辺りは着飾った人間達で犇き合っていた。
  何処となく薄暗い色調のホールの中では、茶色に近いオレンジ色の光が、ガラス細工の中で瞬い
 ている。その光を、ホールの天井中央ら吊り下げられた巨大なシャンデリアが受け止め、あちこち
 に乱反射していた。
  その光の下にいる人々からは、香水や化粧の匂い、そして葉巻の上品な香りが醸し出されている。
 それらの匂いは全てマッドを彷彿させるもので、サンダウンはその中にマッドが紛れこんでしまっ
 たらと、微かな不安を感じた。
  現に、煌びやかで上品なホールとその中にいる人々のざわめきを見たマッドは、何かを思い出す
 ような表情を浮かべたのだ。それは、マッドが幼い頃、まだ彼の父親と母親の揃っている時代に見
 た風景を思い出していたのかもしれない。
  だとすれば、今、ここで一番この場に不釣り合いなのは、間違いなくサンダウンだ。
  サンダウンが此処にいる事が出来るのは、マッドという糸なくしては不可能であり、マッドがこ
 の中に溶け込んでしまえば、サンダウンはもう後戻りするしかない。先に進んでマッドを探しだす
 事は、サンダウンには不可能だ。 
  不安を感じているサンダウンの隣では、マッドが白い指先で、執事のような姿をした慇懃な係員
 から受け取った上品な紙を捲っていた。金の縁飾りのついたそれは、どうやら今宵の題目を記した
 一覧表らしかった。
  誰も、何の疑いもなく、マッドをこの場所に受け入れる。きっと、題目を受け渡した係員は、マ
 ッドが貴族である事を疑いもしなかっただろう。
  そう、マッドは今此処に詰め込まれている人間の中で、一番紛れもない貴族だった。




  Forget me not





 「エリオは、一番最後らしいな。」
 
  目玉商品らしく、一番最後に用意されているらしい。
  題目を見ていたマッドは、顔を上げてサンダウンにそう言った。
  開け放たれた巨大な扉の両側には、まるで門番のようにツイード姿の男が立っており、扉の向こ
 う側には、赤い布を張った椅子が立ち並んでいる。その更に奥にはオレンジの光を受けて艶やかに
 光る舞台が鎮座していた。
  金色に煌めく舞台には、赤い緞帳が幾つも垂れ下がり、花があちこちに飾られている。その中央
 で、ひっそりとつつしまやかに置かれているのは、艶めかしい黒い骨だ。
  緩やかに曲線を描く骨の一分を大きく広げ、細い器官の詰まった中身を曝け出しているそれを見
 た瞬間、サンダウンは息が詰まりそうになった。
  今までも、何度もその姿は見てきた。
  けれども、大勢の貴族に囲まれているその姿にマッドが重なったところを想像すると、もう、い
 けなかった。
  これからマッドが仕出かそうと考えている事を止めさせて、今すぐにでも此処からマッドを連れ
 て立ち去るべきだ。
  しかし、そう思うのに、マッドの決然とした眼を見れば、その思いはぐらつく。マッドが決めて
 しまった以上、それを阻む権利はサンダウンには何処にもない。そもそも、マッドがなそうとして
 いる事は、もしかしたら本来ならばマッドが歩むべき道の一端だったかもしれない事だ。その道を、
 わざとでなくとも結果的に潰してしまったサンダウンには、その道を譲りこそすれ、阻む事はでき
 ない。
  成す術なく、ただただマッドを見るだけのサンダウンの視線に気付いたのか、マッドは不意に顔
 を上げた。驚くほど透明な色合いをしたマッドの眼に見つめられ、サンダウンはたじろぐ。昔と同
 じ、サンダウンを疑う事を知らない眼だ。この眼だけは、まともに見返せた試しがない。事実、見
 つめられてサンダウンは、少しばかり分からない程度に視線を逸らした。

 「奏者の控室は、向こうにあるみてぇだな。」

  サンダウンの動揺に気付いていないのか、マッドは乱暴な口調でそう告げる。その粗野な言葉に
 微かな安堵を覚えたのも束の間、マッドは控室の扉を挑むように見ていた。それはまるで、これか
 ら、文字通り舞台に挑もうとする演者の眼だ。

