泥沼の様相を見せていた戦線がようやく一つの山を越え、五年の歳月を費やした戦争が一応の決
 着を迎えた。
  南部軍が首都としていた、そして最後の最後まで抵抗していたバージニア州のリッチモンドが、
 遂に陥落したのだ。広大なプランテーションを所持する貿易商達が築き上げた、貴族的な美しさを
 持った街並みは、戦争が終結した今、見るも無残な姿をしていた。
  屋敷の一つ一つは北部軍の駐留地とされて荒廃し、綺麗に舗装されていたはずの道路には無数の
 弾痕が穿たれている。そして多くの黒人奴隷が働き、そして青々と生い茂っていた農場には、弾痕
 の数と同じくらいの墓標が立ち並んでいた。
  死者の数は知れない。
  その身元が分からぬ事がほとんどであると同時に、戦後処理で忙しい軍人や政府関係者にとって
 は身元を調べる暇もないという本音もあった。それ故、遺体が腐敗し異臭を放つ前に、埋葬が進ん
 だのだ。
  若い者、老いた者、北部軍の者、南部軍の者、黒人、白人。
  一切の区別はなく、ただただ戦後処理のような形で、此処に葬り去られた。
  その墓地の一角、辛うじて名前の分かった男の墓標の前で、サンダウンは手の中にある死者の遺
 物を握り締めていた。





 Amoris vulnus idem sanat, qui facit.






  最後の戦いでサンダウンが最後に撃ち殺したのは、ブルネットの髪の紳士だった。すらりと鍛え
 上げられた身体は、しかし兵士として戦うには些か不向きにも思えた。事実、彼がその持ち物から、
 弁護士でありとある町の名士であるという事が分かった時は、納得したものだ。
  胸に銃弾を受けて倒れた紳士の姿に、サンダウンは呆然とした。
  殺すつもりはなかった。戦いが終息に向かっている事は肌で感じていた。だから、彼に対しても
 投降を促すだけのつもりだった。
  けれど、戦いに慣れすぎた自分の身体は、まるで戦いの終わりを拒むかのように、少し疲れた表
 情を浮かべていた紳士を撃ち殺した。
  硝煙の向こうで倒れた姿に、何が起きたのか本気で分からなかった。自分が撃ったのだと気付い
 た時には、周りの状況など考えもせずにその身体に駆け寄っていた。うつ伏せになって背中の真ん
 中から血を流した身体をひっくり返し、薄く開いた茶色の眼を見る。
  そこに何の意志も灯っていない事は、明白だった。サンダウンよりも僅かばかり年上の、まだ二
 十代の半ばを過ぎたばかりの紳士は、銃弾に斃れたきり、ぴくりとも動かなかった。
  人を殺すのは初めてではない。
  サンダウンはこの長い戦いに以前から参戦していた。銃の名手として知られていたサンダウンは、
 あっさりと徴兵され、前線へと駆り出され、その度に多くの南部軍兵士を殺してきた。それ故、撃
 ち殺した人間の名前はおろか、数すらサンダウン自身知らない。
  しかし、今回のように自分の意志に反して人を殺したのは初めてだった。
  サンダウンは初めて人を殺した時のように、紳士の動かない身体を見下ろした。はっきりと震え
 る手でその柔らかな色の眼を閉ざす。
  これも、人を殺した初めての時にいつもしていた行為だ。殺す数が増えるたびに、そんな事はし
 なくなってしまったけれど。
  終わりの近づいた戦いの最中、サンダウンは紳士の身体を、誰にも踏み躙られない場所へと身体
 を移動させる。後で弔えるように、場所が分かるように目印を残して。そしてもしも戻って来れな
 くても、彼の家族にその死を語る為に、彼の身元が分かるようなものをその身から剥ぎ取る。躊躇
 いがちに服の中を弄ると、僅かな嗜好品と共に、小さな金属の重みが手の中に滑り込んできた。
  見ればそれは金色の懐中時計だった。つるりとした光沢を放つ蓋には、繊細な飾りが施してある。
 そして裏には小さく男と女の名前が寄り添っている。それを見てサンダウンの胸に再び苦いものが
 過ぎった。 
  恋人からか、それとも妻からかの贈り物だったのだろうそれを、贈り主に返さなくてはならない。
 今まで殺してきた人間達にも、その後ろに数多くの人々を従えていたのだという事を思い出し、サ
 ンダウンは途方に暮れた。
  自分にはこれを持ち帰って、贈り主に届ける権利などないのだろう。そしてそんな義務もきっと
 課せられないだろう。
  指揮官達はサンダウンの銃の腕を感嘆の眼差しで見て、首を一つ撃ち落とすたびに喜ぶのだ。
  戦いが終わったら、と北部軍の高官でもある彼らは言う。戦後の治安維持の為に連邦保安官にな
 ってみないか、と。自分達はその推薦をしてやれる、とも言った。その申し出は、サンダウンにと
 っても魅力的で、心惹かれるものだった。
  だが、浮かれた自分を殴るように、手の中にある小さな懐中時計が冷徹に重みを増している。
  人殺しのお前が人を守ろうと言うのか、と。
  ならばせめて、権利でも義務でもなく、自らの内からの意志で罰せられなくてはなるまい。
  降伏の白旗があちこちで揚がる様を見ながら、サンダウンは勝利から一番遠い場所で、そう思っ
 た。





