指先から滴り落ちる赤い滴に、マッドは暗い空を刳り抜いた窓を背にして舌打ちした。
 鋭利な刃物で、皮一枚を薄く切ったようなその傷口は、しかしまだ滾々と血を湧き立てている。
 乱暴に拭っても、きめ細かい肌の隙間に滲むばかりで、押さえ込まれる事に抵抗するかのようだ。
 その状態に更に神経を逆撫でされ、マッドはより強く、血を流し続ける手首を拭い続けた。





 聖なる侵入





  なんの事はない、単に手元が狂って、いつも使っているナイフで手首を切ってしまっただけの事。
 ちょうど、露店が並ぶ人通りの多い道で、ほつれたディオの手綱を切ろうとしてナイフを取り出し
 ていた。
  手首を切ったとは言っても、静脈やら動脈やらが浮かんでいる掌側ではなく、その裏側、手の甲側
 のほうだ。
  薄く一筋の赤い線を残して、馴染んだ手の中からナイフは銀の刃に赤い染めを微量に塗って滑り落
 ちた。
  ひりつく程度の痛みは、大したものではない。浮き上がる血はなかなか止まらないが、傷自体は皮
 膚の浅い場所を通り抜けただけだ。
  けれど、それだけの事でもマッドを動揺させるには十分だった。
  それとも、ナイフを滑り落とした時点で、既に動揺していたのか。
  でなければ、ナイフの取り手を誤るなどといった醜態を曝すわけがない。
  あり得ぬ己の失態に、その場で手当てをする事も、かといって宿でという考えにもなれず、とにか
 く誰もいない場所へとうらぶれた街の廃屋に駆け込んだ。
  その間も自分の鼓動に応じて膨れ上がっていく血の塊に、らしくもなくうろたえた。
  馬鹿馬鹿しい、と一つ首を振って、薄い布を傷口に押し当てる。
  動揺する事も、うろたえる事も、何もないのだ。いつだって自分は、自分が思うがままに行動して
 きた。
  何もかもを捨てて西部に来た事も、わざわざ賞金稼ぎなんて根なし草な上にいつ死ぬとも分からな
 い生活をしている事も、全部自分で決めた事だ。
  それを後悔するつもりはない。
  全て、自分で考え、選んで、決めた事だからだ。

  つまり、それは、あの日の事も。

  そう思って、マッドは手首に押し当てていた布ごと、傷口を痛いくらいに掴んだ。
  火傷のような痛みと共にじわりと広がり、ぶり返したのは、二週間ほど前の記憶だ。




  燃えるような朝焼けだった。

  西の空に未だ根強く残る星屑さえ、羞恥でその顔を隠すような夜明けだった。    
  その瞬間に、まるで風を引き裂くように、唐突に先程まで何処にもいなかった気配が転がり落ちた。
  今まで砂の中に埋もれていたのかと思うくらいのいきおいで、何食わぬ顔で元の鞘に収まった気配
 は、確かに一ヶ月間何処にも見当たらなかった男のものだった。

  よれて型崩れしそうな幅広の帽子も、擦り切れて端が所々ほつれたポンチョも、砂と風で色褪せた
 ブーツもどれだけ長い期間が空いても見間違えるはずがない。
  吐いた息一つ、その足跡一つ残さずに存在を消してみせた男は、太陽が投げかける赤い光の帯と一
  緒に戻ってきた。帽子からはみ出た艶のない金髪も、空を刳り抜いた色の双眸も変わりなく、静か
 に自分を見据えていた。

  消える前と同じ姿に、気配に安堵したのは束の間。
  次に噴き上げたのは憤りだった。
  突然何一つとして残さずに消えたくせに、何もなかったかのように普段と変わらぬ飄々とした立ち
 姿で現れて、一体何様のつもりなのかと思った。

  それ以外にも色々な事が――本当に眼の裏が熱くなって焦げ付きそうなくらい色々な事が胸の下か
 ら喉仏の間までを往来し、まず何から言えばいいのか分からなかった。
  そして実際、開口一番に何を言ったのかは良く覚えていない。
  それ以降の事となると更に曖昧で、言った事と言っていない事の区別もつかない。
  吐く息がやたら乱れていた事だとか、喉奥から木枯らしみたいな音を立てていただとか、そんな音
 にもならない音の事ばかりが鮮明に耳にこびりついている。

