「何者だ。」

  近付く足音は、離れの周りをうろちょろしているマッドとサンダウンに向かって、そう誰何の声
 を投げかけた。足音の主を見ようとサンダウンが振り返ると、そこにいたのは今にも飛びかかって
 きそうな雰囲気を湛えた若者だった。
  青のツナギを着た身体は貴族の屋敷の中には似つかわしくなく、あちこちに泥を付けた姿もまた、
 彼が貴族ではない事を示していた。ただ、顰められた顔は貧相ではなく、ピアニストとして小奇麗
 な姿をしているエリオよりも、きちんとした格好さえすれば見れるような気がした。
  とは言っても、そんな事はツナギを着た青年には大きなお世話だろうし、それを口にしたところ
 で彼の眼から、サンダウンとマッドに対する不審の光が消える事はないだろう。
  明らかにこの屋敷の丁稚である青年が、サンダウンとマッドの事を主人であるエイブラハムから
 知らされていない事は不思議ではあったが、今はそれを問うている場合でもない。
  まずは、この青年から敵意を消し去る事が先決であった。




  Lavender





 「この屋敷のピアニストの護衛さ。」

  さてどう説明しようかとサンダウンが考えあぐねていたところに、さっさと口を開いたのは青年
 を振り向きもせずに、未だに窓から中を覗きこもうとしているマッドだった。どう考えてもお前の
 行動は不審者のそれだ、とサンダウンが言ってやろうにも、口を挟む暇もなく立て続けに捲し立て
 る。

 「お前の主人、エイブラハム・ベックフォードに雇われた。昨日、あんだけのならず者が集められ
  た事は、お前だって知ってるんじゃないのか。俺達はその中の一人で、エイブラハムがパトロン
  をしているエリオの護衛を仰せ遣ったのさ。」
 「………証拠は。」

  青年の声は低かった。顔立ちはまだ――もしかしたらマッドよりも幼いのかもしれない――あど
 けなさを残しているのに、声は獣の唸り声のように低い。けれども、そんな声は生憎と西部一の賞
 金稼ぎには効かないのである。マッドはカーテンの隙間を見つけようとする仕草を止めず、青年に
 は見向きもしないまま答えた。

 「お前の御主人様に聞けばいい。こういう二人をエリオ様の護衛にしましたかって。」

  マッドのその台詞に、青年がはっきりと眉間に皺を作った。マッドの言葉に、ふざけたものを感
 じたのかもしれない。

 「お前の主人が、お前に含むところがなければちゃんと答えてくれるだろうよ。あと、ついでに、
  俺がこの小屋の事を気にしていた事も伝えといてくれよ。」

  それで話は終わりだと言うように、マッドは口を噤んだ。どさくさに紛れてエイブラハムへの頼
 み事も織り交ぜた賞金稼ぎに、青年は睨むような眼差しを投げかけていたが、やがて押し殺した声
 で告げた。

 「そこは、エリオの小屋だ。」

  吐き捨てるような声に、マッドはようやく顔を上げ、黒い瞳で青年の顔を些かも逸らさずにじっ
 と見つめた。
  見つめられた青年は、ようやくマッドの顔をまともに見て、微かにうろたえたようだった。なら
 ず者の一人だと言うから、もしかしたら荒くれた男を想像していたのかもしれない。しかし眼の前
 にいるマッドは、おそらく青年の想像する荒くれ者とはかけ離れていたのだろう。
  そのまま貴族として紹介してもおかしくない――実際もともとは貴族なわけだか――マッドを見
 て、ならず者という立ち位置との差異に戸惑っているのだ。
  が、青年を戸惑わせている当の本人は、全くそんな事はどうでも良いと言うように、青年を見つ
 め続ける。

 「エリオの小屋?此処に暮らしてるのか?」
 「あ……いや、そうじゃない。そこはエリオの仕事場だ。作曲に関する事を主にこの小屋でしてい
  る。」

  マッドの声に我に返った青年は、慌てて説明をする。
  青年の説明に、マッドはふんふんと頷いている。サンダウンも、それで、と思った。それで、今
 現在エリオのいるピアノの練習場には、マッドが言っていた作曲活動の形跡がなかったのだ。エリ
 オの手書きの楽譜は、全て此処に収められているのだろう。

