際限なく流れる赤を見て、オルステッドは眼を見開いた。男の肩口から溢れる血は、本来ならば
 その一拍後には消え失せるはずであるもの。しかし、それは途切れる事流れ続けている。
  むろん、命に関わるような傷ではない。放置していたとしても、いつかは塞がるだろう。その際
 に膿んだりする事はあるかもしれないが。

  しかし、オルステッドが言っているのはそういう意味ではない。
  自分と同じく魔王である男が、こんな血を流すはずがないのだ。流れたとしてもそれは一瞬で、
 次の瞬間には何事もなかったように綺麗な皮膚が覗いているはずだ。
  それは勇者以外には殺される事のない魔王の絶対の定めだった。

  けれども、眼の前で男は血を溢れさせている。

  その事実に瞠目したオルステッドは、そのまま薄暗い気分になった。腹の底で何かが沸き立って
 いるような、そんな思いが、実は僻みや妬みといった類である事に、オルステッドは気付かない。
 いや、気付いていたとしてもきっと受け入れないだろう。

  止め処ない流血は、眼の前にいる男にとっての、勇者の到来を告げていた。





  Purgatorio







  傷口を押さえて蹲る男は、微かに口元を綻ばせていた。春の到来を喜ぶかのような表情は、彼の
 待ち人が長く暗い冬の道を渡り切ったという事を示していた。

 「人違いだろう。」

  その姿を見つけて全てを悟ったオルステッドは、殊更ぶっきらぼうにそう告げた。そうであらね
 ばならないと言わんばかりの口調で言うと、男の眼差しは一瞬にして憐れみを帯びた。そして、一
 つ一つを区切るように――オルステッドに言い聞かせるようにも聞こえたし、喜びを噛み締めてい
 るようにも聞こえた――言う。

 「私が、あれを、間違えるはずが、ない。」

  あの魂は、彼そのものだった。

  喜色を隠そうともせずに、男はオルステッドの顔に、そう叩きつける。冬の時代が終わったのだ
 と告げる男に、オルステッドは苛立った。
  同じ魔王であり、人間に対して諦めを持っていたはずなのに、そしてまたそうあるべきなのに、
 この男はそんな魔王の特性をあっさりと捨て去ってしまっている。それほどまでに到来した勇者が
 大切なのか、おそらく勇者につけられたのであろう傷を、愛おしげになぞっている。

  真っ赤に染まっていく男の手を見ながら、オルステッドはどうしようもない焦燥感に捕らわれた。
 血の赤は生命の証だ。生ある者は皆、真っ赤な血を流しながら死んでいく。それは、あの醜きルク
 レチアの国民も同じだった。 
  ただ、オルステッドだけが、血を流さずに塵に帰るだけで。そしてそれは、この男も同じだった
 はずなのに、男は真っ赤な血を流し続けている。まるで、魔王という楔から解き放たれたと言わん
 ばかりに。
  それに気付いたオルステッドが感じる焦燥が、所謂嫉妬であるなど、オルステッドは思いもよら
 ない。オルステッドの望みは失われたオディオの力を取り戻し、同じ事を繰り返し続ける世界に、
 最後の鉄鎚を下す事だ。オルステッドは、そう、信じている。よもや今更、自分も勇者に打ち滅ぼ
 されて、人間として死んでいきたいなど、自覚的に思うはずがない。

  しかし、自覚的でなくとも本能に擦り込まれた嫉妬は掻き消せなかった。
  真っ赤に濡れた男の肩を睨みつけながら、その傷を負わせた者が一体何者なのか推察する。綺麗
 に肩を貫通している傷は、刃物による傷ではないだろう。そもそもこの時代、肉体を貫通するよう
 は刃物は横行していない。では、何か。

  眼を細めて、何かを探り出すような表情をしているオルステッドに、男も気が付いた。そして、
 穏やかな表情を隠して、厳しい眼差しでオルステッドを睨みつける。

 「……あれに、何かしたら許さんぞ。」

  唸るように男が告げた言葉は、オルステッドが何を考えているのかを――もしかしたらオルステ
 ッドよりも――読み取ったものだった。
  男の台詞に、オルステッドは内心動揺したものの――オルステッドはそこまで考えていなかった
 ――それを表情には出さずに、薄ら笑いを浮かべて挑発するように言う。

