サンダウンは、何処か俯いた趣のあるマッドの手を引いて、裏路地を後にしていた。
  ミネルバの慟哭も、嵐の前の静けさを保った街も、失墜する成金貴族も、サンダウンにとっては
 もはやどうでも良い事だった。もともと、保安官である事を止めた時に、ほとんどの物事に対して
 の興味を失ったサンダウンが、それら即物的な物事に何らかの心を惹かれる事は、ほとんどない。
  ただ、唯一、心を傾ける相手がいるとすれば、それはサンダウンに全幅の信頼を寄せるマッドを
 おいて他にはない。マッドが望むのならばサンダウンは大概の事はするし、それこそがサンダウン
 にとっての至上の喜びだ。マッドの父親を殺した事への償いではなく、サンダウンがそうしたいか
 らしている。
  けれど、それはマッドに危害が加えられない範囲で、だ。
  どれだけマッドが望んでも、マッドの身に危険が及ぶようならば、サンダウンはそれを受け入れ
 てやるわけにはいかない。
  そしてそれが今この時だ。
  これから動乱に入っていくこの街に、サンダウンとしては絶対にマッドを置いていてはいけない
 のだ。
  如何にマッドが成長し、火の粉を振り払う事が出来たとしても、逆に成長したからこそ振りかか
 る火の粉もあるのだ。自分もその火の粉の一部である事を理解しているからこそ、サンダウンは尚
 更この場所にマッドを置いておけない。




  Tree Peony





 「キッド?何処に行くんだ?」

  明らかにベックフォードの屋敷から離れていくサンダウンに、マッドは今更、しかも分かり切っ
 た事を問い掛ける。しかしその問いを無下に無視したりはせずに、サンダウンは低く答えた。

 「帰る、と言っただろう。」

  無愛想な声で答えると、マッドが少し慌てた気配がした。

 「帰るって……このままかよ?!」

  まさか、ここまで唐突に帰るとは思っていなかったらしい。ベックフォードに何一つとして言わ
 ずに去ろうとする、あからさまなまでに礼を失しているサンダウンに、マッドは声を上げた。

 「待てよ、そんな、急に。大体、荷物だって屋敷に残したまんまだぜ。」
 「そんなもの、放っておけ。」

  幸いにして、二人とも一番重要な荷物である銃は腰に帯びている。他の荷物については、いつで
 も代わりがきくようなものばかりだ。わざわざ取りに帰る必要もない。
  だから、サンダウンはマッドだけを抱え上げて、この街を後にするつもりだったのだが。
  マッドの表情が、僅かに迷うように歪んだ。マッドにしては、とても珍しい表情。その表情をサ
 ンダウンが見逃すはずがない。

 「………どうした?」

  立ち止り、そのまま掴んでいた手ごとマッドを引き寄せ、戸惑いを孕んだ顔にそっと触れる。マ
 ッドはいつものようにそれに擦り寄ったりせず、ただ視線を彷徨わせている。その視線に無理やり
 自分の眼線を合わせ、もう一度低く問う。

 「マッド?」

  強く先を促せば、マッドは迷いを完全に消す事はないまま、小さく呟いた。

 「時計、が。」

  掠れた声で、そう零す。

 「時計を、置いてきた。」

  この世にある、ありとあらゆる困惑と戸惑いと後ろめたさを混ぜ合わせたかのような声で、マッ
 ドはサンダウンに告白した。その告白に、サンダウンが怪訝な顔をしたのは一瞬の事で、すぐにそ
 れが何を意味しているのかに気付いた。
  マッドの持っている時計。
  それは、サンダウンが殺したマッドの父親が残したものだ。マッドはその形見を手に荒野にやっ
 てきた。銀の懐中時計であるそれは、何も気付かなかった愚かなサンダウンが壊してしまったけれ
 ど、残骸と化したそれをマッドは今でも持っている。
  それを、屋敷に置いてきたと、マッドは言っているのだ。 
  サンダウンの胸が、小さく疼いた。疼きは、罪悪感であり、それ以上にマッドがまだその時計を
 大切にしている事への嫉妬からだった。
  だが、その嫉妬があまりにも自分勝手な事である事を知っているサンダウンは、すぐにそれを押
 し潰す。そして、何かいけない事を口にしてしまった子供のような顔をしているマッドの手を引く
 と、逆方向に歩き始めた。

