眠りが浅いのはいつもの事だ。
  明け方、薄っすらと眼を開いたサンダウンは、自分が荒野にいる時と同じように、獣のような身
 を休めるだけの眠りをしている事に気が付いた。此処は乾いた砂の上ではなく、天蓋付きの、シル
 クのシーツがふんだんに使われたベッドの中だというのに。
  しかし、一方、自分の隣で眠ってる賞金稼ぎは、いつもよりも深い眠りの中にあるのか、サンダ
 ウンが身動きしても眼を覚まさなかった。天蓋付きベッドの中で伸び伸びとしているのか、それと
 もサンダウンが隣にいる事で安心しきっているのか、マッドは片頬をシーツに埋めたっきり、動か
 ない。
  サンダウンが少し首を浮かして、マッドの顔を覗きこんでも、明らかにぴったりと身体を擦りつ
 けてサンダウンが動いている事に気付かないはずがないのに、マッドは眼を覚まさない。長い睫毛
 に縁取られた瞼はきゅっと閉じて、震えもしない。
  瞼と同じように閉じられた唇は、少しつんと尖っていて、なんだか子供の寝顔のようだ。実際、
 サンダウンに身を寄せて眠るマッドの心境は、子供の時と同じだろう。しかし、どれだけマッドが
 あどけない寝顔を見せて子供のような心境であろうとも、顔も身体も大人のそれだ。つんと尖った
 唇は、サンダウンの眼には口付けを強請っているように見えてしまう。
  きっと、今、口付けてもマッドは眼を覚まさないだろう。
  安心しきって身体を弛緩させているマッドが、深く眠っている事は明白だ。口付けても、気が付
 かない。
  けれども、それがしてはならない事であるとサンダウンは知っている。マッドは、サンダウンが
 手折って良い存在ではない。信を傾けて貰って、抱き締めるだけで良しとせねばならない。




  Cattleya





 「結局、護衛っつっても、あの坊ちゃんの周りをうろつくだけか。」

  ピアノの音がする部屋の周りをぐるぐると歩き回りながら、マッドはつまらなさそうに言う。ぐ
 っすりと眠って、朝ご飯もお腹いっぱい食べたマッドは、力を持て余し気味なのかもしれない。こ
 の時間帯は、普段なら馬に乗って荒野を駆け巡っているのだから、くるくるとエリオのピアノの音
 がする周りを歩くだけというのはつまらないだろう。
  本当ならば、護衛と言うのだからエリオがピアノを弾いている間――それが練習になるのか作曲
 になるのか、サンダウンには分からない――その部屋の中、或いは扉の前にいるべきなのかもしれ
 ないが、当のエリオ本人がそれを嫌がったのだ。
  曰く、男が入ったら邪魔になる、だそうである。
  因みに女は良いらしく、同じく――おそらく兄のエイブラハムの計らいで――護衛になったクリ
 スは入れたのだから、所詮芸術家といえど男なわけである。
  まあ、サンダウンとしてはエリオとかいうピアニストが、クリスを選んで良かったと思っている。
 クリスだけが部屋に入れた事に何らかの――エイブラハム・ベックフォードの何らかの企みがある
 かもしれないが、例えばエイブラハムがクリスとエリオの仲を取り持ちたいとか考えようが、サン
 ダウンにはどうでも良い事である。サンダウンにとって重要なのは、エイブラハムだろうがエリオ
 だろうが、その他大勢のならず者だろうが、マッドに変な気を起こさなければ、それで良いのだ。
  サンダウンが一番過敏になって考えるべき事は、マッドの身を守る事であり、エリオの護衛など
 二の次である。というか、エリオとかいうピアニストがマッドに変な気を起こして襲い掛かりでも
 しようものなら、むしろただの殲滅対象である。

 「こんなんで、護衛になるのかね。」
 「………一応、あの部屋は調べたから、何かが仕込まれているという事はないだろう。」

  エリオが部屋に入る前に、サンダウンとマッドは一応部屋の中を調べたのだ。何かおかしな物が
 紛れ込んでいないか。ピアノの中身まで見てみたが、結局何も見つからなかった。楽譜も全部捲っ
 てみたが、おかしなところは全くなかった。

 「つーか、じゃ、あの部屋何なんだよって話だよな。ただの練習部屋か。」
 「…………?」

  ぼやいたマッドにサンダウンが首を傾げると、マッドは首を竦めた。

 「あの部屋、楽譜、なかっただろ?」
 「……あったぞ。」
 「いや、所謂、印刷物――つまり市販の楽譜しかなかっただろ?手書きの楽譜は一枚もなかった。
  あのエリオって奴が作った曲は、あそこにはねぇんだよ。」

