ゴールドラッシュで人が押し寄せたアメリカ西部は、その波が引くと突発的に出来あがった町は
 かなりの確率で人が去っていく。何もない小さな町に居座り続ける者はほとんどおらず、またなら
 ず者の横行もあり、幾つもの町が寂れ廃れ潰れていった。
  人気のなくなった町は不気味な静けさを湛えたまま、その根が朽ちるまで人々がいた時と同じ姿
 で立ち続け、時には良からぬ事を企む者達を受け入れ、確実に普通の生活からはかけ離れた姿へと
 変わっていくのだ。人の有無など気にもかけない乾いた砂は、隙間を見つけては入り込み、誰もい
 ない家の中を荒らし、そして静かに飲み込んでいく。
  ざらりとした砂に覆われた木の床と、テーブル、人の温もりを吸っていたはずのベッド。
  かさかさとした気配は、人の暮らしていた家だけでなく、神の加護を受けていたはずの教会にま
 で進んでいる。



 Freundschaft auf die offne Stirn



  急ぎで作られたとはいえ、仮にも神の家だ。白い石を削った十字架は今も高く壁に掲げられ、そ
 こに続く床は色褪せていても絨毯が敷かれている。
  だが、不遜な砂の舌は、それさえも嘗めつくそうと大きく広げられている。並べられた木の椅子
 は風によってかあちこち痛み、床には雨漏り所為か大きな染みがある。神の威光を示す十字架にも、
 砂がこびりついている。そして神の言葉を示す聖書は、染みのある床に無造作にページも解けてば
 ら撒かれていた。
  酷く乾いた音を立てて端を揺らめかせているその紙切れに、サンダウンはそっと手を伸ばした。
 その瞬間、雨風に曝されていた聖書の一説は耐えかねたように、ぼろぼろと崩れてしまった。まる
 で、サンダウンに触れられた事実を拒むかのように。
  繋ぎ合わせる事も不可能なくらいに崩れた紙から眼を逸らし、サンダウンは天井近くの壁に掲げ
 られた十字架を見上げる。その十字に吊るされた救世主は、口に砂を詰め込まれ、サンダウンに対
 しては言葉もないようだった。
  幸いも救いもない神の家で弾けた声は、預言者の神託でも信徒の祈りでも天使の囁きでもなかっ
 た。悪魔の甘言でも異教徒の呪詛でも堕落した聖者の嘆きでもない。
  十字架の斜め下。
  辛うじて立ち上がっている椅子の上。
  ずるりと起き上がる陰は悪魔のそれよりも濃く、けれど立ち昇る気配は炎の天使よりも苛烈だ。
 そして砂に埋もれて眼を潰され声も出せない救世主と違い、星空を引きずり降ろしたかのような眼
 でサンダウンを見据え明るい声を紡ぐ。
  乾き切った神の家を粉砕しそうなくらい、背中に世界を従えている。

 「よう!てめぇでもこんなとこに来る事あるんだな。それとも、遂に悔い改めて俺にその首を差し
  出す気にでもなったか?」

  舞台役者のように十字架を背後に立つマッドは、これ見よがしに黒く鈍く光る銃口を見せている。
 たったそれだけなのに、先程まで周囲を覆っていた見捨てられたような色は消え失せていた。
  地に伏せた聖なる言葉はただの言葉の羅列で、十字架も世界を彩る石の一端でしかない。背徳的
 に汚された絨毯も所詮は古ぼけただけで、堕落しそうな椅子も大地に還ろうとしているだけだ。
  神に見放された地を、一瞬で世界の上に立ち戻らせた男は、口角を上げてふざけたような口調で
 言う。

 「けどよ、今更、神様に許しを乞うたって無理だろ。いくら神様が罪を赦し全ての悪から清めてく
  れるっつっても、5000ドルの賞金首は見逃してくれねぇだろ。大体、剣を取る者は剣で滅ぶって
  言うぜ?てめぇが持ってんのは銃だけど、同じじゃねぇのかね。」

  サンダウンが見逃して貰おうと思っているなど、微塵も思っていない癖にそんな事を吐く。自分
 自身も銃で滅びる道を選んでいるのに、そもそも聖書の一遍も信じてない癖に、聖書を口ずさむの
 か。言葉の羅列よりも、声で、色で熱で、他人を嗅ぎ取る癖に。

