忌槌   



  鍛冶屋が槌を持っているのは当然の事だった。だが、それを見た時少年は、珍しいと思った。金
 槌ではなく石槌であった事が、珍しかったのだ。決してないわけではないが、しかし鍛冶屋は基本
 的には金槌を握る。石槌は、刀を打つにはもろすぎる。
  しかし、若いが良い鍛え直しをすると言う鍛冶職人は、その槌を愛用しているようだった。柄の
 部分が握りしめられで黒ずんでいる事からも、明白だった。
  だが、その黒ずみに、何とも嫌な予感を少年は抱いたのだった。
  きっと、そう言った汗だくになって働く炎のような小屋の中から出ていき、代わりに血濡れとな
 る世界に飛び込んでしまうから、人間の垢だとかが嫌になったのだろう、と少年は思った。血濡れ
 と垢塗れだと、血濡れのほうが本来は嫌なはずなのだが、しかしそれに慣れつつある少年は垢のほ
 うがよほど汚いと思えたのだ。
  だが、他の職人達が握る金槌の黒ずみは気にならないのだから、不思議なものだ。
  しかし、若者が槌を手にしたまま、こちらに近づいてくるのを見るにつれて、本当に目も合わせ
 ていられないほどに嫌気が差したのだ。自分の斜め前で若者と歓談している長は、気にならないの
 だろうか。
  じり、と背中に汗が伝うほどに疎んじながら、出来る限り若者の持つ槌から眼を反らし、とにか
 く、長の用事が済むのを待つ事ばかりを祈っていた。
  やがて、ようやく長が若者と話すのを終え、代わりに奥にいる親方と話しかけた時は、心底ほっ
 としたものだった。

 「親方の槌も、対して綺麗なものではない。むしろ、誰よりも年季を帯びていて、黒ずんでいる。
  だが、それに対して私は何も思わなんだ。とにかく、若者の持っている石鎚を見るのが、嫌で嫌
  で堪らなかったのだ。長が、冗談半分とは言え、私の鈍ら刀を打ち直して貰ったらどうだと言っ
  たが、心底勘弁願いたかった。」

  長が用事を済ませ、ようよう鍛冶屋を後にした時は、やっと逃げられると思ったものだ。背中に
 は鍛冶屋特有の炎の熱さの所為ではなく、脂汗のような嫌な汗がだらだらと伝っており、非常に気
 持ちが悪かった。

 「私のそんな様子など、長は端から感づいておったのだろう。」

  先を歩く長は振り返り、汗をかいている少年を見やると、薄く笑ってみせた。

  ――ほう、お前に分かるか。

  口角を持ち上げるだけの笑いを浮かべた長は、少年が何に対してそこまで嫌悪を抱いているのか
 分かったらしい。つまり、長も知っているのだ。あの若者が持つ石鎚の事を。

  ――天性の剣を持つ故にかは分からんが、あの気配には、よう気が付いた。

  長は、若者が持つ石鎚の黒ずみの事を、気配と言った。
  そう言われてみると、確かにあの石鎚に対する嫌悪は、そこから放たれる気配に対してのもので
 あると、しっくりと納得できた。
  ねっとりとした、身体に纏わりつくような、饐えたような。

  ――何故あの石鎚があんな気配を醸すのか、それは儂にも分からん。
  ――あの若造が、あんな物を何故持っているのかもな。
  ――いや、大体の想像はつく。
  ――大方、人間の業に飲み込まれ、あんな物を求めたのだろうよ。
  ――ああした禍物は、そうした感情を、よう好む。
     はたと見る限りでは、石鎚を持った若者は目元の涼しげな、至って好青年と言わんばかりの様相
 だった。だが、その皮を一つ剥いてみれば、どろりとした物が流れ出てくる。
  まだ歳を経ていない少年には、その辺りの人間の機微などは分からなかったが、裏の人間として
 生きて既に幾星霜の長には、若者の皮が薄い物である事を見抜いていたのだろう。

  ――しかし、そうだな、お前にはあれがどのように感じた?

  ねっとりとした、身体に纏わりつくような、饐えたような。
  そんなものだと答えると、長は声を上げて笑った。

 「当時、私は女の肌も知らぬ小僧だった。今になれば、あれが女の嫉妬に似たものであると理解で
  きる。」

     何も知らぬ少年の言い分に、長はただ笑った。そうして、いずれ分かるだろうとだけ言った。
  しかし少年にとっては、そんな事よりもあの若者にまた会う事があるのかという事のほうが問題
 だった。
  それに対して、長は、是と答えた。

  ――あの石鎚は確かにおぞましい。
  ――しかし、故に鈍らな刃も、凄まじい一品に返る事が出来るものよ。

  そんな刃は使いたくない。
  使えば身を亡ぼす。
  少年は、天性の素質からそれを察知していた。獣の勘ではあったが、口を尖らして長にそう言っ
 てみたものだ。
  すると長は、再び流石と言ったのだ。

