人夜




  いつの間にか日はとっぷりと暮れていた。
  さっきまで明るいと思っていたのに、気が付いた時にはあたりは完全に暗くなっており、潜んで
 いる小屋の中には、外よりも更に早い頃合いから闇が蹲っていたようである。
  日がなくとも明るかった黄昏時は、しかしそれ故に闇が忍び寄る瞬間を完全に捕える事は、冬の
 日よりも困難であった。
  夏の夜の到来は、遅い。
  しかし、夜に飲み込まれるのは一瞬の出来事だ。
  まして、こうして小屋に潜んでいるのなら猶更だろう。元々明かりが差し込みにくい小屋の中で
 は時間の経過も判然としにくかった。
  だが、それはそれで良い。
  時間の経過など、今はどうでも良い事であった。いや、決して忘れても良い事ではないのだが、
 しかし些末であると言えばそうであった。ただ、闇に乗じて誰の眼にも触れずに遠くへ駆ける事が
 出来ると言うのなら、大事な事ではある。
  暗い小屋の中から、同じくらいの闇を纏った外を眺める。
  四角い視野から見た景色は、本当に暗く、空と地面の差が分からぬほどだった。
  闇夜、なのか。
  昼間は煌々と日が照っていたから、天気が悪いという事はなかろう。では、今夜は新月だったか。
 暦を、或はいつかの空の模様を思い出そうとしたが、まるで頭の中に霧がかかったかのように曖昧
 模糊としていて、果たして昨夜の月の形がなんであったのか、遂には思い出せなかった。
  しばし小首を傾げて、色々と考えだそうとしていたが、何も思いつかぬまま、結局それ以上の思
 考を放棄する。
  どだい、これ以上考えたところで良い案は思い浮かばないだろう。
  それどころか、この夜の中、闇を纏って駆けていく事も、なんだかとても困難な事に思えてきた
 のだ。
  闇に乗じて遠くへ向かう事は諦めて、小屋の中に放置されっぱなしだったランプに火を点ける。
  途端に、小屋の中に丸い黄色い明かりがふわりと広がった。小屋の中はとても小さかったから、
 そんな光だけで十分に明るかった。だが、一つ明かりが灯った所為で、小屋の中に蹲る闇は尚深く
 濃くなったようでもあった。
  ランプの炎が揺れ動くたびに、同じように蠢く闇を一瞥し、埃だらけの床の上に落していた毛布
 を拾う。少し落としただけで、それはもう汚れていた。しかしそれを気にしているほど、余裕があ
 るわけでもなかった。夏とはいえ、夜は冷える。毛布がなければ、少し辛いところであった。
  毛布に包まり、再びランプの炎の前に居直った。揺れる炎は酷く頼りなかったが、同時に酷く明
 るかった。おそらく、建付けの悪いこの小屋の隙間から、光が零れている事だろう。
  それを見て、誰かが小屋を訪ねてくるのではないだろうか。
  ふと、そんな事を思った。
  長く長く歩く旅人には、小さな小屋でさえ――岩に立てかけられた一枚の木の板でさえ――有り
 難い宿となる。もしも零れ出る光を見たら、一目散に駆け寄ってくるのではないだろうか。
  しかし、同時に性質の悪い盗賊が潜んでいると思わないだろうか。旅人にとっての一番の敵は、 
 実は人間である事が多い。善良な顔をして、実は皮を剥いでみれば人殺しであるという事だって、
 少なくない。
  逆に、この小屋に立ち寄ろうとする者もまた、善良なる旅人であるという確証はない。心と身体
 を休めて身を潜める旅人を狙う盗賊であるかもしれないのだ。
  或るいは。
  此処に来る途中、この荒れ野の手前に蹲っていた老人は、ふつふつと呟いていた言葉を思い出す。
 まるで泡のように掻き消えて潰れてしまいそうな声だった為、今の今まで忘れていたのだが、脈動
 する闇と、忍び寄る気配にを感じて、緩やかに思い出した。
  もともと、この土地は人間が住まう場所ではないのだという。元来精霊だとか何だとかいう、ど
 こか胡散臭げなものが蔓延る土地であり、人々は足を踏み入れる事を恐れ、禁足地としていたのだ
 とか。
  だが、勿論そんな事は時代の流れと共に消え去っていく伝統であり、誰も老人の言う事になど耳
 を貸さない。
  しかし、老人は口を紡ぎ続けた。
  精霊が集う、しかしそれ以上に悪鬼邪気が流れ込む地は、聖地であるよりも何よりも、忌地なの
 だ、と。それは例えば行き場を失った犯罪者の落ちぶれ果てたものであったり、もしくは生命でさ
 えないかもしれない。そんな、所謂、全てのなれの果てが、行き着く場所なのだ。
  それに対して、ならば自分が行く場所でもあると、腹の底で笑ったのは、まるで遠い昔の事のよ
 うに思える。
  全てのなれの果てが行き着く場所だというのなら、こうして小屋に潜むしか出来ない自分も、や
 はり同じくこの地に辿り着くべくして辿り着いたのだろう。そう、思ったのだ。
  だから、老人の言葉は半分に聞いて、こうして身を丸くしている。
  これまでの間、老人の言う悪鬼邪気、もしくは精霊、それか自分と同じくなれの果てと思われる
 存在には出会わなかった。
  けれども、今、この夜、確かに自分以外の気配を闇の中から感じる。それは小屋の外に横たわる、
 輪郭を掴めない闇からも感じ取ることも出来れば、すぐ傍――ランプの炎により、更に濃厚に影を
 震わせる闇からも聞こえる事が出来る。
  もしや、遂に、自分は老人の言う、お伽噺のように滑稽な、けれども場所が場所ならば確かに恐
 怖を煽るであろう存在に出会うのだろうか。
  そう思えば、さわさわと今まで気にも留めなかった風の音さえ耳に入ってくるようになった。そ
 れどころか、今まで風の音にさえ背を向けていたのか。
     身を潜めた自分の滑稽さが、身に迫る気配と同じ速度で、身体の中に湧き起ってくる。
  やはり、老人の口にした忌地という言葉を、信じていないからこそ、こうして笑えてくるのだろ
 う。それとも、もしや老人の言う悪鬼邪気に、やはり自分は近づいているからこそ、今の状況でも
 滑稽だとかそういう事を思いつくのだろうか。
  今の自分には、何処か遠い、しかし明るい穏やかな光の下で生きる誰かよりも、荒地を這い回る
 存在のほうが近しいような気がしている。だから、小屋から漏れる光に寄って来る気配に対して、
 なんら気負うところがないのかもしれなかった。
  居心地が良いわけではないが、不愉快でもない気配の近寄りに、ぼんやりと耳を傾けているうち
 に、段々と眠くなってきた。
  だが、今眠るわけにも行かない。
  いくらなんでも、流石にここで眠ってしまって、例えば訪れる気配が自分に危害を加えるもので
 あったなら、笑い話にもならない。人間のなれの果てのような存在である自分にも、命を惜しむ気
 持ちは確かに残っていた。
  うつらうつらと、ランプの明かりを視線で追いかける事で眠気を覚まし、すり寄る気配を待ち侘
 びる。
  しかし、耐えてはいたが、一瞬、眠ってしまったようだった。
  はっとして、ぱかりと眼を開くと、目の前には真っ白な服を着た女が、ランプの前に佇んでいた。
  ランプの光が奇妙に揺れているせいだろうか。女の影は妙に薄い。挙句の果てに白い服を着て、
 女の肌もまた白いものだから、その姿はまるで白い靄のように見えた。 