  思えば、きっと、この時点で、いやその前――男がいなくなった時からの心の平静さは失われてい
 たのだろう。
  でなければ、あんなふうに、食ってかかったりしないはずだ。
  下顎が震えて舌が回らずに口腔が乾くような事だって、きっと、なかった。
  上擦りそうな声も、やたらと痛みを訴える喉も、力を込めねば湿りそうな瞼も、常ならば考えられ
 ない。

  そんな自分の姿が、見開かれた空色の眼差しに、くっきりと映っていた。
  それを振り切るように胸倉を掴んで、けれどその手はあっさり縋るものに変わり、それから強く腕
 を引き寄せられた。

  それからそれから。

  身体の中を駆け抜けていった感覚ばかりが声高に主張し、肝心の原因は思い出せない。
  自分が何か、耳を塞ぎたくなるような高い声で叫んだけれど、それに対する答えはなかったから、
 多分意味のある言葉を紡いだわけではないのだろう。
  けれどいくつか耳元で何か囁かれたような気もした。
  だが、その音を拾う前に意識が途切れ途切れになり、結局うねるような苦痛と快感ばかりが記憶に
 残っている。

  後は、肩越しに見た、燃えるような朝焼けが。




  肌に掛かった金の髪やら髭やらの感触は、今ある手首の傷の痛みよりも生々しい。

  いつだって自分で決めて行動した。
  そのはずだ。
  けれど、それならば、あの日の己の行動は?
  喚き立てる自分の声でその胸倉を掴むふりをして縋りついたのは、激情に身を任せて行動したのは、
 間違いなく自分だ。
  そして激情の原因はあの男にあるが、しかしそれは自分の感情の発露がなければ原因になどなり得
 なかった。
  一番最初の根本は、どう考えてもマッド自身にある。
  とどのつまり、あの日の全てが自分の定めた行動で、その事に今自分はらしくもなく動揺し、うろ
 たえているのだ。

 「冗談じゃねぇ…………。」

  聞こえないくらい低い声で呻いた。
  こんな馬鹿げた状況、間違っている。
  一体、何処で間違ったのか、何処に間違いがあったのかを、マッドは記憶を遡る。
  いや、遡らずとも、どの段階で既に間違っていたのかは覚えている。
  一度、年嵩の賞金稼ぎに忠告の形で与えられた警鐘。
  あの時点で自分は道を踏み外していたのだ。

 『このご時世、賞金首なんぞ腐るほどいるんだ。たった一人の賞金首にかまけるなんぞ、命取りだ。』

  その時既に西部一の賞金稼ぎの座を冠していたマッドに、そろそろ第一線を退こうかという老人は
 そう言った。
  マッドは幾つもの賞金首を追いかけている。別にあの男だけを狙っているわけではない。
  だから、老いた賞金稼ぎの言葉など気にもかけなかったのだが。
  今になってその理由がはっきりと分かってしまった。

  長い長い間、ずっと追いかけているのは、あの男だけだ。
  他の賞金首達は銃声一つが鳴り響く間に、マッドの硝煙の前で灰になって終わった。
  なのに、あの男だけは硝煙をあっさり吹き払い、飄々と駆け去ってしまう。
  一瞬の銃声と、血と金で培われるだけの関係が引き延ばされ、何か別のものに置き換わろうとして
 いる。
  銃を握るその瞬間だけにあった一点だけ集束するような緊張感は、張り詰めた弦の震えのようなか
 細いものに変わった。歩いてきた足取りがつけた跡は、血と金と硝煙以外のもののほうが多い。

  挙句、一度、その手を組んでしまった。
  女の頼みとはいえ、今更ながらにあんな事するんじゃなかったと思う。そんな事をすれば、おかし
 な期待をする事など眼に見えていたのに。
  ああ、後悔した事がないと思っていたのに、あの男が絡めばその選択肢は後悔の連続だ。 
  これはもう、命取り、なんて命が潰えて終わるような、生易しいものではない。
  侵食だ。
  身体には既にあの男の熱が根ざしている。
  他の感覚を感じても、肌が更新されない。
  あの男が巣食っている。
  このままいけば、きっと、鼓動も視界も吐く息も、全部塗り替えられてしまうだろう。
  あの男のいなかった世界が、貶められてしまう。

  だから、これ以上は、

  暗い光の中で未だに血が滴る腕を握り締める。
  じわじわと布に広がる赤は、なかなか止まらない。まるで、押さえ込まれる事に抵抗するかのよう。
  もしもこのまま止まらず、縫い止めても止まらなければ、どうすれば良いのだろう。