 「私が何をしようが、私の勝手だ。」

  魔王たるオルステッドが、人間を一人殺したところで何の問題にもならない。例えそれが、勇者
 であったとしても。
  もしもオルステッドが勇者を殺してしまったら、この音はどうするのだろうか。再び勇者が冬の
 道を渡り切るのを待つのだろうか。それとも絶望して今度こそ救い難い魔王になるのだろうか。そ
 れを想像して、そうする事こそがオルステッドの務めであるような気がした。

 「………止せ。」

  男はゆっくりと首を横に振り、オルステッドの愉快な思考を止める。

 「あれに、何かしたらお前をもう一度塵にする。」
 「ふん。そんな事をしても、私は再び蘇る。この世が同じ事を繰り返す限り。」

  憎しみの種が尽きる事はない。呪詛が続く限り、オルステッドは塵になってもまた蘇る。オルス
 テッドの為の勇者は何処にもなく、オルステッドの再臨が止まる事はない。この世の摂理としてオ
 ディオがあるならば、オルステッドが消えぬ事もまた摂理だ。

 「………八つ当たりは止めろ。」

  しかし、オルステッドの言葉に対して、男の声音は頑是ない子供に言い聞かせるような口調だっ
 た。そして、口にされた内容も、オルステッドが顔を顰めるには十分な物だった。

 「八つ当たり、だと……?」
 「……そうだろう。死に行く人間に対する――この場合は私だが――八つ当たり、だ。」
 「消えゆく存在に八つ当たりなどして、なんになる。」
 「ならば、私の事も、あれの事も捨て置けばいい。」

  オルステッドが人を越えた、超越者であるというのなら、超越者らしく今から死に行く魔王のな
 れの果ての事など放っておけば良いのだ。
  それをせずに、それどころか勇者を破壊しようとするのは、明らかに八つ当たり、もしくは当て
 擦りだ。
  そう指摘されたオルステッドは、顔に斧を打ちこまれたかのように、眼を見開いて口を歪に開く。

 「お前が私とあれを捨て置かないのは、お前も勇者を待っているからだ。そして勇者を手に入れた
  私が、羨ましいんだろう。でなければ、たかが人間一人を殺そうなど、考えるわけがない。」

  世界を滅ぼすと豪語するお前が、たった一人の人間を殺そうなど考えるものか。

 「……所詮、そんなものだ。どれだけ人間から離れたとしても、たった一人の人間に生死を決定さ
  れるほど焦がれるなど、結局は完全に人間から離れられるわけがない。」

    命を歪めるほどの想いを持つ事ができるのは、結局のところ人間だけなのだ。それは、魔王にな
 るほど絶望を感じ、人を憎んだオルステッドとて同じ事。   

 「それとも、なんなら、お前もあれに殺されてみるか?案外、死ねるかもしれんぞ。」
 「死ねるわけがないだろう!」

  男の提案に、オルステッドは思わず声を荒げた。自分でも驚くほどの声の大きさは、男の言葉に
 うろたえていたからかもしれない。
  オルステッドの怒鳴るような声に、男は顔色一つ変えず、そうだろうな、と頷く。

 「あれは、私の勇者だからな……お前にまで効果が及ぶかどうかは分からん。それに、お前の中に
  蟠る人間がいるのなら、あれでは無理だろう。」
 「……そんな人間、いるものか。」
 「……どうだろうな。捜していないだけかもしれん。」
 「いるわけがない!お前に何が分かると言うのだ!」

  今度こそ、オルステッドは本気で怒鳴った。
  オルステッドには人間の気配など分からない。全ての人間が同じ顔、同じ気配に感じる中で、ど
 うやって『誰か』を捜せ、というのか。
  まして、オルステッドは長く生きてきた。眼の前にいる男よりも、遥か長くこの世に在ったのだ。
 しかし、一度として何か特別な者に出会った事はなかったのだ。けれども眼の前の男は、勇者を見
 つけたという。 
  オルステッドよりも短く生きる男が勇者に出会えて、オルステッドが誰にも出会えない。これが
 意味する事など一つしかない。

