古ぼけた酒場の、古ぼけた木の床を、マッドは見下ろす。
  ぎしぎしと傾ぐ椅子に腰かけて、しかしまるで此処が宮殿の玉座だと言わんばかりに優雅に足を
 組んだマッドの脚先には、小さなひっかき傷のようなものがこびり付いた床がある。
  砂と、長年の人々の足踏みで汚れてしまってはいるが、よくよく見ればそれはひっかき傷などで
 はなく、石炭か鉛筆かで描かれた絵であると、気が付いただろう。
  若い女の横顔。
  その下に、こちらは既に読む事も出来ないほどにかき消されてしまっているが、かつては女の名
 前が描きこまれていたのだという。




  Ghost Line





  場末というよりも、とにかくうらぶれた、人気のない酒場だ。
  このままダンスでも始められそうなくらいの広さに、目一杯にテーブルと椅子が敷き詰められて
 いるのを見ると、かつてはそれなりに賑わっていたんだろうな、と思う。カウンターの後ろにある
 棚に、未だたっぷりと幾種類ものボトルが埃を被りつつも収められているのを見ても、その事は明
 らかだった。
  しかしかつては栄えていても、ゴールド・ラッシュというあまりにも短い波に浚われた後は、波
 が運んできた砂に埋もれるだけだ。
  金鉱脈に向かう為だけに作られた町は、今では昔の賑わいはなく、常に行き交うのは、さらさら
 とした砂だけだ。

 「昔は、それなりに人もいたものだが。」

  使う者のいないグラスを、マスターはそれでも丁寧に磨く。酒を満たし、人が唇を付けるグラス
 だけは、毎日丁寧に磨いているのだと、真っ白な髪をした高齢のマスターは言った。眉毛まで白い
 老人の顔立ちは、こんな場所の酒場に勤めている事が不思議なほど、気品に満ちている。生まれた
 当初から、末は酒場のマスターで終わるように定められていたわけではないのではないか。
  マッドは、横目で慣れた手つきでグラスを磨く老人を見た。
  西部の荒野には、様々な物が流れ着く。人も、物も。ゴールド・ラッシュの波に乗ってやって来
 たのは、何も野心溢れる人間だけではない。行き場を失った人間も、新天地を求めてやって来る。
 その中には、南北戦争の傷を引き摺った、貴族達も大勢いただろう。

 「お客様は、こちらは初めてですか。」

  お客様ときたか。
  西部で聞くには、あまりにも上品めいた言葉に、マッドは苦笑した。

 「いや、通り過ぎただけの事なら、あるな。」

  荒野の砂に埋もれた、砂と枯草しかないゴースト・タウンだと思い、馬で通り過ぎた。ゴースト・
 タウンだからと言って、野宿をせねばらならない時は雨風を防ぐために厄介になる事もあるが、こ
 の町については、偶々、世話になった事はない。
  仮に一晩泊まっていたとしても、こんなふうにまだ経営している酒場がある事に気づいたかどう
 か。もしも普通の酒場のように、ならず者達が集まって騒ぎを起こしているなら気づくだろうが、
 ならず者達も、まさかこんな砂に埋もれた酒場が、こうして酒瓶をそろえて待っているとは思わな
 いだろう。
  マッドも、気が付いたのは本当に偶然だ。偶然、この町の中を通り過ぎている時に、ちょうど酒
 場から、いらぬゴミを捨てに出てきたマスターを見つけたのだ。

 「どうやって、暮らしてる?」

  他の店は、到底機能しているようには見えない。この町には、おそらくこのマスターしかいない
 だろう。酒は唸るほど背後に従えているが、食料などはどうしているのか。

 「月に一度、行商人が来ますので。」
 「よく、行商人に来させてるな。文句を言われねぇか?」   
 「特には。それにお礼に、ささやかながらお酒もお渡ししておりますし。」

  なるほど確かに此処の酒は一級品のものが多い。それをどうやって手に入れたのかも気になるが、
 それは過去の栄華によるものかもしれないので、マッドは深くは追及しなかった。

