御主人の俺を見る眼が冷たい。
 嘲りとか痛々しいものを見る眼とか呆れてものも言えないとかいう視線ではなく、ひたすらに冷や
やかだ。足元を這う芋虫を見る時のほうが、ずっともっと、温かなんじゃないだろうか。
 いつも、きらきらと強い光を弾く御主人の眼には、大寒波で吹き飛ばされてきた雹のような絶対的
な冷たさがある。
 そんな眼で見つめられて喜ぶ趣味は、例えその眼差しの持ち主が御主人であったとしても、俺には
ない。むしろ鬣に沿って、背中に冷や汗が伝っているくらいに怯えている。そしてそんな俺の鬣は、
常よりもずっと長く伸びて、背中を完全に覆い隠していた。
 鬣だけではない。全身の毛という毛が、もさっと伸びているのだ。  
見た目、完全にもこもこだ。




 Life of Horse 14





 皆さん、お久しぶりです、O.ディオです。
 冬も終わって衣替えの季節ですね。
 衣替えなんぞ、馬には関係ない?いやいや、そんな事はありませんぜ、旦那。馬にも換羽期ならぬ、
換毛期があってだな。要するに、冬毛と夏毛の事なんだけれども。まあ、御主人に丁寧にブラッシン
グして貰っているこの俺は、一度に毛が抜け代わるなんていう、みっともない事にはならねぇ。ごく
自然に、冬毛が抜け代わって、夏毛になるのが常だ。
 どこぞの茶色の馬のように、長期間ブラッシングをしなかった所為で、身体に毛玉が脂肪のように
纏わりついているなんて、情けない真似した事がねぇ。
 まあ、これは俺自身の手によるものではなく、御主人の手によるものなのだけれども。
 御主人は、みっともないものは嫌いだ。俺が知る限り、みっともない事になるであろう事態も嫌い
だ。
 御主人は、常に洗練されたものを好む傾向にある。且つ、極めて合理的で、必要以上に手のかかる
ものも好まない。洒落たものは好きだが、しかし同時に簡素であるものを好む。唯一の例外は、長い
銃身を持つバントラインくらいなものじゃなかろうか。
 そんな御主人には、当然のことながら毛玉が発生するような、髭なんて不合理なものは存在しない。
別に御主人が好む好まざるに関わらず、どうやら髭が生えない性質らしく、それは御主人にとっては
少しばかり気にしている点のようだが、俺としては御主人には髭なんぞなくても問題ない。髭なんぞ
あっても、手入れに困るだけだ。
 御主人だって知っているだろう。
 あの、茶色の髭の賞金首を追いかけているんだから、髭の手入れが如何に困難であるかを。
 ちょっと馬に乗って駆け抜けるだけで絡み合い、二、三日野宿をして剃る機会がなかっただけで見
苦しく不揃いになる、あの髭を。
 あんなもの、賞金稼ぎとして華麗に生きるには、百害あって一利なしだ。勿論、百害には髭だけで
はなく、髭を生やしているあのおっさんも含まれている。
 実際、御主人だってもさもさは嫌いだろう、もさもさは。
 御主人の好みは、当然愛馬として熟知している。
 先程の洗練されたものについても勿論、愛馬として当然の知識だ。
 御主人は、ふかふかでもふもふの肌触りのものが好きだ。そして手触りが良いもの。羽毛布団より
も毛布が、シルクよりもカシミヤが好きだ。そして、毛足が長い絨毯よりも短い絨毯のほうが。
 お気に入りのトカゲ型クッション――俺の眼から見たらトカゲのぬいぐるみにしか見えないが、御
主人はクッションと言って憚らない――も毛足は短く、ふかふかだ。
 つまり、繰り返しになるかもしれないが、御主人はもさもさで薄汚い物体は嫌いなのである。
 即ち、御主人が五千ドルという賞金の為にやむなく追いかけている、小汚い茶色で薄らと変態の香
りがする賞金首サンダウン・キッドは、御主人の好みとは真逆の性質を持っているのだ。所々で御主
人が、あのヒゲのストーカーとかいう誤った認識が囁かれているが、それは違う。御主人は賞金稼ぎ
として真っ当に仕事をしているだけだ。むしろ、賞金稼ぎの前に毎日数回現れる、あのおっさんのほ
うがおかしい。
 あと、御主人が五千ドルという賞金に惹かれている浅ましいような言い方をしてしまったが、御主
人はその気になれば一日に千ドルの賞金首を十人くらい撃ち取れる賞金稼ぎなので、五千ドルなんて
いう賞金に浅ましく食いつく必要はないので、あしからず。
 つまり、御主人がサンダウンというヒゲを追いかけているのは、純粋にボランティア精神からであ
る。あんな変態が荒野を彷徨っているなんて、アメリカ史上の汚点になるからな。
 と言っても、御主人の身を第一に考えるこの俺としては、御主人にヒゲの変態を追いかけるなんて
危険な真似は止めてほしい。あのおっさんは何せ、御主人の事を自分の嫁と勘違いしている態がある。
無口で無表情なふりをしているが、その下にどれだけやましい事を抱え込んでいるか、わかったもん
じゃねぇ。
 変態には、近寄らない事が一番だ。
 俺は、御主人に対して声を大にして、そう言いたい。
 しかしやんぬるかな、俺の馬の言葉は、御主人には聞き入れられない。比喩表現ではなく、事実、
御主人に馬語は分からないのだ。精々、ヒンヒン鳴いているようにしか聞こえないだろう。
 なので、俺は一計を案じた。
 御主人は別にサンダウン・キッドの事が好きではない。何せもさもさの変態だ。御主人の好みの対
極に位置する茶色だ。それでも、ボランティアで駆除しようとする御主人の精神は、感嘆に値する。
その精神を折るにはどうすれば良いか。
 あのおっさんを、更にもさもさの毛玉にしてやれば良いのだ。
 そう、髭も髪も、胸毛も腹毛も、いっそ眉毛も眼が何処にあるか分からないくらい、もさもさにし
てやろうか。
 くけけけけ、と俺は内心で悪魔のように笑う。
 そう、このO.ディオは悪魔だ。
 御主人に手綱を引かれているので――あと人参の香りと馬刺しになる恐怖で――今は大人しくして
いるが、この黒い身体の内々には、未だに第七騎兵隊の怨念が蠢いている。その気になれば、再びこ
の腹を食い破ってガトリングを振り回せるほどだ。そんな気にはならないけれども。
 とにかく、未だにオディオの力を持っているおかげで、この俺はそこらにいる馬よりも賢く生きて
いる。このオディオの力を、今後、ただの馬よりもちょっと賢い馬程度の事に使って終わるだなんて、
そんな勿体ない事が出来ようか。
 否!
 マッド・ドッグの愛馬たるもの、オディオの力を御主人の為に使わずしてどうするのか。
 俺は躊躇なく、オディオの力で、何処か遠い場所でどうやら御主人の事に思いを馳せている薄気味
悪い賞金首目掛けて、毛玉になりますように、と願いをかけた。


