歴史は繰り返す。
  されど人は過去には戻れない。

  塵になったオルステッドの魂は自我を失った。けれども、その魂の断片はまるで古びた氷のよう
 に延々と残り続けた。
  それは人である事に耐えられず魔王となったオルステッドを打ち滅ぼしたのが、オルステッドと
 同様に人を止めた魔王だったからだろう。魔王を倒すのは人であるという定説を骨の髄まで染み込
 ませたオルステッドは、その定説通り魔王の手によっては破壊されない。
  それ故、塵になった今も、オルステッドの魂の断片は現世を彷徨い続けている。
  ただし、彼の断片はあまりにも小さ過ぎて、何かを考えたり何かを成したりする事はできなかっ
 た。ただそこで漂うだけの白痴の王のように、オルステッドはそこらじゅうを漂い続けた。

  何も成さず。
  何も考えず。

  完全に人としての生を失ったオルステッドが、しかし徐々に散らばる欠片を広い集めて、自我を
 取り戻していったのは、やはり彼が魔王であったからにすぎない。
  オルステッドが魔王と成った時と同じく、世界には憎しみが満ち溢れていた。オルステッドが破
 壊された後も、世界から争いが途絶える事はなく、必ず何処かで血が流れ、嘆きと哀しみが生まれ、
 そして憎しみが芽吹く。
  その世界で、憎しみを背負って魔王となったオルステッドが、再び降臨する事は何もおかしな話
 ではなかった。






  Cocytus








  自我を取り戻すまでに要した時間を、オルステッドは知らない。
  ただ、目覚めた時に感じたのは、戦火とそこから生み出される憎しみだった。それはオルステッ
 ドが塵と化した時とほとんど変わらず、踏み躙られた人々の呪詛はオルステッドに殺されたルクレ
 チア国民の、そして彼らに裏切られたオルステッド自身のそれにとてもよく似ていた。
  その呪詛は、塵と化していた長い眠りの間、ずっと子守唄のように耳元で囁かれていたような気
 がする。
  絶え間なく続く呪詛は、オルステッドが目覚めた後も延々と繰り返し続いた。血で血を贖う時代
 は決して終わらない。列強国が弱小国を支配し、その下で人々は喘ぎ、それに抗う為の戦がまた起
 こり、争いの最中に裏切りが立て続けに生じ、また血が流れる。
  それらに大小の違いはあれど、憎しみと流血は変わらない。
  それは、どれだけ時間が経っても何度も繰り返される真実だった。

  所詮、こんなものか。

  オルステッドはゆっくりと修復していく身体を抱えて、再び人間への失望を露わにした。
  人間とは何処までも身勝手だ。どれほどこちらが思っていても、それらは全て利益や不利益かで
 決めつけ、不利益と分かるや掌を返したように呪詛を吐き捨てるのだ。
  まるで、相手に魂など宿っていないかのように。

  自分に、お前に他人の気持ちなど分からない、と吐き捨てたのは誰だったか。  

  ルクレチアの誰か、であった事は確実だった。
  オルステッドに、人ではなく魔王の道を選ばせた、あの醜き人々。
  しかし目覚めたばかりの、そして余りにも長い時を眠っていたオルステッドには、それをはっき
 りと思い出す事は困難だった。ただ、辛うじてそう吐き捨てた彼らが、オルステッドの引き金であ
 った事は確かだった。
  思い出す事も出来ないくらい遠く、そして新たに生み出される憎しみによって塗り替えられる彼
 らの顔を思い出す事は止め、オルステッドは復元された口の端に嘲りを浮かべる。
  誰であれ、結局はオルステッドの魂を削り取っていったのだ、と。
     そうやってオルステッドの魂を確実に削り取っていった彼らは、果たしてオルステッドの心を理
 解していたのか。結局は彼らも、オルステッドの都合のよい部分を甘い蜜のように啜っていただけ
 なのだろう。
  そんな彼らを目の当たりにし、そしてやはりまた同じような人間共を繰り返し見続けるオルステ
 ッドに、人間であり続ける事への執着心は全くない。
  如何にオルステッドの中に人間である部分が残っていたとしても、再び何度でも繰り返す裏切り
 と血の歴史を見れば、どうしても人間であり続ける意義を見出せない。
  それは、薄ぼんやりとしたルクレチアの風景を思い出したとしても同じだろう。もうあの国は何
 処にもなく、おそらく思い出の中にもオルステッドの大切なもの――人間として繋ぎとめておくも
 のは何もない。

  同時に、オルステッドは魔王として殺される事にも諦めを感じていた。
  魔王を殺せるのは人間だけだ。だから、オルステッドはあらゆる時代の英雄を呼び寄せた。けれ
 どもオルステッドを殺したのはオルステッドと同じ魔王で、それ故にオルステッドは塵になっても
 死ぬ事はない。
  そして目覚めたこの世界。
  終わらぬ裏切りと憎しみの連鎖の中で、果たしてオルステッドを殺す事が出来る勇者がいるのだ
 ろうか。
  どれだけ世界で時間を潰し、世界を見渡しても、その問いに応える者はいない。
  きっと、加速する事が良であり、利益こそが全てであるこの世界では、オルステッドが降臨した
 としても、打ち倒す事に多大な益がなければきっと動かないだろう。それは、ルクレチアが滅んだ
 時でさえ我関せずと見送っていた、諸外国と同じだ。
  そんな世界に一体どれほどの意味があるのだろうか。
  オルステッド一人に安息も与えられず、ただただ争いの火種ばかりを生み出す世界と、その根本
 の原因である人間どもに。

