木枯らしが吹き荒むにはまだ早い。
  しかし、馬上の人であるマッド・ドッグには、この時期の冷たさは十分に冷え込んでいると言っ
 て良かった。
  ジャケットの上に厚手のコートを羽織り、いつもはスカーフを巻くところを、もこもこのマフラ
 ーに替えることで、ようやく風を切る時に一緒に身も切りそうな寒さを緩和する事が出来る。
  この時期の仕事が嫌だとは言わない。
  ただ、楽だとも思わない。寒い時期に遠く離れた場所まで移動するのは、何もない荒野では生死
 に直結するし、食糧が尽きた時何かで飢えを凌ごうにも何もない。もともと不毛の大地である荒野
 は、更に死に絶えたような地になるのだ。
  しかし、それを理由にマッドが冬場、仕事をさぼっているというわけではない。だが、それでも
 夏場に比べると、冬場の狩りはずっと少ない。
  それは、マッドがさぼっているのではなく、出歩く賞金首達も鳴りを潜めるからだ。全ての生物
 にとって眠りが近くなる冬場は、乱暴者であるならず者にもその効力を発揮するらしく、不快な事
 件もほとんど起こらない。小さな小競り合い以外は、特に大きな嘆きは生み出されない。
  尤も。
  それは普段は一人前に動いているならず者に言える事。
  普段から冬眠状態に近い賞金首は、冬場だろうがなんだろうが、賞金稼ぎマッド・ドッグに理不
 尽な仕事をさせる。
  家事とか。




  Hot Milk






  ぱかぱかと馬蹄を慣らして辿り着いた小屋は、もしも外が寒くなかったらそのまま通り過ぎたく
 なるような気配を醸し出していた。
  髭面の賞金首サンダウン・キッドが明らかにいる事を主張する小屋を、しかし通り過ぎてしまう
 には、その日の気温は酷く寒かった。
  仕方なくマッドは厩に愛馬ディオを繋ぎ、厩の中にしっかりと収まっている茶色の馬を見て肩を
 落とす。もはや、サンダウンが小屋の中で待ち構えている事は確定済みだった。些かげんなりした
 気分で小屋の扉を開き、コートとマフラーを脱ぎながら、台所へと向かう。
  すると、実は小屋の中には誰もいなかった、なんて都合の良い事はなく、マッドはソファの上で
 ごろごろしている茶色の物体を発見した。どれだけ眼を凝らしても、その茶色の染みは消えたりは
 しない。それどころか、マッドの足音を聞きつけるやもぞもぞと動き出して、膨らみ始めた。そし
 て、茶色の中に二つの青い明りが灯る。
  その青い明りは、マッドが動けばそれを追いかける。非常に何かを物言いたげなその視線を、マ
 ッドは丸ごと無視した。気にしてやる義理など何処にもない。
  それよりも、マッドはこの寒い中、暖炉に火も灯さずにいた男の皮膚感覚を疑いたい。やはり、
 もさもさした髭があるおかげで、寒さを緩和できるのだろうか。
  そんなアホな事を一瞬考えた後に、次に視線が向かうのは、綺麗なままの台所だ。何一つとして
 準備されていない台所に、マッドが微かな殺意を覚えたとしてもおかしくはない。仕事をして帰っ
 てきたら、無職の亭主が家事を何一つとしてせずにごろごろしているのだ。
  怒りたくもなる。
  そもそも。
  そもそも、確かに西部にある空き家は誰でも好きに使って良いという不文律があるとはいえ、実
 質、この小屋の持ち主はマッドのようなものだ。マッドが最初に見つけ、気に入り、そして綺麗に
 した。
  そこに、サンダウンは我が物顔で割り込んできたのだ。どうやって運んできたのかを小一時間問
 い詰めたくなるダブルベッドやソファを運び込み、何を考えているのかと詰りたくなるマッドとお
 揃いの歯ブラシやマグカップを持ち込んで、自分の巣を作った。
  そうしてその巣にマッドを絡め止めるその様は、まるで蜘蛛だ。
  だが、蜘蛛のように働いて獲物を捕らえたりせず、ひたすらに冬眠している男はむしろキリギリ
 スだ。