 「ふーん。どうやらエリオって奴は、大概我儘らしな。それとも、作曲家らしく繊細だとでも言え
  ば良いのか。」

  わざわざこんな所にいないと、楽譜一枚書けねぇなんて。
  ぺちぺちと小屋の壁を叩きながら、マッドは呟く。

 「マッド……。」

  ぺちぺちと壁を叩き続けるマッドに、サンダウンはそれを止めるべく声をかける。これ以上、変
 な行動はしない方が良いだろう。
  声を掛けられたマッドはあっさりと壁を叩くのを止め、それで、と青年をもう一度見る。

 「お前は、なんなんだ?厩番か何かか?」

  青年の姿からして、屋敷の中でこまごまと働く召使ではないだろう。サンダウンの眼から見ても
 それは分かる。きっと、屋敷の外側で働く召使だ。だからマッドは厩番かと言ったのだ。
  けれど、青年は首を横に振った。

    「……俺は庭師だ。この屋敷の庭の整備を任されている。」
 「任されてるって事は、責任者かよ。若ぇのにすげぇな。」
 「母親もこの屋敷に勤めているから、その義理で、だ。」

  マッドの感嘆――には全く聞こえなかったが――にも拘わらず、青年の口調は何処か苦々しげだ
 った。いや、さっきからずっと、青年は何処か苦渋を孕んでいる。
  一体、何がそんなに苛立っているのか。
  しかしサンダウンにそんな心の機微が読めるわけもなく、それに質問する暇も与えられないまま
 に、庭の木立の間から神経質な騒々しさが割り入ってきた。その神経質な騒々しさに、青年は眼に
 見えて身体を強張らせた。

 「おや、庭師のレオーネじゃないか。」

  あからさまな含みを持たせ、背後にクリスを従えて現れたのは、貧相なエリオだった。小奇麗な
 スーツを着ているものの、肩幅も狭く首も細い所為で、どうしようもないほどに似合っていない。
 しかし、それでもツナギ姿の青年――レオーネというのか――に見せた尊大な態度は、おそらく着
 ている服装による彼らの待遇の差によって生み出されたものなのだろう。

 「お前がこんなところにいるなんてね。ま、庭に庭師がいるのは当り前か。それともまさか、まだ
  過去の夢を忘れられないなんて事はないよな。」
 「エリオ。」

  窘めたのは、背後にいたクリスだった。エイブラハムの妹だという彼女の事を、エリオも知って
 いるのかもしれない。エイブラハムの妹を突き従わせているという事実が、エリオの尊大な態度に
 一役買っている可能性もあった。
  クリスもそれに気付いているからこそ、エリオを窘めているのだ。家出をして、ならず者として
 生きようとした彼女の中に、貴族の尊大さを厭う部分があってもなんらおかしくはない。
  クリスに窘められたエリオは、おもしろくなさそうに鼻を鳴らした。

 「ふん。とにかく、庭師は庭師らしく生きるんだね。変な考えなんて、起こすんじゃないよ。」

  レオーネを一瞥したエリオは、そのままサンダウンとマッドに視線を映し、

 「それと、お前達もさっさと何処かに行け。エイブラハムは言うから仕方なく我慢してるけど、僕
  はお前達みたいな薄汚れた人種を見るのは嫌なんだ。最下層にいる人間らしく、身を縮こませて
  人目につかないようにしろ。」

  尊大を越えて横暴ですらある言葉に、サンダウンは特に心動かされはしなかった。サンダウンは
 自分がそういう存在である事を知っているから、エリオの言い分は確かに正しいと分かっていた。
  しかし、とマッドを横目で見やれば、マッドは首を竦めただけだった。
  この場で、本当なら一番横暴であっても尊大であっても許されるはずの男は、木偶の坊のような
 エリオの言い分などどうでも良いのだろう。空を飛ぶ蠅ほどの興味も示さず、ただ、エリオが入っ
 ていった小屋の中にだけ視線を注いでいた。





 「良いのかね、こんな護衛で。」

  本日一日護衛らしい事は何もせずに過ごした二人は、同じ部屋でころりと転がっていた。
  ソファに転がっていたマッドは、もぞもぞとうつ伏せになって、肘掛けに顎を乗せて、ベッドに
 腰を降ろしているサンダウンを見る。サンダウンの言葉を求める眼差しに、サンダウンは少し考え
 た後、こう言った。