 「……………。」
 「何だよ、その顔は?ああ、俺がなんで此処にいるのかって?てめぇを追っかけてきた、と言って
  やりてぇが残念だが違うんだな、これが。」

  美しい声音で、讃美歌でも謳うように男は笑い、端正な指先で十字架の下にあった説教壇の表面
 をなぞる。砂に濡れても、この男の場合それさえも彼を引き立てる装飾のように煌めくから不思議
 だ。

 「この町は住人がいなくなった後、賞金首共の根城みたいになってやがった。この町を拠点にして、
  別の町を襲いに行く。だから、この俺様が連中を一掃してやったのさ。また奴らみたいなのに居
  座られんのも癪だから、こうやって時々見て回るんだ。」

  マッドが手を払うと、壁や十字架に執拗にこびりついてる砂は、いとも素直に離れていく。

 「ずっと、昔の話―――俺の初めての、でかい狩りの話さ。」

  砂に装飾された指で、口に咥えた葉巻に火をつける。僅かな笑みを浮かべた口元から、独特の甘
 い匂いが零れた。白い煙が揺れるたび、銃を扱うとは思えないくらい端正な手から砂が落ちる。よ
 くよく見ればあちこちに擦り傷があり、場数を踏んでいる事が分かるが、それを差し引いても端正
 な指先だ。声音も所作も、自分も含め武骨な西部の男とは違い、一つ一つが秀麗さを保ち、様にな
 る。こんな荒野には相応しくないと思うような出で立ちだが、しかし世界を背負う姿はどこにいて
 も目立つ。

    そもそも、サンダウンにとっては神の言葉よりも、世界の影のほうが脅威だ。逃げ出して眼を背
 けた世界の影を引く、マッドのほうが。
  正邪を踏み越えて世界を背負う男だけが、笑みを浮かべてサンダウンを秤にかける事ができる。
  浄化の光も煉獄の炎も示さない。
  弁解も謝罪も聞き入れない。
  天秤はいつだって地獄へと傾いている。
  マッドが量るのは、サンダウンの善悪ではない。傾いた天秤に、マッドが乗り込むだけの価値が
 サンダウンにあるかを量っているのだ。
  今、正義の天秤は、片一方にサンダウンとマッドの二人分の命を乗せて、硫黄と溶岩の臭いがす
 る凍てついた地面の底へと傾いている。
  神の家で葉巻を燻らすマッドは、口元に薄く笑みを刷いて、朽ちた窓の外を見ている。酷く遠く
 を見ているような眼差しに、咄嗟に葉巻の甘い匂いの染みついた手を取った。自分の手の中に収ま
 ると、必要以上にその繊細さが際立つ。銃など似合わない。けれど、サンダウンの中のマッドは、
 銃を携えてこそだ。

 「キッド?」

  訝しげな光を眼に灯すマッドの肩越しに、図ったかのように窓が映り込み、そこから力強い羽ば
 たきが見えた。

  ――ああ、まるで。

  サンダウンは内心で呟く。似合わないとどれだけ言ってみても、内心ではその姿がこの乾いた地
 にある事を望んでいるのだ。それは、誰にも懺悔する事が出来ない。

  ――まるで、許しを請うているようだ。

 「キッ………!」

  以前、微かに奪い掠めた熱を、再度、今度は丹念にもぎ取る。まだ新しい擦り傷の上に。
  マッドが驚いて腕を振り払おうと身を捩る。それに素直に従って、口付けた手を放す。説教壇に
 凭れてマッドは大きく眼を開き、奇怪なものでも見るようにサンダウンを見ている。半開きになっ
 た口から、葉巻が落ちる。ひゅっと短く空を切るような音を立てて息を吸い込み、マッドは叫んだ。