  復興のめどの経たない南部の街をサンダウンは歩く。
  連邦保安官の就任式は終わり、就任先を待つ間に、サンダウンはしなくてはならない事があった。
  あの紳士の家族を捜す事。
  幸いにして戦争の後、紳士の遺骸は誰にも穢される事なくサンダウンが安置した場所にあり、サ
 ンダウンは彼を弔う事ができた。そして懐中時計以外の彼の遺品から、彼が弁護士であること、そ
 してある町の名士である事が分かった。その町に、サンダウンは来ている。
  南部の中でも一番美しい部類に入ると言われていたその場所は、しかし今は見る影もない。紳士
 の家族が、まだこの町にいるかは分からない。だが、今のところ手掛かりはこの町以外になかった。
 調べた住所を頼りに歩いていくと、広大な屋敷の前に辿りついた。
  かつては、さぞ美しかっただろうと思わせる雰囲気の屋敷は、しかし前に広がる庭は焼き焦がさ
 れ、白塗りの壁は黒く炙られた跡が生々しく残っている。果たして誰かいるのかと不安に思いなが
 ら、戦争に蹂躙された屋敷の半ば壊れかけた門を潜ったところで、密やかなピアノの音が微かに聞
 こえてきた。人がいる事に安堵し、サンダウンは足早に玄関に歩み寄り、呼び鈴を鳴らした。その
 間も、ピアノの音が絶える事はない。延々と続けられる音楽に、もしや気付いていないのかと再び
 呼び鈴に手を伸ばした時、広い扉が開いて骨ばった手が覗いた。

 「どちら様でございましょうか。」

  しわがれた声と落ち窪んだ顔がすっと現れ、枯れ木のような老婆がサンダウンを見上げた。死神
 のような老婆に、己が何者で何の為にやってきたのかその旨を伝えると、老婆はしばし黙り込んだ
 後、サンダウンをエントランスへと招き入れた。ひたすらだだっ広いだけで何の飾り気もないそこ
 は、この家の窮状をサンダウンに伝えてくる。最小限の灯りだけが残る天井を苦く見上げるサンダ
 ウンに、老婆は主人に伺ってくるとだけ言い残して痩せた身体を薄暗い廊下へと向かわせた。荒涼
 とした気配の濃い屋敷の中で、辛うじてピアノの音だけが軽快さを保っている。あのピアノを弾い
 ているのは、この屋敷の主人だろうか。しかしそれならば、こんな破滅の色の濃い空気が漂うはず
 がない。それとも、それほどまでに狂気に満たされているのか。サンダウンが眉を顰めた時、音も
 なく老婆が帰ってきた。

 「主人がお会いになるそうです。」

  こちらへどうぞ、と骨ばった身体を翻し、素っ気ない色をした廊下へと導く。エントランスホー
 ルと同じく飾り気のない廊下を歩き、老婆は一つの扉の前で止まった。

「こちらでございます。」

  どうぞ、と促され、サンダウンは大きな扉を押し開いた。
  簡素な椅子があるだけの、やはり質素な部屋の真ん中で、その簡素な椅子に女性が一人腰かけて
 いた。まだ娘のあどけなさを残す彼女は、硝子細工のように繊細で長い指を膝の上に乗せ、汚れた
 カーテンで隠された大きな窓を背後に、すっと背筋を伸ばしてサンダウンを見つめる。

「……私の夫の遺品を持ってきてくださったそうですね。」

  黒い喪服に身を包んだ未亡人の髪は喪服よりも黒く、全身で死者を悼む身体はまるで鴉のようだ
 った。しかしその口から零れた声は、硬いけれども美しい音色を孕んでいる。確か音楽家だった、
 という調書をサンダウンは思いだす。
  何もかもを呑みこんだような黒髪と夜空のような黒瞳だけで己を飾り立てた美しい彼女は、きっ
 とサンダウンが彼女の夫を殺した事に気付いている。何もかもを分かった上で、サンダウンに会っ
 ているのだ。