 「……エイブラハムも良いと言っていたから、良いんだろう。」

  同じ質問をエイブラハムにもしていた事を思い出してそう答えると、マッドはけれども納得がい
 かないようだった。

 「けどよ、おかしくねぇか。あの小屋の中にも入らせてくれねぇんだぜ。」

  エリオの仕事場となっている小屋の中を確認しなくて良いのか、と問うたマッドに対して、エイ
 ブラハムはその必要はないと答えたのだ。君達は今日と同じように周囲の警戒にあたってくれれば
 良い、と。

 「周囲の警戒ったって、そんなの別の連中がやってるだろ。だったら屋敷の中一つ一つ変なものが
  ねぇか見ていくしかねぇ。なのにあの小屋の中は入る必要はねぇなんて、おかしくねぇか。」
 「……何故、そんなに拘る。」

  サンダウンには、そちらのほうが不思議だ。あの小屋の中に何故そこまで拘るのか。
  すると、マッドの表情がすっと消えた。能面のような無表情になったまっどのその変化に、サン
 ダウンはぎょっとし、そして慌てた。
  何か、おかしな事を――ともすればマッドの柔らかな部分を抉るような事を――言っただろうか。
 マッドの中には、いくつもそういった柔らかい部分がある事を、サンダウンは知っている。マッド
 の過去は、マッドにとってそれほどに足枷で、触れる事すら憚られるような物事を孕んでいた。
  眼に見えて慌てたサンダウンに、マッドの表情がふわっと浮かんだ。そして、サンダウンの慌て
 ようがおかしかったのか、くくっと笑い始めた。 

 「違ぇよ。あんたが考えてるのとは、違う。」

  笑いながら答えるマッドに、サンダウンは安堵と同時に、何か理不尽なものを覚えた。憮然とし
 た様子のサンダウンに、マッドはソファの上から身を起こすと、とてとてとサンダウンの傍に近付
 いて、身体をサンダウンに凭せ掛け、ぎゅうと抱きついた。
  サンダウンがマッドの身体を支えない事などないと信じ切っているマッドは、ぐりぐりとサンダ
 ウンの胸に顔を擦りつけ、甘えを表現する。
  そして、サンダウンはマッドの思惑通り、その身体を支えて抱き締めるしかないのである。

 「大した事じゃねぇんだけどな。エリオって奴が、昨日弾いてた曲がな。」

  あの、陰鬱な、マッドにとっては母親の足枷を思い出すような曲。

 「あの曲、あんた知ってるか?」
 「知るわけがないだろう……。」
 「俺も知らねぇ。あんな曲は、歴代のどの音楽家の曲でもない。つまり、エリオ本人の作った曲の
  はずだ。」

  でも、とマッドは器用に片眉だけを上げてみせた。

 「俺はあの曲の詳細を知らねぇ。けれど聞いた事はある。ずっと昔に。多分、一回や二回聞いただ
  けだ。」

  その、意味するところは。

 「別の人間が、似た曲を作っちまうって事はあるのかもしれねぇ。でも、エリオもエイブラハムも
  何故か仕事場には入れたがらない。疑わねぇほうがおかしいぜ。」
 「………それに、庭師も噛んでいると?」
 「ああ、あんたも気付いたか?」
 「気付かないほうが、おかしい。」

  レオーネは、エリオを呼び捨てにした。普通、主人がパトロンとなっているピアニストを、例え
 快く思っていなくても、呼び捨てにはしないだろう。

 「変なもんに巻き込まれちまったみてぇだなぁ。」
 「……藪を突く気か?」

  こてん、とサンダウンの胸に顔を預けたマッドにそう囁くと、マッドは首を傾げた。

 「……なんで俺が突かなきゃならねぇのか分からねぇよ。それに、俺が突く必要もねぇ気がするぜ、
  昼間のあの様子だと。」

  レオーネの様子を思い出して言っているのだろう。彼らの関係が何なのかは分からないが、放っ
 ておけば、きっと破綻する。そして勿論、サンダウンにもマッドにも、それを止める義理はない。

 「案外、エイブラハムも気付いてるのかもな。あいつらの事に。」

  むしろ、それから守れという意味だったのかもしれない。もしもそうなら、嫌でも首は突っ込ま
 ねばならないだろう。
  サンダウンとしては、そんな薄暗い部分にマッドを近付ける事は避けたいのだが、そうはいかな
 いだろう。こんな依頼受けるんじゃなかった――受けなかった結末がどんなものであろうとも――
 と今更思っても、遅い。

 「ま、明日あたり、レオーネの母親ってのに会いに行ってみるか。」

  何か、分かるかもな。
  そう言うマッドは、サンダウンの腕の中で何の心配もしていないようだった。