 これが、昨夜の出来事である。


 そして、翌日。
 俺は、自分の脚を見下ろして、嘶く事になった。
 黒い短い毛に覆われていた俺の脚は、見事にもこもこになっていたのである。要するに、黒い毛が
一律に伸びている。此処からは見えないが、どうやら尻尾の毛も伸びて、地面についている。鬣は言
わずもがなだ。
 俺は、依然御主人が憮然とした表情で眺めていた、もこもこの牛のように毛深くなってしまったら
しい。
 どうしてこうなった。
 心当たりがあるとすれば、サンダウン目掛けてもさもさになるオディオの力を放出した事くらいで
ある。
 まさかあのおっさん、ガトリングの弾を避けるあの無駄な素早さを活かしてオディオの力を避けた
のか。そして避けられたオディオの力は、地球を一巡りして俺にぶち当たったのか。
 或いは、今現時点ですでにもさもさの髪だか髭だか胸毛だか腹毛だかで跳ね返したか。
 いずれにせよ、ヒゲが今も何処かで無傷でぴんしゃんしている事は間違いない。
 代わりに、この俺がもさもさになっている。
 そして、御主人から冷ややかな眼で見つめられているのだ。
 御主人、そんな眼で俺を見ねぇでくれ!これは俺の所為じゃねぇ!
 しかし、もさもさが嫌いな御主人の眼は、緩むどころかますます冷たく、既に氷点下だ。もさもさ
の俺の背には、乗る気もしないのだろう。腕の中にお気に入りのトカゲクッションを抱きしめ、なん
だあの馬、と呟いている。
 御主人好みの、毛足の短いふかふかのトカゲクッションは幸せそうな笑みを浮かべている顔をして
いるのだが、その笑みが今日ばかりは勝ち誇った勝者の笑みに見える。もしかしたら、とうとう俺は
解雇され、御主人の愛馬にはあのトカゲの一番大きい奴が採用されるのかもしれない。
 いやちょっと待て。あのトカゲ、ぬいるぐみだから。動かねぇから。つーか動いても、その短足だ
と馬として機能しねぇだろう。だから御主人、俺を解雇しないで。
 あうあうあう、と鳴く俺を横目に、御主人が馬牧場に向かおうとした時、俺は本当に泣きそうにな
った。こんなくだらねぇ理由で解雇なんて、末代の恥だ。
 いっそ、御主人ももさもさにしてやれば良いんじゃないか、とも思ったが、それだと御主人がショ
ックを受ける。いやそれ以前に、あのヒゲがお揃い!とか言い出しかねない。
 毛刈りしてくれ、一思いに。  もっふもふになった俺は、別の馬を吟味している御主人に、そう嘶いた。



 毛は、一日で元に戻った。
 俺は解雇されずに済んだ。
 その後で会ったサンダウンは、やっぱりもさもさだった。