 「お見せ戴けますか?」

  その声に命じられるがまま、サンダウンは、紳士が持っていたあの懐中時計を差し出した。白い
 布で包まれたそれに、未亡人は美しい手を伸ばす。彼女の手に渡った瞬間、時計は喜ぶかのように
 微かに瞬いた。時計を手にし、裏に刻まれた二つの名を見た瞬間、彼女は僅かに大きく眼を見開い
 た。

 「確かに、これは私が彼に贈った時計。こんなふうに返されるとは思いもしなかった………。」

  膝の上に懐中時計を包み込んだ手を置き、彼女は小さく俯いた。しかし、その眼からは一滴も涙
 を流さない。長い睫毛で一瞬、その美しい夜空色の眼を閉ざすと、次の瞬間にはすっとサンダウン
 を見据えている。

「多くは聞きません。貴方が夫に何をしたのかも、夫の最期も。いいえ、聞きたくないの。」

  その眼に冷徹さを秘め、彼女は厳かに告げる。

 「貴方は私に憎まれる事でその罪を軽くしたかったのかもしれない。けれど私はこれ以上誰かを憎
  みたくはないの。もう十分に人を憎んできたわ。この家を焼いた兵士達。あっさりと逃げ出した
  使用人達。そして親切な顔をして近づいて、見返りに私の、そしてあの子の身体を求める男達。
  もう、十分。そもそも穢された私に誰かを憎む権利などないわ。貴方を責める権利もない。貴方
  を憎み、責め、詰る権利があるのは、それはきっとあの子だけ。」

  淡々とその身に刻まれた蹂躙の跡を告げ、彼女は、さあ、と出口へとサンダウンを促す。

 「出て行ってちょうだい。そして二度と私の前に姿を現さないで。貴方に罪の意識があるのなら、
  これ以上私を醜い人間にしないで。」

  美しい娘が曝け出した傷跡に、サンダウンは後退るしかない。おそらく、どんな助力を申し出て
 も彼女は拒むだろう。それどころか、代わりにその身をサンダウンに投げ出すかもしれない。やつ
 れてはいても、それでも燦然としている彼女は、彼女が口にした通り男達の欲望の的にはなるだろ
 うが、サンダウンはそんな事がしたいわけではない。立ち去る以外に何の役にも立たないと告げら
 れ、サンダウンは悄然として未亡人のいる部屋から退出する。

  些かの気分も晴れないまま、引き摺るようにして来た道を戻っていると、ある扉の前で、ずっと
 流れていたピアノの音が不意に止まった。
  そう、ピアノの音はずっとこの部屋からしていたのだ。立ち止まったサンダウンに、部屋の中か
 ら細い声が届いた。

 「そこにいるのは、誰?」

  澄んだ声は子供のものだ。返答に迷っていると、そっと扉が開かれた。
  薄く開いた扉の隙間から、黒い髪と眼がサンダウンを見上げている。未亡人と同じ色の髪と眼に、
 彼女があの子と言っていた子供だと思い至る。
  ゆっくりと大きく開かれる扉から、明るい光が差し込んだ。露わになる子供の姿は、沈み込んで
 いない分、あの未亡人よりも美しかった。

 「お母さんに、会いに来たの?」

  声音はやはり音楽的な響きを持つが、柔らかな色が混ざっている。
  それが口元に湛えられた笑みと、あの紳士と同じ柔らかい光が眼に灯っている所為だと気付いた
 時、子供はサンダウンを手招きした。

 「きっとお母さんはお持て成しなんかしなかったでしょう?こっちに来て。」

  叩き壊せそうなほど細い指がサンダウンの武骨な手に重なり、引かれる。
  引かれるままに部屋に入ると、そこには一台のピアノ。そしてベッドとテーブル。
  床に乱雑に置かれた分厚い本の隙間から、低い唸り声が聞こえた。毛むくじゃらの犬が、牙を見
 せてサンダウンを睨みつけているのだ。
  子供はその犬に顔を近づけ、駄目だよ、と言っている。

 「この人は僕の客人だ。襲いかかるんじゃないよ。」

  そう犬に命じると、白いシャツで覆われた背を翻し、部屋の隅にある棚からティーポットとカッ
 プを取り出し、テーブルに乗せる。
  年の頃はまだ十になったかどうかという少年は、椅子を引いてサンダウンを招く。躊躇うサンダ
 ウンに、少年は明るい視線を向ける。