 「だが、商売にはならねぇだろう?客だってほとんどこねぇだろうし。」
 「お客様がいらっしゃいましたが。」
 「一人、二人だと、一日の飯代にもなりゃしねぇ。」

  それとも、此処の酒を目当てにしている、成金の愛好家でもいるのかもしれない。考えられれぬ
 事でもなかったが、ちょっとばかり突飛でもある。

 「昔の客は、来ねぇのか?」

    こつり、とブーツの先で傷だらけの床を叩いた。ブーツの先には、女の顔がある。描かれた女が
 誰なのか、勿論、マッドは知らない。かつてこの町にいたのであろう、しかし今はいない女。誰が
 彼女を描いたのか、何のために描いたのか、それを知っているのは、この場ではマスターだけだ。
 マスターも、もしかしたら知らないかもしれないが。

 「いらっしゃいませんね。昔此処にいた方は、もう、この町の事など忘れてしまっているでしょう。」

  忘れてしまっている。
  その言い方に、マッドは小首を傾げた。仮にも、かつて生きた場所だ。忘れるなどという事があ
 るだろうか。それとも、忘れたい事でもあったのか。
  問いかけようとしたが、初めて来たばかりであるのに、唐突に事件性を匂わせるような事を聞い
 て空気を凍り付かせる事もないだろう。

 「あんたは、なんで出ていこうとしなかった?」
 「別の町に行ったところで、生活の糧を得られるようにも思えませんでしたから。」
 「これだけ酒があるんだから、元手にはなるだろうよ。」
 「この酒は私が人生をかけて集めた物です。このようにお客様にお出しするのはともかく、売り捌
  く事は出来ません。」

  一瞬、マスターの声の中に、頑固な響きが混ざった。もしかしたら、果樹園を――それもワイン
 に特化した――経営していた南部貴族だったのだろうか。ふと沸き上がった想像を、マッドはけれ
 ども声には出さなかった。

 「それに、担いでいくには、少々数が多すぎましょう?」
 「ま、確かに。」

  彼の背後に鎮座する、大量の酒瓶と酒樽を、マッドは睥睨した。
  一級品の酒というだけではなく、数も多い。売り捌けば幾らの金になるか分からない。それを置
 き去りにしたくないという気持ちも、まあ分からぬではない。

 「でも、逆に不用心じゃねぇか?俺みたいな流れ者がやってくる事だってあるんだろ?もしも俺が、
  銃を抜くようなならず者だったらどうする?」
 「お客様はそのような事はなさいませんでしょう。」
 「やけにきっぱりと言うな。」
 「賞金稼ぎマッド・ドッグともあろう方が、このような、うらぶれた酒場の主人を撃ち抜くなどと
  いうみっともない事はなさいますまい。」

  マッドの名をしゃらりと言ってのけたマスターの表情に、大きな変化はない。マッドも名を当て
 られたからと言って騒ぎはしない。マッドの名は、それなりに売れている。と言っても、こんな辺
 鄙な土地の酒場のマスターが、マッドの事を知っているとは――名前は知っていたとしても顔まで
 知っているとは思わなかったが。

 「よく分かったな。」

  葉巻に火を点け、一つ煙を吐いて、マッドは言った。

 「有名ですので。この店にいらっしゃる方も、よくお客様の事を口にしていらっしゃいます。」
 「この店に来る奴が、ねぇ。」

  一体どういう手合いの奴らがマッドの事を口にするのか。
  ならず者連中か、それともマッドを雇いたいとか思っている貴族共か。はたまた。
  マッドは、こつりと床の女を、足先でもう一度叩く。
  マッドがかつて撃ち殺した、賞金稼ぎ共の幽霊だと言うのなら、それはそれで一興だが。この酒
 場に限っては、そういう連中も来ると言われれば納得出来るかもしれない。
  物言わぬ女の絵を、もう一度、こつりと叩いた時、ふと頭に閃くものがあった。
  もしかしたら、あの男も此処にやってくる事があるのかもしれない、と。死人ではないが、死人
 に近い。
  だが、確証がない上に、それこそ突飛すぎて マスターにそれを問う気にはなれなかった。
  ちらりと口の端だけで笑うと、マッドは綺麗なグラスに満たされた酒に口を付けた。