 「エリオの腕が確かなのか、それともベックフォードに遠慮してか、エリオはわざわざ個人の控室 
  を与えられてる。」

  尤も、その控室は今はもぬけの殻なわけだが。
  皮肉げな口調のマッドは、扉から眼を逸らし、再びサンダウンを見上げた。

 「今すぐに行く必要はねぇさ。演奏が始まって、この辺りに人間がいなくなってからでも、十分に
  間に合う。」

  俺は、エリオの控室に。

  そしてそのまま、舞台の上に。

  マッドの指がすっと伸びて、エリオの為に準備された個室を指差す。あの中にマッドが入ってし
 まえば、もう後戻りはできない。
  マッドの姿は貴族の前に曝されて、マッドは二度と荒野に帰ってこれなくなる。
  それを、マッドはどこまで理解しているのか。
  きっと、もう、サンダウンにだって逢えない。いや、サンダウンがマッドに逢えない。
  サンダウンは沈痛な表情をしてしまいそうになるのを堪え、黙ってマッドの言う事に頷く。サン
 ダウンは此処で、マッドが遠ざかっていくのを見るだけだ。その後、サンダウンがどうやって残り
 の人生を過ごせばいいのかは、もう考える意味もない。
  石ころを腹に詰め込んだように、サンダウンの気分は激しく沈み込んだ。今、水の中に沈めこま
 れたら、二度と浮かび上がれない。
  それくらい沈んでいたせいで、サンダウンはマッドの言葉を聞き逃していた。

 「…キッド、キッド。聞いてんのか、おい。」

  マッドがぐいぐいと腕を引っ張り、ようやくサンダウンはマッドのほうを見る。すると、マッド
 が拗ねたように口を尖らせていた。口付けを強請っているように見えるその表情に、いっそ最後に
 口付けてしまおうかと思った。

 「キッド、あんた俺の言ってる事、聞いてねぇだろ。」
 「聞いている……。」
 「じゃあ、俺がさっき言った事、口に出して言ってみろよ。」
 「……お前がエリオの代わりに舞台に出てピアノを弾くんだろう?」
 「その後だ、後。」
 「後………。」

  はて、何を言っていただろうか。
  サンダウンが首を傾げていると、マッドは口を尖らせたまま、聞いてねぇじゃねぇか、と呟いた。
  すまん、と謝ってみたものの、マッドの口の尖りは消えない。つん、としたままマッドは、もう
 一回言うから良く聞けよ、と言った。

    「いいか。あんたは俺が舞台に上がる前に、舞台とホールの明かりを全部消すんだ。」
 「………何故?」
 「ああん?なんで俺が、貴族共の前に俺の姿を現わさなきゃなんねぇんだ。俺は貴族なんかに顔を
  覚えられたかねぇぞ。」

  言っている意味が良く分からなかった。  
  怪訝さは顔に出ていたらしく、マッドがやれやれと大袈裟な溜め息を吐く。

 「あんた、俺がまさか、このままピアノデビューするとか考えてんじゃねぇだろうな。言っとくけ
  ど、俺はそんな人生ごめんだぜ。それを避ける為にも、顔を見られねぇようにする必要があるん
  じゃねぇか。」
 「……………荒野に、戻るつもりか。」
 「あ?!なんだ、俺が荒野に戻る事に文句でもあんのか?!」
 「………いや。」

  サンダウンは首を横に振る。
  マッドがそこまで考えているとは思っていなかったから。戻ってくる事を考えているとは思って
 いなかったから。
  じんわりと広がる安堵に、サンダウンは溜め息を吐いた。

 「……だが、明かりを消す、と言うのは?」
 「撃ち落とせよ。あんたなら出来るだろ。」
 「……騒ぎになる。」
 「最初だけさ。銃声も、暗闇も、普通に演奏が始まれば、そういう演出だって思いこむさ。」

  こういうホールには、特等席がある。
  マッドはホールの右側手にある2階客席部分を指差す。バルコニーのようになっているそこは個
 室で、貴族の中でも特別な客が座るらしい。その中に一つ空白の部屋があるが、それは本来はベッ
 クフォードが座る席だったのだろう。

