流れ続ける曲が、一体何の曲なのかなんて、サンダウンには分からなかった。
  ピアノだけで続けられる曲もあれば、あらゆる楽器を持ち寄って語られる曲もあった。けれども、
 どれだけ幾つもの音楽が流れようとも、それらはサンダウンには聞き慣れぬものばかりで、題目と
 一致させる事は困難だった。
  ベックフォードが本来ならば座るはずの、二階の貴賓席で舞台を見下ろしながら、サンダウンは
 苛々と流れる音楽を見つめる。
  サンダウンが今からせねばならない事は、ここから見渡せる全ての明かりを撃ち落とす事だ。そ
 れは、サンダウンが何を捨ててでも守らねばならない青年の為に、絶対にせねばならない事であり、
 その青年を失わない為にも絶対に成功させねばならない事だった。
  けれども、いつ、明かりを打ち砕けば良いのかが分からない。
  マッドを守る為に、いつ、世界を闇に閉ざせば良いのかが分からない。
  もしも、マッドが一瞬でも舞台に立ったなら、そちらを見ずとも分かるだろう。けれどもそれで
 は遅い。例え一瞬であっても、マッドの姿が光の下に曝されるようなことがあってはならないのだ。
  鬱々と流れる音楽を睨みつけていたサンダウンだったが、ふと、舞台の照明が落とされ、楽団達
 が退いた後、何か期待するような気配が辺りを包み込んでいる事に気付いた。
  小さなさざめきは、けれども確かに人々の波間から生み出され、舞台に立つ人への期待に満ちて
 いる。
  何事か、と思っているうちに、壁一つを挟んだ貴賓席から、小さな囁きが聞こえてきた。羽根飾
 りのついた扇を優雅に閃かせる貴婦人の珊瑚色の唇から、確かに、この状況を生み出している鍵と
 なる人物の名前が聞きとれたのだ。
  エリオ、と。
  誰よりも期待され、けれども逃げ出した青年の名が聞こえ、サンダウンはホールに満ちている期
 待の名前と理由をようやく理解する。
  そして、マッドを闇で守る時が今である事が分かり、安堵しながら銃を掲げた。




