マッドは、部屋の中で頭を抱えているエイブラハムを見下ろした。
  遠くからはならず者達の雄叫びが響いて、更にその向こうからは賑やかしい音楽祭の音が零れ続
 けている。これらのうち、どちらかが今宵の主役となる。尤も、今のところは、ならず者達の雄叫
 びのほうが優勢だが。

 「撤回しろよ。」

  エイブラハムに、マッドはそう告げた。

 「でなきゃ、あいつらはこの屋敷に雪崩れ込んでくるぜ。それが嫌なら、ちゃんと金を払うって言
  うんだな。」
 「そんな金が、どこにある!」

  品性も誇りもない貴族のなれの果ては、以前サンダウンに仕事を依頼した時の慇懃無礼さは何処
 にもなく、ひたすらに見苦しく吐き捨てた。

 「あんな連中に出す金などない!」
 「あるっつって雇った以上、払わねぇわけにはいかねぇだろうが。言っとくが、今回ばかりは俺が
  何を言ったって、あいつらはきかねぇぜ。」

  例え王者であろうとも、道理を捻じ曲げてまで彼らを引き止めるだけの力はない。彼らを止める
 には、相応の対価を払わねばならない。

 「手に負えねぇ代物に手を出した以上、それなりの対価を支払うのは当然だろうが。でなきゃ、本
  気で命まで奪われるぜ。」
 「だが、どうやって支払えと言うんだ!」
 「なんとしてでも、今回の音楽祭で、ピアノを弾きゃあいいのさ。」

  簡単だろ、とマッドは事も無げに言った。




  Sweet false chamomile





 「君達に、当初予定していた通り、金を払おう。」

  ならず者達の前でそう言ったエイブラハムの声は、どこか震えて聞こえた。それを階段の上で聞
 いていたサンダウンは、所詮成金貴族の程度というものを見たような気になっていた。結局、エイ
 ブラハムは自分の家柄が何よりもの権威だと勘違いし、それが通用しない相手の前では震えるしか
 ないのだ。
  それらは、ならず者達にも分かったのだろう。エイブラハムが所詮はせこい商人でしかない事を
 悟った彼らは、鼻を鳴らし、信じられねぇな、と唸った。

 「どうだか。明日の朝に俺達が金を貰いに来たら、警官隊が待ち構えてるって腹じゃねぇのか。」
 「そんな事は……。」

  弱々しいエイブラハムの声に対して、ならず者達は一歩も引かない。ちゃんと金を払う証を立て
 ろと騒ぎ立てる。

   「分かった、ならば、これを。」

  エイブラハムが、よろめくような手つきで、金の懐中時計を彼らに差し出す。これを保証金とす
 るから、と言っているのだ。
  しかし、それでは、圧倒的に足りない。ならず者達は一人や二人ではないのだ。何十人と雇われ
 たならず者達の腹を満たすには、たった一つの金メッキの懐中時計では、足りない。

 「けっ、話にならねぇなぁ。」

  苛立った男達は、周囲に視線を巡らせ、ふと眼線を止める。

 「じゃあ、代わりにこいつを貰っていくぜ。」

  そう言って手を伸ばしたのは、エイブラハムの妹であるクリスティーンだった。突然手を伸ばさ
 れて、クリスは眼を見開く。

 「な……!貴方達、止めなさい!」
 「うるせぇな。この兄ちゃんが金を払うまでの辛抱だ。金さえ払ってくれりゃあ、俺達も何もしね
  ぇよ。」

  待ちたまえ君達、と妹を人質に取られたエイブラハムは、焦ったような声を出した。しかし、そ
 れらはもはや誰の耳にも届かない。それに、エイブラハムにも力づくで妹を奪い返す気はないよう
 だった。いや、その気があっても出来るわけがなかった。成金貴族とならず者では、暴力の差は天
 と地ほどの差もある。
  それに、この兄妹の悲鳴に対して、サンダウンは動くつもりはない。クリスが縋るように見上げ
 てきても、クリス一人で今一時の騒ぎが収まるのなら、安い物だった。ならず者達も、金が約束通
 り支払われれば何もしないと言っている。彼らは決して嘘はつかないだろうから、この一時さえ我
 慢すれば良いだけの事だ。
  それに、サンダウンは成金貴族兄妹の悲哀などよりも、今、部屋の向こう側でレオーネと対峙し
 ているマッドのほうが気になっている。
  階下で行われている兄妹の引き剥がしから眼を逸らし、サンダウンはロココ調の部屋の中で、庭
 師と話をしている賞金稼ぎを見た。

 「良いのか、放っておいても。」

  マッドにも、クリスの略奪劇は聞こえていたのだろう。同じく聞こえているはずのレオーネに、
 問い掛ける。かつてクリスに花を贈ったという庭師は、けれども首を竦めただけだった。

