マッドは、一人ころんと安宿のベッドに寝転がっていた。ころんと転がって、それ以外に何か動
 く気配はない。
  マッドにしてみれば、別に今何かする必要はないというのが現状だ。
  忙しなく賞金首を撃ち取って稼ぐ必要もないくらい懐は暖かいし、食事はさっき食べたばかりで
 また何かを食べに出かけたり、作ろうと思ったりする必要はない。風呂にも入ったし、手配書の整
 理も終わった。銃の手入れもしたしナイフも研ぎ終わっている。銃弾の準備も万端だ。後は寝るだ
 けなのだが、まだ日は高いし眠くもない。
  人間としての基本的な仕事を終えたマッドが、あとする事と言えば、完全に趣味の領域に入る。
 本を読んだり、酒を飲んだり、娼婦達と戯れたりする事くらい。だが、それらはすべて気が乗らな
 い。
  あと、残る事と言えば。

  サンダウン・キッドを追いかける事。

  けれども、今はそれが一番面倒臭い。




  ファウスト






  賞金稼ぎマッド・ドッグは、賞金首サンダウン・キッドを追い掛けている。腐れ縁並の勢いで決
 闘を繰り返し続ける二人は、どこでどう間違ったのか、いつの間にか熱を交歓するようになった。
  アメリカ西部の荒野は広い。
  砂と、乾いた風が支配する不毛の大地には、女の身体では過酷だろう。だから、女の絶対数は少
 なく、男同士で抱き合う事は決して珍しい事ではない。賞金首と賞金稼ぎが、と思われる事もある
 かもしれないが、そもそも性欲自体がどこか奪い合うものである以上、奪い合う者同士であるその
 二つが、そういう事を片方に望む事は別におかしな事ではなかった。
  ただ、男同士だ、賞金首と賞金稼ぎだ、という事で培われるには、サンダウンとマッドの間に流
 れる時間は熱っぽく、同時に穏やかな情で溢れていた。久しぶりの逢瀬の時の口付けは、荒々しく
 て深く、そのまま雪崩れ込んだ情交の後の抱擁は凪のようだ。
  そんな、自分達の間に介在する物事を考えればどう考えても珍妙ですらある情は、間違ってもマ
 ッドが望んだり願ったりした事のないものだ。
  有無を言わさぬくらい強い拘束が、けれども壊れ物のようにマッドを抱く。それを仕掛けるのは、
 いつだってサンダウンだった。マッドは望んだ事は一度もない。

  ただし、それならばサンダウンがマッドに特別な何かを抱いているのかと言われれば、マッドに
 は判断できない。サンダウンは、一度としてマッドにそれらしき言葉を囁いた事がないからだ。決
 闘を逢瀬にすり替える男は、マッドに口付ける事はあるが、マッドに声を傾ける事はない。
     そして、情を交わしている時以外は、マッドの手に触れる事だってないのだ。
  偶に、一緒に酒を酌み交わす事や、食事をする事はある。マッドがさっくりと適当に料理を作る
 事だってある。だが、その時は二、三、言葉を交わすだけで、何か艶めいた事があるわけではない。

  それ自体に文句があるわけではないのだ。
  マッドは別にサンダウンが嫌いなわけではない。自分が組み敷かれている状況にも、些かの腹立
 たしさはあるものの、それに反論するつもりはない。強い者が弱い者を組み敷くのは当然の権利だ
 し、それにサンダウンがその権利を振りかざし過ぎる事はなかった。マッドが嫌がる素振りを見せ
 れば、すぐに身を退く。そして抱き締めるだけの時間を過ごすのだ。
  その様子は、まるでマッドを大切な何かと思っているような仕草だ。額や頬に口付けて、存在を
 確かめるように身体の線を撫でて。
  けれども、それでいて、それ以外の時には手を握る事さえないのだ。
  そんな時間と距離が、ずっと続いている。