  じゃあ何か。
  せかせか働いている俺は蟻か。
  そんで怠け者のキリギリスを食わせてやってんのか。

  その蟻さんは、今、キリギリスにじっと物言いたげに見つめられている。どうも、食事を強請っ
 ているらしい。  
  しかし残念な事にマッドは食事は外で食べてきた。つまり、別に何か食べたいだなんて思ってい
 ない。だから、キリギリスは蟻さんのお零れに預かる事は出来ないのだ。
  ざまあみろ。
  マッドはサンダウンの視線を振り払って、洗濯物を抱えて風呂場へと行く。洗濯は明日しよう。
 基本的に乾いた荒野では、冬場だからと言って雪や雨が多くなるという事はない。だから、きっと
 明日も晴れるだろう。
  そして、一ミリも湯の溜まっていない風呂に水を張り始める。
  今日はゆっくり風呂にでも入って寝よう。ソファで物言いたげだったサンダウンの事など知らな
 い。5000ドルの賞金首だというだけでマッドがかまってやると思っていたら大間違いなのだ。その
 事をしっかりと教えてやらねばなるまい。
  だから、マッドはサンダウンを放ったらかして、風呂に入る事にした。
  温かい湯船の中は、筋肉の一つ一つが解れていくようで、本当に気持ちが良い。ふわふわと巻き
 上がる湯気も温かい。仄かに香るマッドのお気に入りの石鹸の匂いも――サンダウンもそれを使っ
 ている事は非常に不本意だが――心地良い。
  うっとりと湯に身体を任せて、サンダウンの事など全部忘れてしまう。
  大体、蟻さんは本当はキリギリスの事などどうでも良いのだ。キリギリスが野垂れ死のうと、蟻
 さんには関係のない話。せいぜい、斃れた死体が金になるくらい。蟻さんがキリギリスの為に何か
 してやるなんて話、聞いた事もない。
  そんな事、サンダウンだって分かっているだろうに。
  物言いたげだったサンダウンの青い眼を、忘れていたと思ったのに思い出す。
  サンダウンがこういう眼をする時、それは大概マッドに何かを求めている時だ。食事であったり、
 マッドの身体であったり、或いはマッドにはまだ理解できない何かであったり。飢餓と迷子に同時
 になってしまったような目をしているサンダウンは、何処に居ても真冬の荒野を彷徨っているのか
 もしれない。
  そしてそれを無視できないマッドは、一体何なのか。

  湯船から身を引き上げ、程よく温まった身体を縞々のパジャマで包んで台所に戻ると、そこは予
 想に反して温かくなっていた。見れば、部屋の隅にある暖炉に火が灯っている。視線を動かしてサ
 ンダウンを見れば、サンダウンは身をソファの上に起こして、背凭れに顎を乗せてマッドを眼線で
 追いかけている。
  その眼線は、まだ、何か物言いたげだ。
  と、急にサンダウンが立ち上がってマッドの傍に近付いたかと思うと、突然腕を取られた。その
 まま引き寄せられる。ぐらりと傾いてサンダウンの胸に飛び込む形となったマッドは、サンダウン
 がマッドと一緒に、ぼすんと再びソファに落ち着いてから、抗議の声を上げようとした。

 「何すんだ、てめぇは!」

  そう言いかけたマッドに、サンダウンがばさあっと何かを覆いかぶせた。
  サンダウンを覆っていた茶色く薄汚いポンチョではない。
  柔らかく、こすればすぐに毛羽立ちそうなそれは、マッドがお気に入りの――そしてサンダウン
 が稀に勝手に使っている――毛布だ。それでマッドを包みこんだサンダウンに対して、なんでお前
 がそれを持っているんだという突っ込みをするよりも先に、サンダウンは、ぺたりとマッドの頬に
 触れる。

   「…………寒く、ないか?」
 「ああ?」

  サンダウンの問い掛けに、マッドは怪訝な顔をする。
  部屋に火も灯さずにいたのはサンダウンだろうに、一体何の話なのか。それよりも、マッドとし
 てはサンダウンが自分の毛布を持っていた事を問い詰めたい。
  すると、サンダウンはぼそぼそと呟いた。

 「…………お前が、来るとは思わなかった。」
 「なんだそりゃ。まさかてめぇ、何か悪さしたのか!酒か!また勝手に酒を飲んだのか!」
 「違う…………。」

  溜め息と共にサンダウンは、吠えるマッドを抱き締めた。

 「……何処か、別の場所に行って、今日は来ないのかと思った。」

  寒いから。
  寒いから、何処か温かい場所で身を丸めて、誰かと笑いあっているのかと思った。身を切る風が
 吹く荒野などには見向きもせずに。
  そう呟いて、サンダウンは何か感慨深げにマッドの身体をぺたぺたと触り、そしてぎゅっと抱き
 締める。

