待ち人など、待つだけ無駄だ。

  オルステッドの脳裏に閃いたのは、ただそれだけの言葉だった。遥か彼方に置き去りにしたルク
 レチアの断片の中に、果たしてオルステッドの待ち人がいるのかどうなのか、それを判ずるのはあ
 まりにも難しい。そしてその待ち人こそが、オルステッドの心臓に死の鉄鎚を打ち降ろす存在なの
 かという事は、更に判じかねる事だった。
  そもそもルクレチアという醜き顔の連なる国に、オルステッドが本心から待ち望んでいる者など
 いるのだろうか。

  そう考えた瞬間、自分の中に、何か一つ楔があるような気にもなった。
  長い繰り返すだけの歴史によって、分厚く重ねられた憎しみの、一番底でその楔は時折オルステ
 ッドの記憶を無意識のままに穿り返す。

  しかし、そもそも、とオルステッドは、未だに人間を信じて永い時間を掛けて待ち人を待つ魔王
 を思い出して、顔を顰めた。
  あの後何度か歴史の中で顔を合わせ、けれども互いに何の変化もなく、悠久の時を生き続ける魔
 王。人間でなくては殺す事の出来ない男は、その人間が現れる事を延々と待ち続けている。その人
 間が何者なのか、オルステッドは知らない。男も話そうとはしない。寡黙でほとんど情報を零さな
 い男から、辛うじて聞きとれたのは、その人間は既に亡い事、けれどもそれでも男はその人間が長
 い冬の道を歩いて再び現れるのを待っているという事だけだった。






 Limbo  







    オルステッドは鼻先で笑い飛ばした。
  生まれ変わりなど、そんな事起こりえるはずがないのだ。死した魂はそのまま燃え滾る硫黄の炎
 の中に突き落とされるか、或いは蒼褪めた天へと吸い込まれるかのどちらかだ。オルステッドが壊
 滅させたルクレチアの人間共は、多かれ少なかれ、硫黄と氷に閉ざされた地に沈められるだろう。
 仮に蒼褪めた天へと昇ったとしても、その頂きから地上を見渡し、オルステッドの姿を探す事など
 ないだろう。自分達の欲さえ満たされれば、それで世界を閉じてしまう連中だ。地上の事など見向
 きもしない。
  そんな連中だろうから、まして、いつ果てるとも分からない長くて暗い冬の道――魂が繰り返さ
 れる道など選ぶはずがない。
  いや、ルクレチアの人間でなくとも、その果てしない道程を行く者などいないだろう。
  おそらく男の待つ人間も、男の事など忘れて空に吸い込まれたか、硫黄の炎に焼かれているはず
 だ。長い道のりを選ぶほど、死してなお深い思いを描く人間など、いるはずもない。

  だから、哄笑した。
  それほどまでに愚かな事を考えて、今日というこの日まで生き長らえてきたのか、と。長い歴史
 の中、通常の人間では考えられぬほどの月日が流れても変わる事無く、今日も顔を合わせた男は、
 やはり何処にも死の影はなく、まだ男が待ち人に出会えていない事を示している。
  それはきっと、これからも覆される事はないだろう。
  男はこの先も待ち人が来る事を信じて待ち続けるのだ。冬の道の長さなど誰も知らない。いつ果
 てるとも分からぬ道を歩く魂を待つ事は、未来永劫待ち続けろと言うよりも酷い。ましてこちらに
 は、本当に冬の道を歩いているのか――そもそもそれがあるかどうかさえも――分からないのだ。
  そして、それでも待ち続けた末に、きっと待ち人は来ない。いつの日か男は裏切りの味を覚える
 だろう。その時こそが、男が完全に魔王に成り下がる瞬間だ。

  オルステッドが憎しみを掻き集めて、世界を破壊する力を取り戻すのが先か。
  それとも男が待ち人に裏切られ、完全な魔王となるのが先か。

  嘲るようにそう囁けば、再び憐れむような光がその青い双眸に灯った。まるで、憎しみを身体に
 募らせるだけのオルステッドを、痛ましいものでも見るかのようだ。その眼差しに、オルステッド
 は冷ややかな眼差しで応える。

 「人間など信じるだけ無駄だ。」

  あれほどまで信じていたのに、まるで今まで築き上げたものなど紛い物であるかのようにオルス
 テッドを裏切った。オルステッドが大切だと思っていた物など、この世から消えてしまえと言わん
 ばかりに手を振り払って。
  どれだけ長い歳月が経っても忘れ去る事が出来ないほどの、絶望感。
  けれどもオルステッドにはそれを齎したのが一体誰であったのか、思い出せない。一度打ち砕か
 れ、長い間呪詛の子守唄を注がれた魂からは、様々な物事が風化し、ただオルステッドの中には、
 まるで芯のように、人間への憎しみとと不信と絶望感が硬く凝っている。