  最近では、もしかして自分は誰かの代わりを演じているのだろうか、と思えてきた。抱く時以外
 は触れる事も感情の漣さえ見せないサンダウンは、賞金首である事で満たす事が出来ない想いを、
 偶々近くにいた賞金稼ぎで紛らわせようとしているだけではないのだろうか。もしかしたら、その
 相手はマッドに似ているのかもしれない。
  尤も、サンダウンがマッドで想いを紛らわせようとも、それをマッドが指摘をして糾弾する権利
 はない。この場合圧倒的弱者であるのはマッドで、強者であるサンダウンには必然的にマッドを蹂
 躙する権利が与えられている。
  だから、マッドには文句を言う謂れはない。
  それに、誰かの代わりに扱われようとも、マッドがそれを不快に思う必要は何処にもない。何故
 ならサンダウンとマッドの関係は、確かに身体だけの関係と言うには少しばかり深いけれども、湿
 っぽくはないはずだ。それにサンダウンは少なくともマッドを愉しませるように、マッドを抱いて、
 快感を与えている。マッドはそれを遊びと割り切って享受すれば良いだけだ。
  だが、サンダウンは明らかにマッドを抱いている時は、遊びだとは思えない。ある種の真剣さを
 持ってマッドの身体を抱き締める。それは、マッドの後ろ側に誰かを思っているからかもしれない
 のだが、最近ではその抱き方が窮屈になってきた。

  マッドは、まあ言ってしまえば、サンダウンとのこれは遊びだ。抱かれるという状況は確かに諸
 手を上げて喜ぶべき事ではないが、気持ち良くなればそれで良い。
  けれども、サンダウンはマッドの後ろに何を見ているのかは知らないが、本気で抱いている節が
 ある。愛を囁きこそしないが、熱っぽい指先やら穏やかな抱擁は、遊びで使うには勿体なさすぎる
 ものだ。好きでもない、まして女でもない相手に見せるには、やや高尚すぎる気がする。
  最初のうちはそれでも別に良かった。マッドもまだ慣れていなかったからかもしれない。けれど、
 慣れて快感を愉しむ余裕が出て、相手の動向に眼を向ける事が出来てしまえば、それは窮屈なだけ
 だ。そもそもマッドに本気を出されても、マッドにはそれを返す当てがない。
  正直言って、そんな不安定すぎる状況は、マッドには酷く面倒臭いものだった。
  せめて、しっかりとそういう条件を前提に、この付き合いを続けていたなら良かったのだろうが、
 生憎と始める時、マッドもサンダウンも何も言わなかった。娼婦のように金を払っての遣り取りで
 もない、曖昧模糊とした関係は、出来る限り公正を保ちたいマッドには、窮屈で面倒臭い。
  だが、それをどうにか覆す為には、サンダウンにこの関係を止めるように言わねばならず、その
 為にはサンダウンに逢わねばならない。だが、マッドが提案したところで、サンダウンがそれを受
 け入れるかどうかは分からない。それに、サンダウンが受け入れる受け入れないに拘わらず、マッ
 ドのほうでそれを解消するという事が、サンダウンのほうに決定権がある故に、出来ないのが頭の
 痛いところだ。

    そうなると、必然的にマッドはサンダウンに逢うのが面倒臭くなり、こうしてベッドに転がって
 いるだけとなる。

     サンダウンを追うのを諦めたわけではない。
  ただ、この窮屈な関係を続けるのが、鬱陶しいのだ。
  せめて、サンダウンが、お前は誰かの代わりでしかないのだと言ってくれたなら、マッドも割り
 切る事が出来るのに。

  割り切る。

     思い浮かんだ言葉に、確かにその通りだ、と思う。マッドはこの終着点も着地点も見えない関係
 に飽き飽きしている。何らかの形で、何かが切り落とされる事が必要だと感じている。そうでもし
 なくては、これから先の賞金首と賞金稼ぎの関係としても、無理が訪れるだろう。
  少なくとも、せめて、何かの取引という形を取らなくては。
  窮屈なだけの関係は、自由気ままなマッドの望むものではなかった。





