Heven's Not Enough






  勇者でいる事に耐えられなくなった時、本当は人である事にも耐えられなくなっていたのだと思
 う。

  もともと人並み外れた剣の腕を持ち、それ故に、決して裕福な家系でも高貴な血筋でもないにも
 拘らず、将来は騎士となる事を嘱望されていた。幼い頃から両親は家の負担になると分かっていな
 がらも学校に行かせ、いつ騎士として召し抱えられても良いように礼儀作法を叩きこんだ。
  両親が無理をしている事は分かったから、出来る限りその教えには従うようにした。寝る前には
 聖書を読んでは神を讃え、昼は礼儀作法を学び、そして何か小さくても大会があれば出場し、貴族
 達の眼に止まるように剣の腕を振るった。
  村人達の困りごとは積極的に聞いて、些細な失くし物から洞窟に澄みついたという魔物の退治ま
 で請け負った。
  そうするうちに、皆が自分の事を褒め称えるようになった。

  優しい若者。
  剣大会の優勝者。
  村の救世主。
  そして御伽噺の勇者様。

     幼い頃から、昔から、そう呼ばれ続けてきた。だから、別にあの日の大会で優勝した事によって
 そうなったわけでもないし、攫われた王女を魔王の手から取り戻すからそう呼ばれたわけでもない。
  自分にとって『勇者』という言葉は自分自身を示す言葉だった。幼い頃から両親が身を削ってま
 で望み、それに応えようと全てを投げ打った自分の軌跡だ。

  それ故に、その名前を完全に剥奪された時、人である事が出来なくなるのは当然の事だった。






     Antenora








  今思えば、あの時に自分は既に勇者ではなかったのだ。

  崩れた自分の身体を見ながらオルステッドは思う。
  王国の人間に勇者の名を剥奪される事は、オルステッドにとっては大した問題ではなかった。勇
 者の証などそもそも何処にもなく、強いて言うならばオルステッドが勇者として、勇者になるべく
 して行った軌跡こそが勇者の証なのだから、誰かが何を言ったところで簡単に剥奪できるものでは
 ない。
  今は亡き賢者ウラヌスが言ったように、オルステッドは己を勇者と信じて助けを待つ者がいる限
 り勇者であるはずだった。

  しかし、とオルステッドは灰と化しつつも苦く笑う。

  あの時、既にオルステッドは勇者ではなかったのだ。

  オルステッドが人である事に耐えられなくなったのは、確かに魔王山の頂上で、自らを勇者と信
 じていたはずの王女が、オルステッドを罵り自害した時だった。あの時、オルステッドは例えよう
 もない絶望を味わったのだ。信じていた者からの手酷い裏切りを一度感じた後に湧き起こるのは、
 自分自身を追いたてた無責任な人間共への憎悪だった。
  そして、自分もあの醜い人間共の一人なのかと思えば、もはやそれは耐えられなかった。守るべ
 きと教えられ、思ってきた人々が、ただのおぞましい生物でしかないと感じた瞬間、オルステッド
 は人間を止めた。
  人間を止めた以上、それは既に勇者ではない。
  オルステッドが知る限り、勇者は常に人間だった。人間でないオルステッドは勇者ではなく、化
 け物にすぎなかった。そしてその化け物を倒す人間は、どう考えてもルクレチアという弱いふりの
 得意な無責任の集合体である醜い国の中にはいない。 
  だから、異世界から英雄達を呼んだ。魔王オルステッドを屠る事の出来る、或いはオルステッド
 に魔王こそが正しき姿であると納得させる為の、英雄を。

  そして英雄はオルステッドに打ち勝った。
  ただし、その結末はオルステッドでさえ想定していなかったものだった。

  四肢を打ち抜かれ、もはや灰と化す事を余儀なくされたオルステッドを見下ろす青い眼にぶつか
 った時、オルステッドは笑いたくなった。
  そこにあった青の双眸は、既に人間のそれではなかったからだ。

  なんてことだ。

  笑いたい。腹を抱えて笑ってしまいたい。英雄を呼んだつもりが、まさか自分と同じ魔王を呼ん
 でしまっていたとは。そして呼び出した英雄であり魔王である男は、今のオルステッドと正に同じ
 状況下にある。
  オルステッドが彼らを呼ばねば終わりを着ける事が出来なかったように、この男もまた魔王であ
 るが故に死の輪から離れてしまっているのだ。勇者に殺されなくては死ぬ事も出来ない。
  そうして、ふっと思いつき、今度は自分の愚かさに笑いたくなった。
  魔王を殺すのは勇者だ。その為に自分は英雄達を呼んだ。けれども実際にオルステッドを打ち倒
 したのは、オルステッドと同じ魔王だ。ならば、オルステッドもまだ死ぬ事が出来ない。
  まるで出来の悪い喜劇のような事態に、オルステッドはそれが絶望の色をしている事を知りなが
 らも笑いで引き攣る喉を止める事が出来なかった。いや、むしろ絶望の深さに笑う以外の方法がな
 い。

