部屋に戻っても、マッドは上機嫌だった。ふんふんと鼻歌を歌いながら、ばっさばっさと服を脱
 いでいく様子に慌てて眼を背けながら、一体何がそんなに上機嫌なのかと思う。まるで、獲物を見
 つけた時のように機嫌の良いマッドから眼を逸らし、考えられるのはクリスという名の、上流階級
 の香りの漂う女くらいしかないと思う。
  ただし、もしもそうだとすれば、それは良い女を見つけたという理由ではなく、はっきりとあの
 女が賞金稼ぎとしてマッドの嗅覚を擽ったのだ。
  けれども、サンダウンには、その理由が、分からない。

 「……あの女が、今回の依頼に何か関係があるのか?」

  分からないなりに問うてみると、否、という返事があった。

 「全然。あの女自体は、全然関係ねぇ。ただの、ベックフォード家の家出令嬢さ、あれは。」

  まるで今夜の夕飯の話でもするかのような口調で、マッドはそんな事を口にした。




  Sword lily






 「そう……なのか?」
 「なんだよ、あんた気付いてなかったのか?」

    呆れたようなマッドの声に、サンダウンは思わず、私はお前のような貴族とは違う、と言いそう
 になった。だが、それを口にすれば、マッドが膨れるだけでは済まされない――もしかしたら、サ
 ンダウンの前から消えてしまうかもしれない――ので、サンダウンは思いとどまる。
  思いとどまったサンダウンに、マッドは着替えのシャツを羽織っただけという、どう考えてもサ
 ンダウンを生殺しにする為の姿で、わざわざサンダウンの前に行き、仕方なさそうな表情で説明を
 始める。サンダウンとしては、さっさと着替えを済ませて欲しいのだが。

 「いいか、あのクリスって女は、どう考えても庶民の出じゃねぇ。あの立ち振舞いやら発音からし
  ても明らかだ。ガキの頃から、ああやって育てられたんだ。そんな教育を受けられんのは、この
  荒野では上流階級のガキだけだ。」

  そう、例えば、マッドのように。
  最たる例であるマッドは、サンダウンの前でベッドに腰掛け、脚を組む。因みにその脚は生足だ。
 何故、ズボンをさっさと履かないのか。形の良い脚の形は、天使さえ悩殺できる。
  が、その天使殺しの脚を持つ張本人は自覚がないのか、それともサンダウンには効果がないとで
 も勘違いしているのか、相変わらずシャツを羽織っただけの姿で説明を続けている。

 「でもって、あの女は、ベックフォードがパトロンしているピアニストについて知ってた。エリオ
  なんてピアニスト、俺だって知らねぇ。」
 「知らないのか……?」

  サンダウンはてっきり、マッドは知っているものだと思っていたのだが。
  できる限りマッドの生足を視界に映さないようにして、サンダウンが言うと、マッドが口を尖ら
 せる気配がした。

 「知らねぇよ。多分、ほんと、ここ最近のピアニストなんだろうよ。って事は、普通のならず者な
  ら知るはずもねぇ。つまり、それを知ってるクリスって女は、少なくともベックフォードと関係
  のある上流階級にいたんだろうよ。」

  そして、とマッドは白い指を一本伸ばした。

 「思い出してみろよ。最初ならず者連中がホールに集められた時、クリスはならず者に喧嘩を吹っ
  掛けた。」

  ――貴方達に、貴族に取り入るだけのおつむがあるようには見えないけれど?

  クリスは、ならず者達にそう言ったのだ。それは、普通に考えてみても、相手を怒らせるには十
 分な威力のある言葉だ。

 「そう。どう考えても、クリスのほうが悪いんだよ、この場合は。でも、ベックフォードはクリス
  じゃなくて、相手の男を放り出した。」

  罰せられる側ではなく、訴える側の人間を。それは何故か。

 「それと、もう一個。これは、ベックフォードの家系図として、誰でも知ってる事なんだけどよ。
  俺達に指示指令を出してるエイブラハム・ベックフォードには、妹が一人いる。その妹の名前は、
  クリスティーン・ベックフォードっていうらしいぜ。」

  そしてその妹は、数か月前に家出をしている。しかも、現在はならず者として生きているのだ。
  つまり、ベックフォード家は家出したクリスティーンを呼び込む為に、こんな大掛かりな――な
 らず者を一度に呼び込めるような依頼を出したのだ。

 「……その為に、私達を呼んだという事か。」

  貴族の道楽に付き合わされている事は今更だが、その理由が理由なだけに、サンダウンは舌打ち
 する。
  しかし、マッドは首を竦めた。

 「さあ、どうだか。妹を捕まえるってのも理由だったかもしれねぇけど、クリスの言い方じゃ、エ
  リオの新曲発表会を守るってのも、多分本気だぜ。」
 「どっちにしろ、貴族の道楽だろう。」
 「ま、そうだけどよ。」