  久しぶりに見かけた賞金稼ぎは、少し機嫌が悪そうだった。
  いつも通りの決闘の後、その細身の身体を抱き込めば、微かに抵抗する気配があった。どうかし
 たのかと思って顔を覗きこめば、鬱陶しそうな表情をしていた。
  これまで自分を見つけると、まるで尻尾を千切れんばかりに振って駆け寄ってくる子犬のようだ
 った賞金稼ぎが、何故か面倒くさそうな表情を浮かべている。どうかしたのかと思って顔を覗きこ
 めば、面倒くさそうな顔のまま、そっぽを向いてしまった。

  何か、しただろうか。

  サンダウンは考えてみたが、何も思い当たらない。そもそも最近は逢っていなかったのだから、
 別にサンダウンの所為でマッドが不機嫌になる事はないはずだ。それとも、逢わなかったから不機
 嫌なのだろうか。だとしたら、可愛いのだが、そうも言ってられないくらい、マッドの顔は不機嫌
 だ。

 「マッド?」

  試しにそっと名前を呼んでみると、そっぽを向いていた顔が再びこちらを向いた。が、口付けよ
 うとすると逃げられる。
  そういう気分ではない、という事だろうか。
  久しぶりの逢瀬だから、多少の事は許されるのではないかと考えていたサンダウンは、けれども
 マッドがそうならば仕方がないと思う。抱かれる側であるマッドのほうが、身体の負担が大きい事
 はサンダウンも承知している。賞金稼ぎとして働くマッドが、身体の負担を避けたいと考えるのは
 当然の事だった。
  もちろん、サンダウンとしては出来る限りマッドを感じていたいし、許されるのならば何処かに
 閉じ込めて、一人だけでマッドを味わいたい。マッドの姿を見れば、その思いは募るばかりで、本
 当に事を起こさないように、情事の時以外はマッドを見ないようにしている。
  マッドの姿を見れば、そのまま海に連れ去ってしまいたいと思うのは必然で、もしもマッドが他
 の誰かと笑っているのを見れば、それこそ何をするか分からない。下手をすれば、マッド自身を傷
 つけかねない。
  今でも十分に負担を掛けているのに、これ以上の事を求める事は出来なかった。その為にも、サ
 ンダウンは、普段はマッドに触れる事もマッドを見る事も禁じている。

  他の誰かで、この想いと欲を紛らわせる事が出来たなら、マッドへの負担も軽くなるのかもしれ
 ない。しかし残念ながら、ありとあらゆるものを捨て去ったサンダウンは、他の誰かに対する執着
 はあまりにも薄く、自分に再び温もりを与えたマッド以外には情を揺さぶられる事がない。
  結果的に、全部マッドへ向かう事になり、しかしそれを全てマッドに押し付ければマッドが壊れ
 てしまう事は分かっている。だから、触れないし、眼も合わせない。マッドが何もしたくないと言
 うのなら、サンダウンはマッドの傍にいるだけでそれで良い。
  マッドが何かを考えるように首を傾げているのは、マッドがサンダウンの事以外を考えているの
 をまざまざと見せつけられるようで辛くないわけではないが、それでも腕の中で大人しくしている
 だけ、良いとしよう。

  だが、不意にマッドの手がサンダウンを押しのけようと力を込めた。その仕草にサンダウンは眉
 根を寄せる。

 「マッド?」

  もう一度、疑問を呈してマッドの名を呼ぶ。先程よりも、少し語気を荒げて。すると、マッドは
 酷く面倒臭そうな顔をした。

 「うるせぇな。いちいち呼ぶな。ちょっとあんたから離れただけだろうが。」
 「……どうした?」

  いつになく苛立ったようなマッドの声に、サンダウンは首を傾げる。やはり自分は、何か気に障
 る事をしていたのだろうか。そっと手を伸ばして、少し離れたマッドの身体を引き寄せようとする
 と、その分だけマッドが逃げた。

