赤影



 かたり、と小屋の外で音がした。風が小屋の壁を打ったのだ。それに合わせて、ランプの炎がひら
りと揺れる。炎の揺らぎに合わせて、小屋の中に出来た陰もゆらゆらと揺れた。
 しかし、それとは対照的に、語る男の身体は微動だにしない。微動だにせず、ただ苦い表情を面の
ように張り付けて前方を睨み付けていた。

「頭目からその代を譲り受けるであろう時期に、私は一つの仕事を請け負った。それは、とある要人
 の救出だった。」

 何者かに囚われた要人を、無事に救い出してほしいと、そういう仕事が頭目直々に降ろされたのだ。

「この国の未来が掛かっているのだ、と、そう言われた。」

 そういう言葉は、この仕事に入ってからよくよく聞かされてきた言葉だった。何か仕事を請け負う
たびに、依頼人達は大袈裟になしかめっ面で、これはこの国の根幹に関わる事だから、と言ってきた。
 確かに男が生まれた頃合いは、時代の変革期とも言える時期だった。振り返れば、正にそうとしか
言えぬ歴史の一端だ。だが、ちょうどその時期を生きていた時分には、分からぬことである。
 特に、仕事に慣れてきた、一人前の顔をするようになった若造の頃などは、依頼人の言葉など皮肉
めいた気分で聞いていたものだった。何言ってやがる所詮は人殺しの仕事じゃねぇか、と鼻先で笑っ
ていたものである。
 長じてからは、そこまで皮肉めいた気分にはならなくなって、淡々と仕事をこなすようにしていた
が、けれどもやはり心の何処かで、大袈裟な、と思っていた。

「だが、この仕事は違っていた。掛け値なしに、国を左右する任務であった。」

 頭目直々に、神妙な顔で仕事を降ろしてきたのだから、間違いがない。
 失敗は許されぬ、と。
 これまで一言も、そんな有態の言葉を吐かなかった頭目が、言い放ったのだ。失敗が許されぬ事な
ど自分達の仕事には当然の事。故にわざわざ言う必要もない。だが、それをわざわざ頭目が口にした。
それはつまり、正に言葉通りの任務なのだ。
 あまりにも重苦しい気分になる仕事に、最初は自分が行こうかとも考えた。
 だが、男がそう言うのを制したのは、やはり頭目だった。年老いていても、今なお眼力は衰えぬ事
のない頭目は、その眼の一睨みで、男の挙手を制した。

「私は有名になりすぎている、と。それが頭目の言葉だった。」

 子供の頃から剣に秀でているが故に殺しに使われてきた。故に、どうしても男はその筋では有名に
なりすぎている。顔を隠していても、気づかれる可能性が高い。
 ならば、無名の者を使え、と。
 時期頭目として眼をかけてきた男が、このような任務で足を踏み外す様は、頭目も見たくはなかっ
たのだろう。かつては男も駒でしかなかったが、既に大将格に乗り上げている。その代りはいないが、
駒の代わりはいる。

「だが、失敗は許されぬと厳命された任務に、下手な輩を入れるわけにもいかぬ。」

 考えた末に、男は一人の、まだ少年と言っても良い手下を任務に当たらせる事にした。少しやせ過
ぎの、しかし剣に秀でた少年だった。
 それはまるで、子供の頃の自分のよう。

「私自身そう思っていたから、その者を良く使っていたのかもしれない。」

 自分達の仕事に、情は不要。だが、それでも手下には眼をかけてしまう。男は一人危険な任務に向
かうその少年に、自分の刀を預けた。かつて才能の在処を知らぬ時期、間違った場所で自分が打った、
鈍ら刀だ。人を殺すには向かない刀。
 それを預けたのは、少年がこれから向かう先に、微かな陰りが見えたからかもしれない。香り立つ
血の朱を嗅ぎつけたからかもしれない。
 しかし、人を切らぬ剣は、結局何の役にも立たなかった。