  誰も、オルステッドの為に、冬の道を渡ろうとしなかったのだ。

     オルステッドに、魔王となるほどの憎しみと絶望を――裏を返せばオルステッドはそれほどまで
 に彼らの事を愛していた――ルクレチアの人々は、誰一人として冬の道を歩かず、天の国に満足し
 てしまったのだ。きっと、そこにオルステッドがいない事に、なんの疑問も抱かないまま。

    「彼らは、私の事など、どうでも良かったのだ!私は結局彼らの為の駒にしかすぎず、壊れてしま
  えば用を成さない玩具に等しかったのだ!でなければ、何故、彼らは誰一人として私の前に現れ
  ない!?」

  天国にも地獄にもいないオルステッドを、何故誰も疑問に思わないのか。少しでも疑問に思って、
 人間が屯する地に眼を向ければ、そこで逸脱して彷徨うオルステッドに気が付いただろうに。
  それとも、それこそがオルステッドに相応しい罰だと思って、鼻先で笑っているのか。寄る辺も
 なく彷徨うオルステッドを、良い気味だと嘲笑って。
    そうして自分達の居場所に満足しているのか。

        それほど、天の国とは、居心地が良いものなのか。
  それともそれは、オルステッドがいない所為で、余計にそう思うのか。

     惨めだった。ひたすらに惨めだった。オルステッドは、全ての絶望が圧し掛かったあの夜と同じ
 くらい、惨めな気持ちになっていた。いや、もしかしたら、ずっと惨めだったのに、それから眼を
 逸らし続けていたのかもしれない。何世紀も置き去りにされて、誰も迎えに来てくれない状況から
 眼を閉ざす為に、誰かを憎む事に溺れていたのかもしれない。

 「何故だ!私と、お前と、何が違うと言うのだ!」

  数世紀前に、男の手によって塵に還された時と同じ言葉を、膝を突いて両手も突いて、吐き捨て
 る。
  何故自分だけが、と。何故自分だけがこんなに惨めなのか、と。一体何処で何を間違ったのか、
 朦朧とした記憶を探っても、オルステッドには分からないし、おそらく誰にも分からないだろう。
 そして、それを正そうにもオルステッドには誰が勇者なのかも分からず、オディオの力を受け止め
 続け、魔王である事を続けるしかない。
  それに対して、男は無言だった。ただ、眼には憐れみの色が灯っている。だが、それ以上なにか
 を施そうというつもりはないようだった。もしも施すとすれば、それは再びの、けれども永遠では
 ない眠りだろう。男には、オルステッドを送る事が出来ない。

     痛ましそうな眼でオルステッドを見下ろしていた男も、遂には何処かへ行ってしまう。おそらく、
 勇者に殺されに行ったのだろう。そうなれば、二度とオルステッドの前に現れない事は分かってい
 る。そして、オルステッドは誰も知る者もいないまま、生きるしかないのだ。

  

  どれくらい、そうして地面を見つめていただろうか。
  のろのろと顔を上げたそこには、誰もいない。立ち去っていった男の行方は既に知れず、オルス
 テッドはその末が男の望むもので終わったのかも分からない。
  ただ、オルステッドは、今更ながらに自分が男に嫉妬していた事に気が付いていた。
  人間として死ねる事にも、冬の道を渡るほどの存在がいた事にも。
  果たして、自分にはこれから先そんな人間がいつか現れるだろうか。きっと現れないだろう。そ
 れはオルステッドが今まで死ぬ事がなかった事からも明白だった。   

  この先、オルステッドがどうなるのか、オルステッドにも分からない。積もりに積もったオディ
 オが暴走し、今度はオルステッドの自我さえも食いつくすほどに暴走し、世界を破壊して終わるの
 か、それとも朽ちた木のように幽鬼のように生き続けるのか。発狂した精神を抱えて、何も分から
 ぬまま彷徨い続けるのか。

  いすれにせよ、それらはオルステッドに安息を齎す最後ではない。

    人間として死ぬ事のないオルステッドには、許しは訪れないのだ。オルステッドには、煉獄の炎
 の一匙さえ、与えられない。



  誰かが、煉獄の炎を一掬い持って、冬の道を渡るまでは。