 「マッド。」

  咎めるような声を上げると、ますますマッドは不機嫌そうな顔をする。けれどもそれでは分から
 ない。感情の起伏の激しいマッドだが、その激しさ故に、その裏側にある真意を汲み取るのは非常
 に難しい。だから、言ってくれなくては、サンダウンには分からない。

 「どうしたんだ。」 
 「………面倒臭いんだよ、あんたに抱かれるのが。」

  返答は、信じられないくらい、きっぱりとしていた。そしてその意味に、サンダウンが動揺して
 いる間に、マッドは推進力を得たのか更に続ける。

 「窮屈なんだよな、あんたとの関係は。ぜんぜんはっきりとしてなくてさ、俺もこの先どうしたら
  良いの分からねぇし。正直、あんたの事を考えるのが面倒なんだ。面倒で鬱陶しい。止めたいん
  だよ、こういうのは。」

  三行半の効果を伴って突きつけられたマッドの台詞に、サンダウンは言葉が出ない。うろたえる
 サンダウンを余所に、マッドは言い募る。

 「せめて、互いの立場をはっきりさせとこうぜ。俺はあんたに抱かれて気持ち良くなって、あんた
  は女の代わりに俺を抱いて。そういう事をちゃんとはっきりさせておいた方が、絶対に良い。」
 「………良くない。」

  呆気に取られているうちに耳に聞こえてきた聞き捨てならない言葉に、サンダウンは低い声で反
 応した。離れていたマッドとの距離を一気に詰めて、そのまま押し倒す。

 「私が、いつ、お前を女の代わりにした?」
 「ああ?女の代わりでなきゃ何だって言うんだ!まさかあんた、男を抱く趣味でもあったってのか!」

  地面に押し付けて低い声で唸れば、耳元でマッドがきゃんきゃんと吠えた。

 「違う。男を抱く趣味などない。」
 「じゃ、なんだってんだ!他にどんな理由があるってんだ!」
 「お前が欲しいからに決まっているだろう!」

  マッドに対抗して、サンダウンも声を荒げた。見当違いの事ばかりを言うマッドに、心底腹が立
 ったのだ。これまでサンダウンはずっとマッドの事だけを考えて、普段からマッドに負担をかけな
 いようにと色々と禁じていたのに。
  むかむかとしてマッドを睨めば、マッドはぽかんとしている。

 「欲しいって……あんたが、俺を?」
 「………当り前だろう、他にどんな理由があると言うんだ。」
 「はぁ?!あんたこれまで一言もそんな事言わなかったぞ!」
 「………。」

  そうだっただろうか。
  いや、確かに言わなかったような気もする。

 「言ってねぇ。絶対に、言ってねぇ。」
 「……今、言った。」
 「遅ぇ!」
 「お前が欲しい。」

  言い忘れていた言葉を取り返すように、もう一度言って、サンダウンは未だに煩いマッドに口付
 ける。歯列を割って、舌先を絡めて深めていく。
  こんな口付けは、他の誰にもした事がない。

  それとも、マッドは他の誰とでもこういう事をしているとでも言うのだろうか。

  確かに言い忘れていたのはサンダウンの落ち度だが、誰かの代わりだとマッドが思いこんだと言
 うのなら、二度とそんな勘違いをしないように、マッドが誰とも交わした事がないであろう情を注
 ぎ込む必要があった。

 「この先、どうしたら良いのか分からない、と言ったな……。」

  深い口付けに喘いでいるマッドに、もう一度、触れるだけの口付けをして、サンダウンは囁く。

 「私の、ものに、なれ。」

  立場の定まらない関係は窮屈だと訴えるマッドに、サンダウンははっきりと自分達の立ち位置を
 示した。