「後悔先に立たずとは良く言ったものだ。」

 あの時、頭目に逆らってでも少年を止めていれば、あの惨劇は起こらなかったのかもしれない。
 任務に失敗したのか、と問えば、違うと男は首を横に振った。失敗などせぬ、と。失敗など起こり
えなかった、と。
 それどころか、

「いっそ失敗したほうが、良かったのかもしれぬ。」

 淡々としていた男の声に、始めて嘲りのような感情が混ざった。

「要人は救出できた。」

 だが、救出された要人の眼差しが。
 まるで、自分を救い出した少年を化け物でも見るかのような眼差しで、見ていたのだ。確かに褒め
られる仕事ではないが、しかし救出した者に対してその眼差しはないだろう。
 男がそう憤るよりも先に、目線は少年が腰に帯びた一振りの刀に奪われた。
 かちり、と視線がそこに組み合わさったかのように、刀から目が離せなくなった。
 油の滴るような光沢のある刃先に、すらりと伸びた乱れ刃に、細かな工のある鍔に、朱塗りの上に
漆を塗りたくったような、艶めいた臙脂の色合いの鞘に、ああ美しいと確かに思った。だが、その一
瞬が通り過ぎ去った後の心に残ったのは、怒涛のおぞましさだ。
 ねっとりと身体に纏わりつくような――かつて頭目が言った、嫉妬する女の嬌声のようなという表
現が今なら分かる――鼻先にまでこびり付く圧倒的な不快感。吐き気を催すほどの、嫌悪感。

「その時、はっきりと、分かった。」

 黒ずんだ石鎚が、最後に打った刃が、何処にあるのか。鍛冶屋の若者が、親方と許嫁を撃ち殺した
石鎚によって打たれた刀が、何処に行ってしまったのか。ようやく分かった。
 禍物によって作り出された禍物。
 それは、少年の手の中に転がり落ちている。

「そして、要人が何故、奴を化け物のように見ているのか、察した。何が起こったのかも。」

 要人も、世間という荒波を越え続けてきた男だ。きっと、少年が手にした刃が、人間が手にして良
いものではない事を、即座に見抜いたのだろう。あれは、ただ人を斬る為だけの、血に飢えた化け物
だ。

「奴が剣を何処で手にしたのかは分からぬ。ただ、魑魅魍魎跋扈する場所であったらしいから、そこ
 を好んで剣のほうが場所を選んだのかもしれぬ。そして、奴は化け物の中で、最も化け物たる物を
 選び、手にしてしまった。」

 男が己の生き方を選ぶ切欠となった鈍ら刀ではなく、人を斬り捨てる事しか示さぬ刃を。
 少年が歩いた跡は、悉くが血の海で埋め尽くされていたという。彼は、無抵抗の女子供まで、無差
別に斬り殺していったのだ。最期、そこで息をする者は、少年と、要人だけだった。
 少年は、確かに見事に任務を一人でこなしてみせたのだ。 
 そして大きく失敗したのだ。

「我らの仕事は、影に徹する事。草葉に忍び、月ですら友ではない。」

 少年は、そこから大きく逸脱した。
 剣の腕が立つ。それ自体は必要な事。けれどもそれ以上に、身を隠す事、正体を悟られぬ事が肝要。
男もそれだけは忘れなかった。剣の腕は男の生きる道であったが、それだけでは生きていけぬ。
 しかし、剣の化け物は違う。あれは、殺す事しか知らない。それ以外の路を知らない。

「奴は、我等と共には生きていけぬ。」

 だが、他の場所でも生きて行けまい。

「私は、奴を殺さねばならぬ。行かしてやるわけにはいかぬ。我が剣は奴の路を切り開く事は出来な
 かった。ならばせめて、奴の路を切り捨ててやらねば。」

 行かねば。
 男はそう言い置いて、音もなく立ち上がった。瞬きをした瞬間には、その姿は影であったかのよう
に消えうせていた。