       けれども眼の前の青い双眸は頷かなかった。ただ、短く一言だけ告げる。

 「必ず来る。」

  断定的にも聞こえるそれは、そうであるが故に余計に、揺ぎ無い信頼感に満ち溢れていた。男の
 中で深く息づいている何者かへの信頼感を聞き取ったオルステッドは、大樹の根よりも遥かに根強
 い声に、微かに苛立った。
  それは時折訪れる、厚塗りされた憎しみの底に沈んだ楔の蠢きに良く似ていた。

  かつて、自分にも同じように信頼を傾ける相手がいたような気がする。

  しかしその思いが、完全にオルステッドの意識を奪うほどに浮上しきる前に、ルクレチアの醜悪
 な臭いが、まるで地獄の釜を開いた時のように沸き立った。遠くで沈む懐かしい記憶を掘り起こす
 には、オルステッドの絶望は果てしなく深かったのだ。  
  悪臭に後押しされるように、オルステッドは口元に薄ら笑いを浮かべた。

 「来るならば、とうの昔に来ているだろう。如何に冬の道が長いとはいえ、渡り切る為に1世紀も
  2世紀もかかるとは思えない。」

  オルステッドとて冬の道の長さは知らない。
  しかし、それほどまでに時間を要するものなのかと思うのは本心だった。もはや数世紀生き続け
 たオルステッドの前には、一度としてルクレチアの腐臭を帯びた魂は現れなかった。ならば彼らは
 やはり冬の道など歩くつもりなどなく、天国で安穏としているのだろう。或いは、冬の道を歩けば
 魂が浄化され、かつての片鱗さえないと言うのなら、それはもはや生まれ変わる前の人間ではない
 のと同義だ。
  けれども男は頷かない。

 「あれは、必ず来るし、来たら、すぐに、分かる。」

  絶対的な自信。
  それは、憎らしいほどの自信だった。
  人間を見れば、すでに同じ顔にしか見えず、気配も同じとしてしか感じないオルステッドに対す
 る、圧倒的な自慢でもあった。
  無表情で忌々しいほどの自信を持ってそう告げる男は、しかし未だ生きているのだ。それだけが
 ――しかしそれこそが最大の――辛うじてオルステッドの溜飲を下げた。

 「ふん……しかしまだ生きているのを見れば、それは所詮ただの負け惜しみに聞こえるな。」

  絶対的な自信に対してそう吐き捨てる。しかし男は眉一つ動かさなかった。オルステッドの台詞
 など想定の範囲内であると言わんばかりで、しかも眼さえ逸らさない。

 「どれだけ長くても、あれは渡り切るだろう………そういう男だ。」

  オルステッドから眼を逸らさず、オルステッドを素通りして遠くを見つめながら、男は懐かしむ
 ようにそう告げた。遠い過去に思いを馳せる男の姿は、オルステッドには決して有り得ない姿だ。
 オルステッドにとって、過去は忌むべきもの、憎むべきものであり、懐かしむものではない。まし
 て、愛おしむものでは有り得ない。
  けれども眼の前の男は、冬の道を真直ぐに突っ切ってくる待ち人の姿でも見えているのか、酷く
 穏やかな表情をしていた。

  それは、過去に依存して停滞しているだけだ。

  オルステッドはそう結論付けた。自らに許されていない事を平然と成している男に――待ち人が
 いる事、過去を愛せる事、誰かを信じている事、それらに対して揺らぎがない事――苛立った自分
 を宥めるには、そうとしか考えられなかった。
  それが、羨望であり嫉妬であるなど、考えたくもなかった。
  自分の過去は血に溢れており、人としての最後の瞬間まで全てに憎まれ裏切られた。そしてその
 人間共は全てオルステッド自身の手で破壊し尽くした。それ故に、自分には冬の道を渡ってまで逢
 いに来てくれる者はおらず、まして逢いに来てほしいと願う者さえいない。
  いや、逢いに来て欲しいと願う者は本当はいるのかもしれないが――時折蠢く楔がそうであるの
 かもしれないが――それが果たして誰なのか、やはりオルステッドには分からなかった。全て同じ
 顔をしている記憶の顔は、本当にその顔がその出来事を成したのかも分からない。

  絶望を与えた人間も、信頼を覚えた人間も、オルステッドには同じ顔に見えるのだ。
  皆、一様に、鈍色の髪をした、若い男の顔を。

  それが望むべき人間であるのか、それとも憎むべき人間であるのか、悲しい事にオルステッドに
 は分からないのだ。

  結局、長い歴史の末に分厚く自分を囲う憎しみの壁から逃れられず、身動きの取れないオルステ
 ッドは、何処にも行けない己を呪う事さえできないまま、眼の前の男を睨みつけるしかなかった。
  いつか、この男が待ち人が来ない事で裏切りの苦渋を飲み、そうして破滅へと向かう事だけが、
 オルステッドの慰めだった。
  己もこの男も、誰が剣で貫いても、瞬く間に傷が塞がる身体だ。首を切り落としたとしても、離
 れた胴と頭は引き合い、もとに戻る。それが未来永劫変わる事はないという真実だけがオルステッ
 ドを勝者にしていた。




  数十年後、男が止まらない血を抱えた状態で現れるまでは。