 「あんた、最近、大丈夫か?!」
 「………何が?」
 「何がじゃねぇよ!どう考えてもおかしいだろうが!」
 「そうか。」
 「そうか、じゃねぇ!」

  叫ぶ男の瞳は、楽園よりも手が届きそうで、しかし届かない故にもどかしさを掻き立てる宇宙の
 ような光を灯している。遥か遠くに失ってしまった園よりも、目の前のこの光が欲しい。地に伏せ
 た示されない救いの言葉よりも、行動で情を表すこの男の熱が欲しい。寒々しく美しい言葉と綺麗
 なもので囲まれた天国よりも、この男が従える腐臭も汚濁も飲み込んで生々しくも鮮やかな世界が
 良い。
  天国は、神々しいが、神への賛歌だけを叫ぶ画一化された魂に満ちているが故に寒々しい。そし
 て画一化された魂は、裏返せば、あの悲しみに満ちた世界で魔王への呪詛を繰り出していた人々に
 一致する。
  背筋に氷を這わせられたかのような感覚に、サンダウンは咄嗟に眼の前にある、灼熱の塊のよう
 な男を引き寄せた。
  ひぃ!というなんだか情けない声は無視して、肩に腕を回して身体を密着させる。
  あの世界から戻ってきて、何度も寒気を感じて、何度もこの身体で熱を思い出して、絶望を呼び
 起こしそうな寒気を抑え込んだ。けれど、ここまで唐突に抱き締めた事は今までになかったと思う。
 現に、マッドも今まで以上に焦った声を上げている。

 「っ……おいっ!何なんだ、てめぇは!さっきから、こんな所で………っ!」

  こんな所で。
  うらぶれたとは言え、神の家たる教会で、聖書を踏み潰して。
  だが、その町から堕落の徒を追い払ったのはお前で。
  ならばこの地では神よりも、その熱のほうが上位にある。
  何より、あの悲しい世界にいた時に思い出したのは、聖書の一句などではなくこの男の笑みばか
 りで。おぞましい寒気が走る時に求めるのは、かつて口ずさんだ祈りの言葉ではなく、今腕の中に
 ある凶暴な熱で。
  だから、この男に許しを請うのは、誤りではない。
  ただし、請うている許しは、神に請う許しよりも遥かに罪深い罪に対してのものだ。人の良い彼
 につけこんで、自分の中に広がる絶望を肩代わりさせている。そしてマッドは、そんな事には気付
 かないまま、笑って許している。

 「………お前、ほんとに、大丈夫かよ。」

  腰に腕を回され髪に指を差し込まれているというのに、そんな台詞が出てくるあたり、なんだか
 色々鈍いのかもしれないとも思うが。
  薄い頬に手を当ててやると、妙にあどけない眼を瞬かせる。

 「キッド………?」

  凄まじく鋭い気配を放つ癖に、この男は同時に酷く無防備な表情を見せる。酒場で酒を飲んだり
 女を口説いているのとはまた別の、疑う事を知らない子供のような白い顔。その瞳に感じるのは、
 遥か昔に置き去りにした自分の本分。
  マッドは決して弱者ではないけれど、それでも。

 「………………っ!」

  本当にごく自然に、何も考えずに、幼い子供にするように、その額に口付けた。
  が、サンダウンにとっては自然すぎる流れでも、サンダウンの胸の内など知りようのないマッド
 にとっては唐突すぎる行動。さっきからずっとサンダウンに翻弄されていた身体は、今度こそ凍り
 ついた。それを良い事に、サンダウンはもう一度軽く同じ場所に口付ける。
  転瞬、活火山のように熱が吹き上がった。

 「てめぇ……………!」

  魔法のようにマッドの手に現れたバントライン。それがサンダウンの額に突き付けられる。しか
 し、それよりも速くサンダウンのピースメーカーの撃鉄が上がっている。至近距離で銃を弾き飛ば
 された腕は、いつもよりも深い痛みと痺れに支配される。顔を顰めたマッドの身体を再度抱え込む
 と、もう、抵抗はない。代わりに、苦々しげに吐き捨てられた。

 「やっぱ、てめぇ、おかしいぞ…………!」

  いっぺん医者に診て貰え。
  怒りの所為かそれとも他の感情の所為か、耳まで赤くしたマッドの台詞を無視して、サンダウン
 は腕の中に囲い込んだ身体を抱え直す。そして、その熱に集中しようと胸に顔を埋めた。
  世界と自分を繋ぐ熱が、穏やかに波打っている。切り離した世界から、サンダウンのもとに現れ
 るのは、もうこの男しかいない。マッドだけが、変わらずに熱を携えて現れる。そしてその身は、
 決して誰のものにもならない。誰のものでもなく、誰からも望まれる熱を灯すその身を、こうして
 自分の中に囲う事は、どうしようもなく甘美な罪だ。
  そして、サンダウンにはもう、この男以外に、世界を見せてくれるものはいない。
  だから、こうして罪を犯す事は、決して間違いではない。

  天秤が、大きく、傾ぐ音が聞こえた。
  そこから見える地獄の縁は、罪人を呑みこまんとする煮立った溶岩が波打っている。
  だが、骨の髄まで溶かしそうなその断罪の装置よりも。
  この男の熱のほうが。

 









額の上なら 友情 のキス