  ひくひくと喉を動かすオルステッドから、男が眼を逸らした。最後に垣間見えた男の眼には、ま
 だ人間に対する望みが宿っていた。とすると、もしかしたらこの男が魔王になったのは、つい最近
 の事なのかもしれない。この男の経歴を、オルステッドは詳しくは知らない。ただ、自分と同じく
 英雄の名を冠した事だけは、有り余る憎しみの中から掬いだした情報として持っていた。
  そして、この男がかつて一度英雄の座を降りた事も。

  魔王になった――即ち人間を止めた時と、英雄でなくなった時が違うのか。英雄の座から引き摺
 り下ろされた時、まだ人間である事に躊躇いはなかったのか。  

  灰になり掛けた眼で男の姿を追いながら思い、そしてそれは自分も同じだと気付く。
  オルステッドが人間を止めたのは、全ての希望が潰えた時だった。けれども、勇者である事が難
 しくなったのは、本当はもっと前の事だった。
  アリシアに自害されるよりも前、国王殺しの罪を着せられルクレチア国民全員に魔王と罵られる
 よりも前、ウラヌスが死ぬよりもずっと前。
  
  魔王山でハッシュが死に、ストレイボウが生き埋めになった、あの時だ。
  ストレイボウが死んだと思ったあの瞬間、オルステッドは勇者として生きる事が既に困難になっ
 ていたに違いなかった。
  ウラヌスやハッシュの死が、オルステッドの中で小さくなかったわけではない。彼らも短い間と
 はいえ共に一つの目的を目指した仲間だったのだ。彼らの死が重くないと言えば嘘になる。
  しかし、彼ら二人とストレイボウとでは、どうしたってオルステッドの中ではストレイボウの比
 率が高くなる。人間の命に優劣をつける事はおこがましい事だろう。しかしそれでも、ストレイボ
 ウはオルステッドの中では特別な立ち位置にいたのだ。

  ストレイボウとオルステッドの付き合いは長い。オルステッドが勇者を志すよりも前から、一緒
 にいた。オルステッドが勇者を志してからも、それは同じだった。
  勇者としての教養を学ぶ為に学校に行かされた時も、元来どちらかと言えば大雑把なオルステッ
 ドが、何とか一連の礼儀作法を学び終えたのは、オルステッドとは真逆のどちらかと言えば神経質
 なストレイボウの手助けがあったからだろう。それ以降も何かの式典の際には、オルステッドが何
 かまずい事をしそうになればストレイボウが目配せしてくれた。
  村人達の依頼を引き受ける時も、隣にはストレイボウがいたのだ。オルステッドは確かに剣の腕
 は誰よりも勝る。しかし、剣の腕だけでは切り開けない事――毒草に触れた時の応急処置や、魔物
 の狡猾な罠、そして薬草の作り方などは、ストレイボウがいれば全てが何とかなった。村人達が褒
 め称える依頼の成功は、決してオルステッド一人では成し得なかったのだ。
  オルステッドの持つ勇者の証は、オルステッド一人で形作ったものではない。ストレイボウがそ
 の片割れを担っている。
  だから、ストレイボウが生き埋めになり、その命が失われたと思った時、オルステッドは身体の
 半分が麻痺してしまったようだった。
  その直前のハッシュの死も衝撃ではあったが、しかしすぐに立ち直る事が出来た。ウラヌスの死
 はストレイボウの死の衝撃が大き過ぎて深く考える事もなかった。
  それほど長く一緒にいて、勇者の座を二人で築き上げてきた。そのうちの一人がいなくなった以
 上、勇者を続ける事は困難だった。
  それでも、ウラヌスに諭され、辛うじて死者の意志がまだ生きている事を信じて、オルステッド
 は耐えたのだ。勇者という偶像を叩き壊し、人というものを捨て去ってしまう事に。勇者を止めて
 しまえば、ストレイボウと共に築き上げてきたこれまでも、叩き壊す事になると信じて。  

  しかし、魔王山の頂で突きつけられた現実は更に残酷だった。

  姿を現したストレイボウに、生きていたのかと喜ぶよりも先に、決別を突きつけられた。二人で
 築き上げてきた『勇者』は、ストレイボウにとっては屈辱でしかなかったのだ、と。
  オルステッドとストレイボウのこれまでを、全否定したのだ。
  その一撃は、オルステッドにとっては身体を引き裂かれるよりも激しい苦痛を齎した。ストレイ
 ボウの死では半身が麻痺したように感じただけだった。けれどもストレイボウ本人からの拒絶は、
 あまりにも過酷だった。
  そして、悲劇というのは連鎖するのだ。
  オルステッドは、自分の手でストレイボウを殺さなくてはならなかった。ストレイボウはルクレ
 チア屈指の魔術師だ。その彼が本気で、命がけでかかってきた場合、オルステッドと雖も手を抜く
 事はできない。御前試合とは全く違う、ルールも何もない殺し合いの果てに、オルステッドの脚元
 にはストレイボウの骸が転がった。

  大切な物を自らの手で破壊した。
  その事実は、既に転がろうとしているオルステッドを一気に突き落とした。そうしてオルステッ
 ドは勇者の座を叩き壊し、人間を止め、魔王に成り下がったのだ。

  それは、お前も同じか。

  オルステッドは翻った擦り切れた布を追いかけて呟き、一気に塵になった。
  それは、束の間の休息だった。