 「少々、温まっても宜しいかしら。」

  零れ出た言葉は、よく知らない国の言葉のように聞こえたが、しかし何処かで奇妙に歪められて
 確かにはっきりと理解できた。
  傷一つない白い手をランプの上に掲げた女は、そんな小さな炎で体を温める事が出来るはずもな
 いだろうに、暖をとる事の許可を得ようとしている。
  女の奇妙な請いに対して、不可思議に思いつつも頷くと、女は紫紺の髪を垂らして礼を言った。

 「今日は随分と冷えますのね?いつも、こんなふうに寒いのでしょうか?」

  女は独り言のように呟く。それに対して何か返答をすべきかどうか迷ったが、結局何も言わない
  事にした。女もそれを気にしているふうではなかった。

 「わたくしの郷里も、とても寒い土地でしたけれど。冬になると、里にも山にも雪が降り積もるの
  です。交易が盛んなわけでも、土地が超えているわけでもないので、里の者達は冬を越える為に、
  夏の間精一杯に働くのです。」

  懐かしむように呟いた女は、しかし次の瞬間、何かを苦しむような表情をしてみせた。
  
 「わたくしの国は山に囲まれた土地です。その地を開墾し、なんとか食いつないでいくのが里の者
  の暮らしです。畑から採れる作物だけでは冬を越せないので、時には山に分け入ることもありま
  す。ですが、山は、危険です。」
  
  それはそうだろう。山には獣がいる。
  だが、女は、そうではないのだ、と首を横に振った。
  そして居住まいを正すと、ひたりと見据えてきた。
  
 「どうか、聞いてくださいますか?わたくしの国に起きた出来事を。」
 
  あまりにも真に話すものであるから、思わず頷いてしまった。その頷きに対して、女は深く頷く
 事で返し、珊瑚の色をした唇をゆっくりと開いた。