     マッドも、今ではそうではないにしても、その貴族の一人だ。マッドは、そう言いたかったのだ
 ろうか。少し小さくなったマッドの語尾にはっとして、サンダウンは、ともかくと慌てて付け加え
 る。

 「良く、そこまで、気が付いたな。」
 「へへー、そうだろ、すごいだろ。」

  途端に機嫌を良くして、サンダウンに擦りついてくるマッド。
  しかし、今のマッドはシャツを羽織っただけで生足を曝しているという、非常に危険な状態であ
 る。うっかりと太腿を眼にしてしまったサンダウンは、一瞬にして平静を失いかけた。急いでマッ
 ドを引き離し、できる限り何でもないような口調で告げる。

 「それよりも、早く服を着ろ。風邪をひく。」
 「別に寒くねぇよ。」
 「そういう問題じゃない。」

  そう、本当に、そういう問題ではない。このままマッドにこんな格好でいられたら、風邪どころ
 では済まされないような事をしてしまう。マッドは、以前自分が男達に襲われた時の事を覚えてい
 ないのだろうか。友人と名乗る斜陽貴族達に、犯されそうになった時の事を。
  サンダウンの中では未だに深く根付いて、また同じような事が起こるのではないかと思っている
 のに。そして同時に、その際に見たマッドの裸身を思い出して、恐ろしく背徳的な気分になるとい
 うのに。
  マッドの中では、もう既に昇華されてしまったのだろうか。それとも、或いはあの時にサンダウ
 ンが駆け付けた事で、いっそうサンダウンに信を置くようになったのだろうか。それは酷く喜ばし
 い事だが、決してマッドの身の危険を思えば喜ぶべき事ではない。
  サンダウンは、辛うじてマッドへの罪悪感と、マッドが信を置く事を裏切りたくないという思い
 だけで欲望を抑えているだけに過ぎないのだ。本質は、マッドを襲う男達と何ら変わらない。

 「とにかく、服を着るんだ……風邪を甘く見るのは止せ。」
 
  どうにかしてそう言い募ると、マッドは少しおもしろくなさそうな顔をしたが、大人しく服を着
 始める。再開された着替えにほっとするが、しかし頭の中ではたった今見た、白い太腿がちらつい
 ている。
  自分の即物さに、サンダウンが落ち込んでいると、そんな落ち込みになど気付かないように、マ
 ッドが背後から飛び付いてきた。ぶつかってくるマッドの感触に、ちゃんと服を着ている事が分か
 り、安堵したような、がっかりしたような気分になった。
  しかし、ぴったりとひっつくマッドを、引き剥がす気にはならない。サンダウンの背中に貼りつ
 くマッドは、子供の頃と同じ――或いは、子供の時に出来なかった分も含めて、サンダウンに甘え
 ているのだ。貴族であったとはいえ、決して優遇された子供時代を過ごしたわけではない事を知っ
 ているサンダウンに、マッドを振り払う事は出来ない。
  ぴったりとサンダウンに貼りつくマッドは、それだけで満足しているようで、何も言わない。ふ
 んふんと鼻歌を歌うだけだ。

 「……マッド。」

  背中にマッドを乗せていたサンダウンだったが、やがて、いつものようにマッドを抱き締めたく
 なった。抱き締めて、マッドを甘やかしたくなった。だから、そっと名前を呼んで身体の向きをず
 らす。
  その時、何処からともなく、低い陰鬱な音が流れ込んできた。その鬱々とした音に、サンダウン
 は思わず手を止めた。マッドも、サンダウンの背中から離れている。聞こえてくるピアノの音に、
 じっと耳を傾けているのだ。

 「これが、エリオ、か……?」
 「多分な。」
 「……上手いのか?」
 「多分。」
 「多分?」
 「俺は、好きじゃない。」

  そう呟いて、マッドは再び、ぽってりとサンダウンの背に身体を預ける。それは、先程までの甘
 えの仕草ではない。いつか見た、白い小部屋の床に身を横たえていた時と同じ姿だ。
  サンダウンはすぐさま身体の向きを変え、マッドの身体を抱き締めた。マッドが、まだなんの力
 も持っていなかった少年だった時のように、その身体を抱き締める。くたりと身を委ねるマッドも、
 やはり子供の時と同じような心境なのかもしれない。

  何処からともなく、しかも絶え間なく入り込んでくるピアノの音を、サンダウンは睨みつけた。
  マッドが、唐突に頼りなくなったその理由を、今、サンダウンもはっきりと気が付いたからだ。
 マッドが好きではないと言った、その理由も。

  そのピアノの音は、マッドの母親のそれと、酷似していた。