  Crimson glory





  銀色の銃口から、小さく火が撃ち上がった。同時に轟音が鳴り響き、次いでホール中央にあった
 シャンデリアの光が全て消え失せる。人々が悲鳴を上げる間もなく、今度は壁際に掛けられていた
 明かりが、次々と撃ち抜かれていく。銃声と火花と、そして明かりが砕ける儚い音が連続して鳴り
 響く最中、ようやく、最初の悲鳴が放たれた。
  高い悲鳴が一つ上がれば、後は堰を切ったかのようにあちこちで劈くような悲鳴が上がる。
  それでも、銃声は鳴りやまない。明かりが一つ消える度に、闇はその濃さを増していき、その闇
 の中で火花とガラスの砕ける煌めきだけが一瞬の光を放つ。その光を見る度に、貴族達の口からは
 お世辞にも上品とは言えない悲鳴が上がり、それらはいつしか阿鼻叫喚の態を示していた。
  悲鳴がいよいよ頂点に達した時、ようやく銃声が止まった。
  銃弾が尽きたわけではない。
  全ての明かりが――貴賓室に残る小さな明かりを除く全ての明かりが――消え失せたからだ。そ
 れを確認したサンダウンは、ようやく銃を下ろした。舞台の上は真っ暗だった。しかも、悲鳴が煩
 くて、更にそこに行きつくまでの距離を分厚いものにしている。
  マッドは、今、深い深い闇のヴェールに包まれている。
  それでも、サンダウンには、今まさにマッドが舞台に降り立った事が分かった。静かに抑えられ
 ているが、それでもマッドの気配はサンダウンには良く届く。
  密やかにマッドの気配が届く中で、周りの貴族達だけが煩い。きっと、さっき、マッドは振り仰
 いでサンダウンを見つめた。暗闇に沈んだマッドからは、まだ明かりの消えていない貴賓席が良く
 見える事だろう。その中で、唯一明かりの灯っていない貴賓席こそが、サンダウンのいる場所だ。
 マッドはそれを了解している。
  ふい、とマッドの視線がサンダウンから逸れた。マッドの視線は、マッドと同じく闇に沈んだ黒
 い外骨格に向けられている。マッドが過去に置き去りにしたもの全てが、そこには詰まっている。
 それと対峙しているマッドを、その姿が見えはしないものの、想像しただけでサンダウンの心臓は
 鷲掴みにされたような気がした。マッドは戻ってくると言ったけれども、果たしてそれは可能なの
 か。出来る事なら、マッドの手がその白い骨に触れる前に引き寄せて、そのまま舞台から引き摺り
 降ろしてしまいたい。
  けれども、それは有りもしない願いであり、そしてそこにはマッドの意志が宿っていない以上、
 サンダウンにはできない事だった。サンダウンはマッドの為にしか動けない。マッドがこうするべ
 きと決めたなら、サンダウンはそれを遂行するだけだ。
  だから、貴族の悲鳴が波のように沸き起こる中、ピアノに触れるマッドを止める術はない。
  そして。
  マッドが叩いた鍵盤からは、誰の悲鳴よりも高く、そして闇を切り裂く光よりも澄んだ音が響き
 渡った。
  マッドは、まだ一つの音しか出していない。
  しかし、その音は貴族達の耳にも確かに届いたらしく、悲鳴しか上げない貴族達が、水を打った
 ように静まり返った。
  その静寂を突くように、澄んだ音が連続して繰り出される。連なる音は、貴族達にこれ以上の悲
 鳴を上げる事を許さぬ調べがあった。
  連なる音に、沈黙が落ちる。闇の中で聞こえる音楽が、貴族達の耳にどう届いたのかは、サンダ
 ウンには分からない。ただ、誰も知らない音楽なのか、皆が一様に黙りこくっている。
  だが。
  サンダウンは、闇の中に沈んでいた貴賓室の壁から身を離し、同じように闇に守られているマッ
 ドを凝視する。あの場所で、マッドは鍵盤を叩いている。その姿は、今までにサンダウンが見てき
 たマッドのピアノを引く姿とは異なっている。今のマッドの姿は、あの、白々しい屋敷に閉じ込め
 られた子供と同じ形をしている。
  だって、この曲は、あの白々しい屋敷で、一番最初に聞いた、あの屋敷の中で唯一軽やかに踊っ
 ていたものだから。
  サンダウンは見えないマッドの姿を必死で探った。マッドが何を思い、この場でこの曲を弾いた
 のか。勿論マッドには、この場を収束させようという思いしかないのかもしれない。だが、それで
 も、貴族の溜まり場で貴族だった頃の曲を弾く理由が、何処かにあるような気がしてならなかった。
  それは、サンダウンの中にある不安が形を成しただけかもしれないが。




  ひらり、と。
  そんな音がしそうなほど、唐突に曲は終わりを告げた。
  マッドが、舞台から離れていく気配がする。
  唐突過ぎる途切れに、貴族達は戸惑ったようだった。しかし、これが曲の終わりだと気付いた彼
 らは、ぱらぱらと拍手をし始め、そして徐々にその音を高めていく。最終的に、割れんばかりの音
 がホール中に鳴り響いた時は、マッドはすでに舞台から立ち去っており、サンダウンも素早く貴賓
 席から外れた。
  マッドを迎えに行かなくては。
  サンダウンの頭の中にはそれしかない。舞台の全てが終わった後、サンダウンが思うのは、マッ
 ドを貴族の色の中から掬い出す事だけだった。マッドが、あの波に攫われてしまわないうちに。
  貴賓席から降りて、入口へと向かったサンダウンの先にいたのは、うねるような人々の群れだっ
 た。それが、一体何を目的としているのかは分からない。花束やらなんやらを持っているところを
 見るに、それはもしかしたら、エリオを待ちかまえている人々かもしれなかった。
  だが、サンダウンにはそんな事はどうでも良い事だった。
  この、波の中から、マッドを見つけ出さなくては。
  人々が口々にエリオへの称賛を告げるのを、普通に考えればその称賛はマッドに向けられるべき
 だと憤慨すべきなのかもしれない。だが、今のサンダウンにはそんな事はどうでも良い。マッドへ
 の賛美は今でも十分に向けられていたし、価値が分からない、違いも見抜けない貴族がマッドを賛
 美するべきではないとも思う。それに、その賛美が本当にマッドに向けられて、マッドを失ってし
 まったら。
  それならば、見当違いにエリオの名を呼ぶ貴族達の声も、マッドを隠す為の隠れ蓑として喜ぶべ
 きだろう。
  そう思い、サンダウンは群れる金銀で着飾った人々を割り、マッドを探す。すると、人々が大挙
 して押し寄せている扉が、唐突に割り開かれた。そこに雪崩れ込んでいく人々。その中に、その流
 れに逆らって、部屋から出ようとしている黒髪があった。