  さっきから聞こえる曲も有名な曲ばっかりだしな。

  さくさくと庭を歩きながら、マッドはピアノの音が聞こえてくる部屋を見上げる。そこからポロ
 ポロと聞こえてくるピアノ音が何と言う名前なのか、サンダウンは知らない。ただ、昨日の夜も思
 った事だが、どうも陰鬱な曲だ。今はどうなっているかも分からない、マッドが閉じ込められてい
 た屋敷を思い出させる。
  マッドも好きではないらしく、流れ出る音を一瞥したっきり、それ以上は聞き入ろうとはしない。
  さくさくと歩くマッドの背中を見て、サンダウンは昨夜のように抱き締めてやりたいと思った。
 しなやかな背中は、今は細く頼りなく、すぐにでも抱き締めてその黒い髪を撫でてやりたかった。
 そうすればマッドもその白い指で、サンダウンにしがみつくだろう。
  だが、それは今は出来ない事だった。誰も入れない密室ではなく、まして広く全てが点になる荒
 野でもない。いつ誰が、悪意かそうでなくとも好奇の眼を持って見るかもしれないこの場では、そ
 れはするべきではなかった。それに、サンダウン自身、少なからずとも誰かの眼差しに込められる
 かもしれない疑いが、決して疑いでは済まされない事を知っていた。抱き締めて、大丈夫だと言っ
 てやりたいのは紛れもなく本心だが、しかし決して、それだけを求めているわけではない。欲が全
 くないと言い切れぬ以上、人目につく場所での抱擁は、するべきではない。
  自分の欲と一緒に、慰める術を切り落としたサンダウンは、成す術なく何処か頼りないマッドの
 背中を見つめるしかない。ただ、抱き締める代わりに小さく囁く。

 「………お前のほうが、上手いな。」
 「はぁ?」

  唐突なサンダウンの台詞に、マッドはぽかんとしたような顔で、ぽかんとした声を上げる。綺麗
 な唇が、綺麗な輪を作ったのを見て、何処までも端正な男だな、とサンダウンは見当違いな事を思
 った。

 「んなわけねぇだろ。あっちは現役でピアノ弾いてんだぞ。」
 
  マッドがピアノを弾いていたというのは、子供の頃だ。いや、もしかしたら、サンダウンと別れ
 た後も、ピアノを弾く事はあったのかもしれない。けれども荒野に来て、賞金稼ぎとして生きるよ
 うになってからは、ピアノを弾く事などなかったに違いない。おそらく、サンダウンの前で弾いて
 みせたのが、荒野に来てから一番最初だったのかもしれない。
  そう考えれば、マッドの言葉は正しいのだろう。何年も弾いていなくて、最近になって弾き始め
 たマッドと、ずっとピアノを今の今まで弾いてきたエリオと。どちらが上手いのかなど比べるまで
 もない。
  事実、聞く者が聞けば、マッドのピアノは副旋律がやや甘いところがあった。
  けれどもサンダウンにはそんな事は分からない。ただ、マッドの弾く音楽のほうが、サンダウン
 の好みにあっているのだ。それに、サンダウンがサンダウンである以上、マッドのほうに点が甘く
 なるのは必然だった。

 「お前のほうが立ち姿も綺麗だ。」
 「それは関係ねぇだろ、ピアノとは。」
 「……どうだろうな。」

  どさくさに紛れてそう告げれば、マッドは更に否定した。
  しかし、エリオとマッドでは、どう考えてもマッドのほうが立ち姿は美しい。ピアノに向かい合
 った時も、マッドのほうが様になっているのは誰がどう見ても否めないだろう。
  正直なところ、サンダウンは、どんな物事にもある程度の様が必要だと思っている。或いは気迫
 のようなものが。そう考えれば、どれだけ技術的にはマッドのほうが弱くても、その他の面でマッ
 ドのほうが勝っている。
  そんな事を思っていると、ずっと陰鬱な曲ばかり聞き続けていた所為もあってか、マッドの弾く
 ピアノが聞きたくなった。マッドがようやく約束を叶えた日から、定期的にマッドはピアノを弾く
 ようになったが、けれどもサンダウンのほうから聞きたいと思ったのは、最初の時以来ではないだ
 ろうか。   もしかしたら、マッドの白い指を見たら欲を煽られそうになるから、無意識のうちに自制してい
 たのかもしれないが。
  けれども、この鬱々とした音楽ばかりが流れる屋敷ではそれを口にしても良いのではないだろう
 かと思える。いや、むしろ言うべき言葉なのかもしれない。

  しかし、サンダウンがそれを口にする事は出来なかった。サンダウンが言葉を飲みこんだわけで
 はない。サンダウンがそれを口にしようとした瞬間、それよりも早くマッドが声を上げたのだ。

 「なんだ、あれ。」

  サンダウンを止めるのは、いつだってマッドである。サンダウンの心境など微塵も考えずに、好
 きな事をするのがマッドである。そのマッドは、自分がサンダウンの言葉を遮った事すら気付かず、
 庭の片隅にある小屋を指差していた。

 「庭のど真ん中に離れを作るなんざ、流石だな。」

    小屋、と言うには立派すぎるそれを指差し、マッドは呟く。が、彼の本当の家にも同じようなも
 のがあった事をサンダウンは知っている。それを、わざわざ指摘したりはしないが。
  言葉を遮られたサンダウンが色々がっかりしている間にも、マッドは好奇心旺盛な子供のように
 離れに近付き、カーテンの掛かった窓から中を覗きこもうとしている。

 「……そこに、誰か潜んでいるという事はないと思うが。」

  マッドに言葉を遮られた事から立ち直って、サンダウンは中を覗きこむマッドを窘める。
  しっかりと錠の下りている小屋は、どう考えても誰かが潜む事が出来るような弱々しさをしてい
 ないし、窓という窓も誰かが侵入した形跡はない。

 「でも、誰かが頻繁に使ってる形跡はあるぜ。」

  扉の前に、幾つもの土の跡が残っている。
  けれどもそれに、屋敷の者が気付かぬわけがないだろう。

 「そうなんだけどな。でも、なんか………。」

  気になる。
  そう呟いてちょろちょろするマッドと、それを追いかけるサンダウンの耳に、足音が近づいてき
 た。