 「お茶が嫌?それなら、何処かに行こうか?」

  ゆっくりと笑みを広げる少年は、しかしすぐに真面目な顔になる。

 「僕は外に出して貰えないんだ。お母さんは僕が襲われると言って、外に出してくれない。だから、
  外で何が起こっているのか、僕は知らないんだ。」

  ねぇ、と少年は囁く。

 「外での話をしてほしいんだ。少しで良いから。」

  切実な色をその眼に滲ませた少年に、サンダウンは今度は躊躇わなかった。




  日が傾き始めた頃、少年はようやく閉じていた扉を開いた。聡明な瞳を歪める事なく、サンダウ
 ンの一語一句漏らさずに聞いていた彼は、最後に小さく溜め息を吐いた。 それきり黙りこんでし
 まった少年に、サンダウンは己の語りで良かったのだろうかと思う。
  もともと喋るのは得手ではない。子供への語り部などやはり無理だったのではないか。
  そう不安に思っていると、少年は柔らかく微笑んだ。

 「ありがとう。良く、分かった。」
 「そうか………それは良かった。」

  少年の言葉に安堵して立ち上がると、少年も立ち上がる。
  サンダウンを送るつもりなのか、扉を開き、寒々としたエントランスへと先立って歩き始めた。

 「西部に行くんだよね。」
 「おそらく。」

  就任先はまだ聞いていないが、西部の治安が悪いと聞く。それならば、きっと銃の腕を見込まれ
 た自分はそこへ行くに違いない。

 「西部って、どんなところ?」
 「乾いている。荒野が多い。」

  テキサスに近い戦線は、枯れたような草ばかりが生えているような場所だった。時折聞く話でも、
 荒野ばかりで馬が必需品だと言っていた。
 ふうん、と少年は頷き、辿りついたエントランスで立ち止まる。
  荒涼としたエントランスは、西日を浴びて赤い絨毯を床に敷き詰めていた。その光の上で、少年
 はサンダウンに告げる。

 「今日は、ありがとう。」

  再び、そっと己の繊細な指をサンダウンの手に重ねる。
  夜空を丸ごと引き摺り降ろしたかのような眼でサンダウンを見上げ、微かに柔らかな訛りのある
 音楽的な声で言った。

 「名前は、聞かないよ。」

  きっぱりと言い放つ様は、母親に良く似ている。

 「僕も、言わない。」

  しかし眼に灯った光は、サンダウンが殺した父親の柔らかなそれ。

 「本当はもっと話を聞きたかったし、また会いに来てほしいけど、西部に行くんじゃ無理だよね。」

  だから、とその眼に翻ったのは誰のものでもない、彼特有の鮮やかな色だ。

 「僕が逢いに行くよ。名前は聞かないけど、気配は覚えてるから。」

  待ってて。
  その言葉にサンダウンは頷いた。




 「そんな可愛い時期もあったのね。」
 「うるせぇ………。」

  アニーの言葉に、マッドはカウンターに突っ伏して答えた。カウンターの上には、ごろん、と金
 の懐中時計が澄ました顔で転がっている。そこには二つの男女の名が刻まれており、それが話の中
 に出てきた紳士の形見の品である事は明白だ。そして懐中時計の現在の持ち主であるマッドの隣の
 席で、先程の話を披露して見せた男は、普段と変わらぬ渋い顔でグラスを空けていた。
  事の発端は、クレイジー・バンチに仕掛ける罠を捜していた時、邪魔だと言ってマッドがジャケ
 ットを脱ぎ棄てた事だった。
  無造作に放り投げられたそれを、アニーが行儀悪い!と言いながら拾い上げた際に、件の懐中時
 計が転がり落ちた。それを見て顔色を変えたサンダウンが、何故お前が持っている!といつもの沈
 着さを宇宙の果てにふっ飛ばしてマッドに迫った。初めて見るサンダウンの剣幕に、一瞬ビビりな
 がらもマッドは、自分の親の形見持ってて何が悪いんだ!と怒鳴り返し、そこからサンダウンの長
 い回想に入ったわけである。その話が終わる頃には、罠を仕掛けるのが遅いはずのクリントやら旅
 芸人の三人まで、サンダウンの話聞きたさに戻ってきている始末で。因みに鐘はさっき四つ目が鳴
 ったばかりだった。
  有り得ない早さで罠を仕掛け終えたサクセズ・タウンの住人は、話を聞き終えて、アニーの一言
 を筆頭に好き勝手な事を言い始める。