  まだ力は戻っていないが、とオルステッドは薄笑いを浮かべながら思う。
  完全に魔王オディオとして再臨する事が出来たなら、その時は、何の躊躇いもなくこの世界を破
 壊するだろう。
  善も悪も、愛も憎も、美も醜も、何もかも分け隔てなく塵に戻す。人間が知恵の実を食して罪を
 犯すよりも遥か前、神が世界を作る7日前と同じ状態に、この世界を戻してやろう。

  それは何処までも滑稽な事に思えた。
  かつては神に祈りを捧げた事もある自分が、神さえもを破壊する事を考えているなど。

  彼が聞いたら何と思うだろうか(、、、、、、、、、、、、、、)

  そう考えた瞬間、オルステッドの中にルクレチアの事が一瞬蘇った。
  けれどもそれだけだった。長い眠りの間に効かされた呪詛によって分厚く塗り直された憎しみが、
 人間の顔を思い出させる事を阻んだ。
  幾多の憎しみを見たオルステッドにとって、その元凶である人間は全て同じ顔をしているように
 見え、それらの中から何か一つを取り出す事は困難だった。
  そして既に人間に期待を掛ける事を止めているオルステッドは、人間の中から何かを探す事など
 徒労でしかないと知っており、それ故にそれ以上の追及は行わない。たち消えたルクレチアの影を
 追う事もせず、オルステッドは自分の中にオディオの力が流れ込むのを、ただただ感じ続けた。



  そして、また長い月日が流れた。
  むろんその間も憎しみは止まらず、オルステッドの中にはオディオが蟠っていく。
  それは、もしかしたら、ルクレチアにいる時以上のものかもしれない。それをオルステッドは恐
 れる事もなく、薄い笑みを湛えて眺めやる。血が流れれば流れるほど、オルステッドの力は強大に
 なり、そして世界の破滅は近付くのだ。
  そうとも知らずに憎しみを垂れ流す人間共を、オルステッドは嘲笑した。利を求めているつもり
 が、実はそれは破綻へ近付く代償であるとは知らずに、同じように憎みあう人間共は滑稽であり憐
 れだった。
  今や救世主の声は遥か遠く、誰にも響いていない。



  嘲笑するオルステッドの前に、それが現れたのは突然の事だった。偶然であろうそれは、けれど
 も長く存在すればそんな事もあるだろうという類のものだった。
  向こうも、オルステッドを見てすぐにそれを気が付いたようだった。
  何せ、互いに長くある身だ。人間である事を止め、魔王に堕ちて、しかも一度顔を合わせている
 のだから分からぬはずがない。
  オルステッドと同じ境遇となった――人間でなくては殺す事が出来ない魔王は、けれども未だに
 人間を信じているような光を、変わらぬ青い双眸に宿していた。

 「この期に及んで、まだ人間なんぞを信じるのか。」

  冷ややかにそう告げれば、男は面倒臭そうにオルステッドを見ただけだった。相手にするのも煩
 わしいといった態は、この世に飽いたとも見えなくもない。ならば世界を滅ぼすオルステッドに与
 しても良いものを、何故かこの男は人間を諦めていないのだ。

 「死ぬ事も出来ぬ癖に、何に縋っている?この世にあるのは所詮幻。少し翻せばすぐに醜い内面が
  滲み出る。そんなものをお前はまだ信じているのか。」
 「………ああ。」

  答えは素っ気ないほどに短く、しかし同時に男が人間を信じているという事を肯定するものだっ
 た。

 「なんだ?まさかまだお前を殺す勇者が現れるの信じているとでも言うのか?この世界を見て、そ
  れを言うのか?この、憎しみしかない世界で。」
 「………ああ。」

  答えは短く、そしてやはり肯定だった。
  それを聞いた途端、オルステッドは哄笑した。眼の前の男がとんでもなく愚かで、憐れであると
 分かったからだ。
  人間を信じるなど、この世界を長らく見てきただろうに人間を信じるなど、常軌を逸している。
  しかし、そう嗤うオルステッドを見る男の眼差しは、憐れみに満ちていた。

 「………私を殺す者は必ず現れる。あれは、そういう人間だった。だから、何が起きてもやってく
  るだろう。私はそれを待つだけだ。今までもそうだった。だからそれだけは止めてはならない。」

  男の口ぶりは、まるで現れる人間の事を知っているようだった。
  そして、待ち人のいないオルステッドを憐れんでいた。  

  そしてそれは、オルステッドの顔に、確かに何かを撃ちこんだ。