 「その格好だと、湯冷めするだろう………。」

  だから毛布で包んで抱き締めて。
  しかし、くんかくんかとマッドの匂いを嗅いでいるおっさんには、何か別の意図があるような気
 がしてならない。
  マッドがサンダウンの思惑を探っていると、サンダウンは風呂に入って温まっているマッドを見
 下ろして囁く。

 「何か、飲むか?」

  身体を冷やさない為にも。
  そう囁いてお揃いのマグカップを差し出すサンダウンに、今度こそマッドはあらぬ疑いを持つ。
  確かにマッドはパジャマ姿だ。このまま放っておけば湯冷めする事は分かっている。けれども部
 屋は十分ぬくもっているし――というか暖炉に火を入れたのはサンダウンだ間違いなく――わざわ
 ざ内側から身体を温めるなんて事する必要はない。そもそも、最初から暖炉に火を付けていなかっ
 たのは何故だ。
  そう考えれば、マッドがやってきたから、という考えに行きつくわけだが、それは非常に考えに
 くい事だ。そんなサンダウン、マッドは知らない。こんな、高性能ではないがサンダウンには有り
 得なかったオプション付きのサンダウンなど、マッドは知らない。
  が、差し出されたマグカップの中身を見て、目の前にいるのは確かにサンダウン・キッドである
 とマッドは確信する。
  マグカップの中身は、酒ではなく、温められた牛乳だった。
  別に、マッドを子供扱いしているわけではない。サンダウンは間違いなく、本気でこれを差し出
 している。
  しかし、牛乳一杯でも、サンダウンが差し出すなど普段は有り得ない事だ。やはり何かしたのか。
 酒を勝手に飲み漁ったとか。
  再び湧き起こった疑いの眼差しでマッドはサンダウンを見つめる。が、サンダウンはマッドを抱
 えたまま平然とホットミルクを飲んでいる。その姿は、どうしようもないほど、普段のサンダウンだ。
 そして、仄かに舌先に香るブランデーの味が、唯一のマッドへの気遣いに思えて仕方がない。多分、
 このおっさん、自分一人だけが飲むつもりだったら、ブランデーさえ入れなかったに違いない。
  その一滴の気遣いが、非常に不気味だ。

 「……おい、キッド。本当に何をしやがった。怒らねぇから言ってみろ。」
 「……何もしていない。お前が来ないと思っていた時に現れるから。」

  でも来て欲しいと思っていた時に現れるから。
  凍えるような夜に現れるから。
  いつも凍えているキリギリスは、蟻さんの施しがないと生きていけないのだ。食べ物も住むとこ
 ろも、一匙の熱でさえ。
  そっとサンダウンの手が、マッドの頬を掬うように撫でていく。
  どう反応して良いのか分からないだけだ、とサンダウンは呟いて、ミルク味の口付けをマッドに
 齎した。その時、サンダウンの髭に牛乳がついていて非常に間抜けであった事を、マッドは見逃さ
 なかった。
  ただ、そのまま濃厚になる口付けを前に、言う事が出来なかっただけで。
  そして、やたらと濃厚な口付けの後、サンダウンはいきなりぽてんと眠ってしまった。どうやら、
 一滴のブランデーが効いたらしい。まるで、子供。
  普段はザルの癖に。
  あれか。
  牛乳に混ぜて酒を飲むと、駄目なのか。
  それとも、この冷たさが増す季節、この男でさえ何か温かみを求めて、それを手に入れた瞬間、
 気が緩んだのか。
  そして、その温かみがマッドであるとでも、言うつもりか。
  時に何かを求めるような物言いたげな眼差し。
  その答えを垣間見たような気がしたが、自分に凭れて眠り始めた男の髭に牛乳が付いている間抜
 けな顔を見て、多分勘違いだと思いなおした。




  次の日。

 「キッド!てめぇやっぱりブランデー丸々一本飲み干してやがるじゃねぇか!」

  あの牛乳に混ぜた一滴は、まさか最後の一滴か。
  マッドの怒号が響き渡った。