でな。何、逃げ切れるとは思うのじゃが、息が切れて此処に駆け込んだわ
けよ。息が整い、風が治まれば、また行かねばならぬ。」

 追われている、と言う割にはあまりにも危機感のない姿だ。手には扇を持ち、身体は今にも横にな
れるほどに傾けている。ただ、誰かに追われているのでもなければ、このようなうらぶれた小屋に立
ち入るような身分ではない風情があった。

「ふ、ふ、ふ。童のような者が、何故このような場所まで追われているのか、不思議で堪らぬといっ
た顔よな?よかろう。風が止むまでの間、話をしてやろうぞ。」

 吊り上がった女の口角が、揺れる蝋燭の炎に合わせて、頬まで避けたように見える。正しく、蛇の
ようだ。その事に女は気が付いていないのか、笑みを口から消そうともしない。

「妾は、まあそれなりにやんごとない家の出でな。それこそ花よ蝶よと愛でられたものよ。男共はも
の皆、妾ぼ機嫌を伺いにきおっての。」

 しかし世は乱世。
 やんごとない身分と言ってもそれは、たかだが百年程度で培われた家柄でしかない。帝のように千
年の血脈を得ていたならば自然と権威が生じようが、百年の家では権力はあってもその威光に人々が
平伏す事はない。それよりも尚巨大な権力が現れれば、そこで途切れてしまう。

「妾の家も所詮はその程度のものであった。乱世に産まれたからにはそれは受け入れるべき定めであ
るが、しかし内々に芽生えた憎しみは、そう簡単には消えぬもの。」

 戦によって父は首を刎ねられ、弟は処刑され、残された女達は新しい権力者達に切り分けられた。
 女の定め。
 しかし中に息づいた憎しみは消えず、まして自らの家を潰した男共の物になるのだから、腹の底に
含むのはどす黒い復讐しかない。

  「なんとしてでも、彼奴らを踏み躙ってやりたかったのよ。妾と、妾の一族が味わった苦しみを、更
に幾重にも重ねて頬張らせてやろうとな。」

 昼間は腹の中で呪詛を繰り返し、夜ともなれば床下であらゆる呪いを吐き散らかした。微かに耳に
届く噂話の中から、少しでも憎しみを晴らす術があると聞けば、慎重にそれを取り寄せた。その、悉
くが効果がないものだったのだが。
 しかし一つだけ。

「一つだけ、本物の禍物があった。」

 一見するとただの石だったのだが。

「笑えるほどに、小さな石ころじゃった。指で摘まみ上げられるほどのな。屋敷の中で愛でられてお
った頃の妾ならば、それこそ歯牙にもかけなかったであろうよ。」

 いや、眼にも留めなかったに違いない。差し出されたなら、怒って投げ捨てていたかもしれない。
 しかし、辛酸を舐めたが故に、その石の持つ禍々しさに気が付いた。

「ああ、本物だ、と。」

 石から放たれる、女の嬌声のような気配に、はっきりと悟った。何よりも、石そのものが、確かに
語り掛けてきた。
 女には分からぬ、けれども何を言っているのかは分かる、不可思議な声で。

「なんと言ったかは、知らぬ。けれども確かに、妾に力を与えた。何せ、妾が望んでいた通り、妾の
家を潰し、妾を辱めた男の血筋は途絶えたのだからな。」

 男そのものは大往生であったが、しかし男は自分の世継ぎを思うようには作れず、男が死んだ後、
せっかくどうにかして作り上げた世継ぎも天下を極める事無く腹を裂いた。

「なんとも嬉しや。我が復讐は叶ったのよ。」

 女は、それはそれは嬉しそうに、まるで童女のように楽しげに笑う。口元をようやく扇で隠し、蛇
の笑みを隠す。けれども、口の代わりに今度は眼がぱっくりと裂けている。
 そして、扇の向こうにある隠された唇が、囁く。
 けれどもそれは、新たな修羅の始まりよ、と。

「石を欲しがる輩は大勢いた。妾にはもう必要ない。けれども妾は燃え盛る城の中にいた。誰も取り
に来れるはずもない。」

 そのはずだった。
 しかし、城と、憎い男共の血筋と共に燃え堕ちようとした女の前に、ふらりと男が現れた。城の家
人ではない。女の知らぬ、素足の男であった。
 素足でここまでやって来たのか、爪の先は灰と焦げで真っ黒だった。時折漂う肉の焼ける臭いは、
男の足の裏が焼けたそれだったのかもしれぬ。けれども、男は焼け付く痛みなど素知らぬ顔をしてい
た。
 いっそ、涼し気、とでも言おうか。

「それを見て思うた。ああ、こやつは妾と同じ輩よ、と。」

 業を背負わされ、それを降ろす事を良しとせず、呑み込んで五臓六腑全てで世界に吐き返そうと企
む眼。
 眼だけが、涼しげな顔の中、ぎらぎらと照りつけている。
 その様が、異常なほどに艶めかしく。

「男は知っておる。けれども男に艶めかしいと感じたのは初めてよ。」

 自分の身体を辱める男共しか、或いは己の駒である男しか知らぬ女が、初めて艶を感じた男。

「だから、妾は男が望むものを差し出した。」

 男が欲しがっていたのは、女が持っていた石だった。それ以外に欲していたのは、女と同じく自分
の手足となる駒だった。女は自らを駒として男に差し出した。

「恋じゃ。妾は戦乱の女よ。恋など知らぬ。だが、炎の中に素足でやって来た男に、」

 ようよう恋をした。
 男が焦がれていたのは、女ではなく、禍う石であったが。