 「マッド………!」

  もがくマッドの姿を見つけたサンダウンは、貴族達を押しのけて、マッドが引っ掛かっている扉
 までなんとか行きつく。そして手を伸ばして、貴族達に流されそうになっているマッドを掴んだ。
 掴んで、そのまま抱き寄せる。

 「おい!」

  いきなり抱き寄せられたマッドは、少し慌てたような声を出したが、周囲の人間がそんな事はど
 うでも良さそうな素振りであったため、それ以上声を荒げる事はなかった。
  それに気を良くしたサンダウンは、マッドを抱き寄せたまま耳元で囁く。

 「……大丈夫か?」

  本当は、他に聞きたい事はたくさんあった。
  闇に閉ざされていたとはいえ、舞台に立った時の感想。そして貴族達の前でピアノを触れた事。
 そしてそして、あの曲の事。
  けれどもそれらは全て、口にしたら何かを粉々に砕いてしまいそうなものを孕んでいる。
  だから、サンダウンは結局その不安に飲みこまれて、それだけを言うに留まった。
  そんなサンダウンの不安に気付いていないマッドは、何を言っているんだ、と言わんばかりの声
 で告げる。

 「当たり前だろ。別に危険な事なんかねぇよ。」

  そうでもない、とサンダウンは邪魔をしようとしたレオーネの事を思い出す。マッドを、自分の
 欲望の為だけに撃ち落とそうとした男。あの男がどうなったのか、サンダウンは知らない。もしか
 したら、また何処かでベックフォードに一矢報いようとしているのかもしれないが。
  その矢が自分達に及ばぬ内に、早くこの場を立ち去るべきだ。
  サンダウンはマッドの手を引く。早く、立ち去らねば。

 「……もう、此処にいる必要はないだろう。」

  この様子ならば、ベックフォードもならず者達に払う金は準備できるだろう。もう、マッドが心
 を砕く必要は何処にもない。それとも、まだ、何か――貴族として、何かしたい事でもあるのか。
  サンダウンは、そう考えてひやりとした。
  だが、それに対してマッドはゆっくりと首を横に振った。

 「そうだな。これ以上は、何もできねぇよ。あとは、貴族様の問題さ。俺達には関係ねぇ。」

  エリオの事、レオーネの事、ミネルバの事、それらを黙認したエイブラハムの事。
  これらは全て、荒野の枠外の事だ。
  或いは。或いは、マッドがこのまま此処に留まれば、エイブラハムの名誉は保たれるのかもしれ
 ない。エイブラハムなら、喜んでマッドのパトロンとなるだろう。エリオもレオーネも捨て去って。
  けれども、マッドはその選択肢はとらないと言う。

 「こんな場所にいたら、気が狂っちまう。さっさと出ていこうぜ。」

  マッドならば、きっと、エイブラハムの力がなくとも、この場所で咲き誇れるだろうと思う。マ
 ッドには、エイブラハムなどには想像もつかない、れっきとした貴族の血が流れているのだから。
 それでもマッドは荒野に戻ると言う。
  何故、とはサンダウンは問わなかった。問う必要もなかった。サンダウンには、マッドが荒野に
 戻るというだけで十分だった。
  マッドは何処であっても存分に咲き誇るだろう。世界中で世界を謳歌し、確実にその足跡を残す
 だろう。
  けれどもサンダウンにはそれは出来ない。サンダウンは荒野で這う事しかできない。誰もが、サ
 ンダウンの事を孤高不恭だと言うが、それは違う。サンダウンは、単に荒野で、たった一人で彷徨
 うしか出来ないだけだ。
  だから、マッドがサンダウンの傍で根を張ると言うのなら、それ以上の慈悲はなかった。

 「さっさと帰ろうぜ。これ以上こんなとこにいると、身体が鈍っちまう。」

    久しぶりに馬に乗って走りまわりたい。
  そう言って、マッドは貴族達の喧騒に背を向けた。そして、サンダウンを振り返る。

 「あんた、何ぼさっとしてんだよ。早く行こうぜ。」

  口を尖らせたマッドには、もはや貴族然とした表情は何処にもない。荒野を駆け巡る賞金稼ぎが
 拗ねた表情をしているだけだ。
  その表情に、サンダウンは頷いた。