  くっと息を詰めた。
  窓辺に蹲った身を起こし、ぞわりと広がる感覚に身を硬くした。
  吐く息を抑え、殺し、己が生きている気配を隠す。
  捜せば逃げ去る姿は、捜していない時、必要ない時にはあっさり現れて嘲笑うかのようにマッドの
 世界に広がろうとする。

  ああ、来るな来るな。
  この中に、この世界に入ってくるな。
  けれど鍵さえ掛からない小屋の扉は、いとも簡単に開かれた。
  くっきりと四角い光が床に切り落とされる。

 「マッド。」

  隠された気配などものともせずにマッドを見つけてみせた男は、なんの気負いもなく名前を呼んだ。
  今、初めてマッドがそこにいる事に気付いたかのような口調で。
  賞金首のくせに、賞金稼ぎを見ても逃げ出すどころか近付いてくる。

 「……んだよ。」

  殊更低く、毒蛇の警戒音の如く声で呟いても、効果はない。
  マッドも男も、互いの力量が分からぬほど鈍くはないし、何よりもわざわざ探る必要がないくらい
 の遣り取りをしている。
  だから、サンダウンにマッドが敵わぬ事は、マッドもサンダウンも知り尽くしているのだ。
  それ故にマッドの警鐘に気付かぬふうで、男は近付く。

 「マッド。」
 「だから、なんだっつってんだろ!」

  威嚇の声を上げて顔を上げた時には、すでに遅かった。
  凶悪な鷲は、毒蛇の音など意に介さずその爪で頭を鷲掴みにしている。
  あっと言う間に切り詰められた距離にマッドが息を飲んでいると、サンダウンはマッドの腕を囲い
 赤い染みを作っている布に気付いたらしかった。
  マッドに決闘の意志がない事を見てとっている男は、ごく自然な動作でその腕を取った。

「…………。」

  無言で布を払い落し、まだ固まらない傷口をしげしげと見てから、その腕をゆっくりとなぞり始め
 る。手の甲から傷口が走る手首、肘、二の腕へと辿る武骨な掌のかさついた感覚に、マッドは思わず
 身震いした。

 「触んな。」

  サンダウンの手を振り払おうと身じろぎするが、掴まれた腕はぴくりとも動かない。

  それどころか、大胆に肌に触れようと動いている。

 「止めろ!」

  サンダウンが何を思って触れてくるのか、分からない。
  あの日の事が自分にとって脳味噌を切り取って忘れてしまいたい出来事だというのならば、それは
 この男にとってもそうだろう。
  それとも、違うとでもいうのか。
  そう思い掛けて慌てて打ち払う。
  それ以上は考えてはいけないと、鳴り響いていた警鐘が自分にも向けられる。

 「構うんじゃねぇ!」
 「無理だ。」

  ようやく返ってきた答えは、拒絶の意を示していた。
  しかも普段よりも幾分も柔らかい響きを湛えて。

 「離れろ!」
 「駄目、だ。」

  有無を言わさぬ言葉と、肩を掴む力の強さで、逃げようと動く身体を繋ぎとめられる。
  喉が痛い。
  眼の裏が軋む。
  男の熱が、根を広げようとしている。

 「俺の中に、入ってくるな!」
 「もう遅い。」

  先に入ってきたのは、お前だ。

  静かな声には、微笑みとも泣き声ともつかぬ色が混ざっていた。その複雑な色が、唇と舌先で、口
 腔内に押し込まれる。
  大きく眼を見開くよりも先に、背中に床の冷たさが広がり、身体の上には男の熱が密集する。
  もう、悲鳴一つ上げられない。
  これは禁忌を犯されているのか、それとも望みが叶っているのか、マッドには分からない。
  分かるのは、肌を占領する熱が、今度は頭の中にまで入ってきたという事だ。
  マッドを占領し尽くそうと、傍若無人に入り乱れている。

 「マッド。」

  囁くように名前を呼んで、男はたらたらと零れ落ちるマッドの血を舐めとった。
  自分の血と男の唾液が混ざり合う様子に、マッドは心臓の裏が脈打ったのを感じた。

 「逃げるな。」

  お前が。
  今更。

  ―――最初にその熱で以て侵食したのは、お前だろう。

  だから、と囁かれ、マッドは再び唇を塞がれた。

  ―――だから、お前の世界から、弾かないでくれ。