 「どうでも良いさ。この家がどうなろうと、もう俺には興味はない。むしろ、このまま崩壊してし
  まえば良いんだ。」
 「ま、てめぇにしてみればそうだろうさ。長年、てめぇら母子を食い潰してきたんだからな。」

  エリオの行動を咎めもせず、ただただミネルバとレオーネに曲を作らせ続け、甘い汁を味わって
 いたベックフォードなど、レオーネにしてみれば憎い以外の何物でもないだろう。それはかつて花
 を贈った令嬢への思慕さえも薄れさせるほどの憎悪だったようだ。
  だからレオーネは唯一この状況を打破できる人間であるにも拘らず、それをしようとしないのだ。
 むしろ、自分が動かない事でベックフォードが凋落する事を、優越感と嗜虐性に満ちた眼差しで見
 つめている。まるで、長年の願いが叶ったように。

 「……もしかして、お前が、ミネルバに盗みを唆したのか?」
 「俺は何もしていない。」

  マッドの問い掛けに、レオーネはきっぱりと言い切った。しかし、その後、薄ら笑いを作って続
 ける。

 「俺は、ただ、母さんに、母さんの作った曲を探っている奴がいるって言っただけだ。」
 「……お前は、ミネルバの作った曲の事を知ってたのか?」
 「なんとなくだけどな。普通に考えて、ちょっとピアノを弾けるだけのなんの教養もない女が、作
  曲なんて出来るわけがない。」

  レオーネの声には、ミネルバに対する蔑視が含まれていた。ミネルバが貴族の曲を真似るだけだ
 ったと言うのなら、一から曲を作ったというレオーネは、確かに天才だろう。マッドも、レオーネ
 の中に確かに息づく天才の気配を感じていた。
  けれども、あまりにも長い虐げが、レオーネの中の才を歪めてしまっている。

 「そんな事よりも、なんでお前たちこそ、ベックフォードの崩壊をそんなに止めようとするんだ?
  ただ雇われただけだろう?」

  もはや、白い花を贈りその花で飾り立てた少女の声も届かぬほど遠くへ行ってしまったレオーネ
 は、マッドに問い返した。
  その問いに対して、マッドはレオーネと同じように首を竦めてみせた。

 「別に、ベックフォードなんぞどうだって良い。ただ。」

  マッドは階下で聞こえるならず者達の声に耳を澄まし、厳かに告げた。

 「ただ、貴族の道楽に付き合わされた挙句、下手したらはした金の為に暴動を起こして捕まりそう
  なあいつらが、憐れなだけさ。」

  その台詞に、レオーネは一瞬眼を大きく見開いたが、すぐに大声で笑い始めた。それは、エイブ
 ラハムやエリオと同じ、荒野で生きる男達を馬鹿にする笑いだった。

 「ああそうか、好きにしたら良い。だが俺はならず者なんかの為に新しく曲を作るつもりもないし、
  ピアノを弾いてやるつもりもない!」

  これで道は閉ざされたと言わんばかりのレオーネの声に、マッドは表情一つ変えなかった。

 「ああ、そうだな。てめぇはそうすりゃいい。てめぇにそんな大舞台は荷が重いだろうからな。そ
  れが正解だろうよ。」
 「エリオだって、弾きはしないだろう!あいつは、臆病だからな!」
 「あんなの、端から期待しちゃいねぇさ。」

    マッドの声は、全ての道を絶たれていると言うのに、むしろマッドのほうがレオーネを切り捨て
 ているような、にべのなさがあった。

 「他人に期待するようじゃ、西部の荒野じゃ生きていけねぇぜ?」

    レオーネに憐れみを一つ送って、マッドは哄笑した格好のまま停止した庭師に背を向ける。そし
 て、扉の前に立っているサンダウンに近付いてきた。

 「さて、と。女も人質に取られちまった以上、後には引き返せなくなっちまったなぁ。」
 「…………良いのか。」

  何でもないような口調で言うマッドに、サンダウンは最後の確認を取った。それはあまりにも無
 意味な事だったが、けれどもそれをする必要があった。
  サンダウンの問い掛けに、マッドは少しだけ首を傾げる。そこに宿った表情は、困ったような色
 だった。

 「言ってるだろ?引き返せねぇって。」

  別に、あんた一人で引き返しても良いけど。
  その言葉に、サンダウンは眉間に皺を寄せた。一体今更、何を言い出すのか。
  顔を顰めたまま、手を伸ばしてマッドの頬に触れる。

 「………もともと、これは私にきた依頼だ。」

  巻き込まれたのはマッドのほうだ。だから、サンダウンが引き返すわけにはいかない。
  そう囁いて、サンダウンはマッドの後を追った。