 「しかし、本当に会いに行くとは情熱的だなぁ。」
 「会いに来たわけじゃねぇ………。」

  マスターの言葉にマッドは呻くように反論する。大体、マッド本人はそんな事すっかり忘れてい
 た。
  確かに男達に襲われるという懸念が会った為、半ば幽閉されているような時期はあったが、そん
 な時に見知らぬ男を部屋に招き入れた事などあっただろうか。
  というか何年前の話だ、それ。

 「十数年越しの約束かぁ……いいわねぇ……。」

  うっとりと言うアニーに、マッドは何が良いんだ、と突っ込みかけて止める。フライパンで殴ら
 れるのはごめんだ。
  いや、そもそも十数年前の子供の約束なんぞを覚えているほうがおかしい。

 「そんな可愛い子に、父親の敵とか言われずに、待っててなんて言われたら嬉しいだろうね。」

  ウェイン夫人の言葉に、マッドはいやいやと首を振る。
  子供と言っても男だ。嬉しいわけがない。というか喜んだら変態だ。
  しかしサンダウンは頷く。

 「ああ。」

  変態だ。

 「可愛かったからな。」 

  もう一度、念の為に言っておこう。
  変態だ。
  ぐったりとしたマッドに、今度はビリーが追い打ちを掛ける。

 「でも、それじゃあ、兄ちゃんはピアノが弾けるんだよね!」

  何だか物凄くきらきらした目で迫られる。
  そしてその背後には、音楽をこよなく愛する旅芸人三人が。

 「あ、そう言えばピアノがあったわよね!」

  アニーがマスターを見ると、マスターも頷いている。

 「ああ、誰も使う事が出来ないピアノが、確か倉庫で眠っている!」
 「クリント、セザール、持ってきて!」

  アニーに尻を蹴飛ばされて慌てて出て行く若者を見送り、マッドは心底叫んだ。

 「っ、弾けるか!何年前の事だと思ってやがるんだ!指が動くわけねぇ!」
 「やってみないと分かんないわよ。それに小さい時に習った事って結構覚えてるもんよ。あたいだ
  って、五歳の頃に覚えた鶏のツボ抜き、今でもできるもん。」

  それは毎日やってるからじゃねぇのか。
  酒場のメニューに鶏の唐揚げがあるのを、マッドはばっちり見ていた。

 「ほら、最愛の人の前で何年かぶりに弾くのよ!気合入れて!」

  何が、どう、最愛なんだ。
  もはや突っ込みどころしなかない言葉に、マッドは突っ込みを放棄して真っ当な反論を試みる。

 「大体!何年も使ってねぇピアノなんざ、絶対に狂ってるだろうが!」

  言っとくが俺は調律できねぇからな、と叫ぶと、旅芸人達が音楽を掻き鳴らしながら近づいてき
 た。

 「問題ないね!」
 「あたしらが責任もって調律するね!」
 「だから気にせず弾くね!」

  役立たずがこんな時に役に立たんで良い。
  本気で火炎瓶を叩き割ってやろうかと思った。
  そんな殺気だったマッドを置き去りに、セザールとクリントが戻ってきた。

 「あったぜ、アニー!」
 「埃被ってましたけど、ちゃんと音は出ます!」

  ずりずりとピアノを酒場に運び入れる様に、マッドは逃げたくなった。
  その腕をアニーががっちりと掴む。

 「さあ、コンサートの始まりよ!」
 「嫌だああああああっ!」

  マッドの本気の叫びに、五つ目の鐘が重なった。
  八つ目の鐘が鳴るまでに、時間はまだたっぷりとある。それまでには、マッドも観念するだろう。
 大体、ああ見えて押しの弱いマッドが、一致団結したサクセズ・タウンの住人の頼みを断れるはず
 がないのだ。
  引き摺られて無理やりピアノの前に座るマッドに、あの時の少年の背中が重なる。あの時弾いて
 いた音楽が聞けるまで弾かせ続けても良い、とか鬼のような事を考えながら、サンダウンはグラス
 を傾けた。

  待ち望んだ再会の相手が、ピアノを弾き始めるまで、あと、数分。




  夜明け。

 『出てきやがれぇ!』と叫んだディオに、『うるさいわよ!ピアノが聞こえないでしょ!』という  声と共に、フライパンが直撃したのは、また別の話である。












恋の傷は、それを負わせた者にしか癒すことはできない