  ――安心せい、儂らとてあんな禍物で打たれた刃など持ちとうないわ。
  ――任務の真っ最中に相手の喉元を掻っ捌いたと思うたら、己が首だったなど御免だからな。
  ――あれは、敵に送りつける為の刃に使うものじゃ。

  お前のように鼻の利かぬ、高価そうな刃を飾る事を喜ぶ腑抜けた敵に、贈り物として渡すものだ
 と言い放つ。
  こちらが切るべき対象の輩に、それを送り付けておけば、勝手に切り刻まれる事だろう。
  それは酷く非現実的な事のように思えると同時に、あの石鎚に打たれた刃ならば有り得る事だろ
 うとも思えた。
  とはいえ、そんな刃が幾つもあったら逆に困るのではないか。その刃は持ち主はおろか、こちら
 までも切り落とす事だろう。
  だが、長はむろんそんな事は百も承知だった。

  ――あの石鎚が、それほど長くあの若者の手にあるとは思えんがな。

  禍物は、確かに手にした人間に限りない力を与えてくれる事だろう。しかし、一方で人間の業を
 飲み尽くし、搾り取ってしまうはずだ。そういう因果なのだ。あの石鎚は、近いうちにあの若者を
 搾り取って空っぽにしてしまうだろう。そして、新たな獲物を求め行くはずだ。
  長は、飄々とそう言った。

  ――お前も、この世界に身を投じた以上は、そういった禍物をこれからも見る事があるだろうよ。

  それを見ても己が物にしようとせぬ事が肝要だ。
  長は、その時だけ薄い笑みを引っ込めて、微かに声に力を込めた。それは、天性の剣の素を持つ
 少年を惜しんだから放たれた言葉であるのか、未だに分からない。

 「それから長の言った通り、私は何度も、あの石鎚のような禍物に出会った。だが、決してそれを
  己が物にしようとは思わなんだ。中には妖刀もあって手元に置きたいと思うほどのものもあった
  が、しかしそれを手にした時の末路は、よく分かっていた。」

  何故ならば、やはり長の言った通り、石鎚を手にしていたあの若者が、鍛冶屋の親方とその家族
 を滅多打ちにして殺した後、己の頭蓋をも打ち砕いて絶命していたのが見つかったからだ。
  後々聞いた話によると、若者は親方の娘と結婚する予定であったらしいのだが、娘のほうが一方
 的にそれを破棄したそうなのだ。なんでも、娘は殺される数か月前から、若者が恐ろしいと周囲に
 言っていたらしい。

 「おそらく、その娘には、若者の手にしてる石鎚の気配が分かったのだろう。」

  人の業を飲み尽くす、禍物。
  若者は娘が結婚を破棄した時、神妙な顔をしてこういったと言う。

  ――怯えさせてしまうという事は私の腕が未熟故の事。
  ――私から凶の気が消えるまで、お嬢さんとの結婚はなかった事に致しましょう。

  それから数日後、若者は凶行に及んだのだ。
  あの石鎚で、親方と、娘の頭蓋を、打ち砕いた。その頭が一体どのような形であったのか分から
 ぬほどに。炎ではなく、血によって、辺りは真っ赤に染まっていたという。
  そして、辺りが朱に染まり尽くした後、若者は己の頭をも打ち砕いた。何ら躊躇いなく、一撃の
 もとでこと切れるほどに。事実、若者は額に一つ、巨大な窪みが出来ていただけだった。

    「気になる事と言えば、彼らの頭蓋を砕いたであろう鎚が何処にもなかった事。」
 
     凶行の行われた鍛冶屋では、凶器を探したが、何処にもそれらしい物は落ちておらず、また若者
 の石鎚も消え去っていたという。
  そしてもう一つ。

 「その若者は、前日にとある刀を石鎚で打ち直していた。その刀も何処かに消えうせていた。」 

  持ち主が引き取りに来た形跡はない。
  では、何者かが持ち去ったのか。
  しかし、何の為に。

 「金欲しさ故に持ち出して、売りに出したと言うのならまだ良い。いや、それでも誰かの手に渡れ
  ばおそらくその刃は凶行を行うだろう。だが、知らぬから持ち出したのではなく、知っていて、
  その刃を盗んだのだとしたら。」

  鍛冶屋には他の刀も置いてあったという。だが、それらは一本たりとも失われていなかった。な
 らば何故その刃だけが消え去ったのか。
  それとも、刃が人を呼んだのか。
  消え失せた石鎚と共に。

 「石鎚の行方は、終ぞ分からなかった。しかし失われた刃であろうものは、ほどなくして私の目の
  前に現れた。」

  語る男から、顔は見えないが、確かに苦いものが広がった。
  少年が、既に歳を経て男となった時、男は組織の中でも幹部になっていた。長は健在であったが、
 男に指揮権を移そうかという時であった。
  男は一人の少年を使っていた。その少年に、一つ任務を任せた。そして少年は任務を終えて戻っ
 てきた。
  その手に、一振りの刃を携えて。