 「あそこなら、誰にも邪魔されずに明かりを撃ち落とせる。」

  出来るだろ?
  全幅の信頼を置いて、出来ないはずがないと言わんばかりの口調で、マッドはサンダウンを見上
 げた。

 「……暗闇で、お前はピアノを弾けるのか?」

  答える代わりに、サンダウンはそう問うた。すると、マッドは小さく笑った。

 「出来るに決まってんだろ?」

  その声は自信満々と言うには、密やか過ぎた。その理由は、続けて囁かれたマッドの言葉で明ら
 かにされた。

 「ずっと、暗闇の中で弾いてたんだぜ?」

  あの、屋敷の中で。
  その言葉に、サンダウンは特に反応を示さなかった。示すべきでもなかった。軽く眼を閉じ、そ
 して問う。

 「……終わったら、何処で待てば良い?」
 「入口で。すぐに行く。」
 「……分かった。」

  来なければ、迎えに行く。
  そう言い置いて、サンダウンはマッドが控室に向かうのを見てから、自分も客席へと脚を運んだ。
 



  ふと、脚を止めた。
  そこにいる人影に、不審を感じたからだ。

 「………何をしている?」

  問いかけられた影は、びくりとして身を震わせた。サンダウンを見た眼差しは、しかし次の瞬間
 卑屈なものに変貌している。
  いつもの、庭師の泥の付いた姿ではない。
  少し窮屈そうにツイードを着たレオーネは、卑屈な笑みを浮かべて、じりじりと廊下を後退して
 いた。そのツイードが、果たしてレオーネがピアノを弾く時に着るものなのか、それともエリオの
 物を拝借したのかは、サンダウンには分からない。
  ただ、あれほどまでに此処に来る事を拒んだレオーネが、今、こうして此処にいる事に、言いよ
 うのない不吉さを覚える。
  まして、マッドが舞台に向かったこの時に。
  もしもマッドが舞台に立たないのならば、その不吉さをサンダウンは無視しただろうが、マッド
 がピアノを弾く以上、無視はできない。

 「お前には関係ない。」

  レオーネは、卑屈な声でそう答えた。

 「お前達は好きなだけ悪あがきをすればいいさ。俺も好きなように動く。」
 「………邪魔をするつもりか。」

  虐げられてきたレオーネの、歪んだ願い。それを、マッドは図らずとも阻止しようとしている。
 その為に、一体何をしようとしているのか。
  いや、何をしようとしているのかは、どうでも良い。レオーネに手の込んだ事をしている暇はな
 かったはずだ。だから、せいぜい舞台に乱入するか、或いは舞台を狙って銃を乱射するかくらいし
 かないだろう。爆弾なんてものを準備する余裕は、レオーネにはない。
  だから、要するに、レオーネだけを止めてしまえば良いだけの話。
  それについて、サンダウンは手加減をするつもりもない。マッドが狙われているというのなら、
 尚更。
  卑屈な顔をしたレオーネは、サンダウンがそう思っている間に、懐から銃を取り出している。

 「言っておくが、俺は以前、銃の大会で優勝した事があってな。エリオみたいに、吠えるだけしか
  できない奴とは違う。」

  命が惜しかったら、大人しくしていろ。
  勝ち誇ったように警鐘を鳴らすレオーネは、自分の警鐘が、所詮は子供騙しに過ぎない事を理解
 していない。

 「………こんなところで銃を撃てば、人に聞かれるぞ。」
 「残念だったな。俺は今回の題目が何なのか知っている。もうすぐ演奏が佳境に入って、銃声なん
  か掻き消されてしまうさ。」
 「………そうか。」

  それならば、サンダウンも遠慮をする必要はない。
  そう考えると同時にサンダウンの手の中には、魔法のように銃が収まっている。だが、それをレ
 オーネが認識している暇はなかった。抜き放たれた銃は、直後には鉛玉を吐き出してレオーネの手
 から銃を弾き飛ばしている。
  そして、レオーネが蹲った時にはサンダウンの手が閃いて、レオーネの首筋を叩き落としていた。
  ふらりと倒れ込むレオーネ。
  だが、それにサンダウンが一瞥をくれる事はない。サンダウンは再び、澱みない足取りでマッド
 の期待に応えるべく客席へと歩を進めた。