 「キッド?」
 「………取りに戻るぞ。」

  マッドが微かにでも表情を歪めたのなら、例えそれがどんなに深い楔であろうとも、いや深い楔
 だからこそ、サンダウンは大切に丁寧に扱わなくてはならない。
  そんなサンダウンの心情を読めないのか、唐突に踵を返したサンダウンにマッドは更に困惑した
 ようだった。少し引き摺られるようなかたちで手を引かれ、路地裏から街の外に向かい掛けていた
 足は、再び街の中心街へと向かっている。
  音楽祭を待ち望む大通りは、街灯もいつもよりも鮮やかに灯り、店先に色々なオーギュメントが
 吊るされている。街を行き交う人々は煌びやかな服装に身を包み、路地裏にいた人々を置き去りに
 して、金の縁取りのついた馬車へと乗り込んでいく。
  彼らが向かう先は街の一番の中心にある劇場だ。
  様々な楽器が詰め込まれ、幾多の煌びやかな紳士淑女を飲みこんで、今宵は星降る夜になる。
  そのはずだった。
  妙なる音色を求めて犇き合う人々の中に、これから待ち望まれているピアニストが登場する事は
 なく、代わりに金を求めるならず者達が雪崩れ込む事だろう。箍の外れたならず者達は、野生の獣
 よりも横暴だ。野生の獣が使うはずのない銃器で人々を撃ち払い、野生の獣が見向きもしない財宝
 を奪っていくだろう。
  その、一番最初の出火は、ベックフォードの広大な屋敷だ。
  広大で、しかし今まさに爆薬と化して、炎を噴き上げようとしている屋敷に、サンダウンとマッ
 ドはひっそりと入り込んだ。
  何処かで、誰かが喚き立てる声が聞こえる。
  けれど、それはサンダウンにはもう関係のない事。エイブラハムがどれだけ人々蔑んで、エリオ
 がどれほど我儘を貫いて、その挙句に炎で焼かれようが、サンダウンには知った事ではない。
  サンダウンにとって一番重要なのは、エイブラハムとエリオが燃え上がった時の火の粉が、マッ
 ドに及ばない事だけだ。
  豪奢な部屋の中から、自分の荷物を見つけ出してほっとした表情を浮かべたマッドの手を、サン
 ダウンはすぐに掴む。一刻も早く、ここから抜け出さなくてはならない。安堵の溜め息を吐くのは、
 まだ先の事だ。
  マッドの手を引いて、金の飾りの付いたドアノブを引こうとした時、サンダウンが扉を開くより
 も先に、勢い良く扉が押し開かれた。
  派手な音を立てて開かれた扉に、サンダウンが思わず身構えるのを余所に、明らかに自分達の逃
 避行を妨げている女は、長い髪を波打たせ、息を切らせてサンダウンをマッドを見つめた。

 「何処に行ってたの?!もう、家の周りは大変よ!」

  ならず者達が取り囲んで。
  クリスの叫びは、けれどもサンダウンの前には収束するだけだった。
  幸いにしてベックフォードが眼付きの悪い連中を雇った事は公知の事実であった為、大きな問題
 にはなっていないが、けれどもそれはならず者達が火を放つまでの間だけの事だ。箍の外れた彼ら
 に貴族の邸宅が蹂躙されれば、それだけで大きな騒ぎとなり、けれども火を消そうとしても大きく
 なったうねりは、そう簡単には止まらないだろう。
  だが、そんな事は、サンダウンの責任の範疇外だ。
  サンダウンが今、自分自身の名に懸けて責任を持っているのは、マッドをおいて他にはない。
  だから、サンダウンの腕はクリスを押しのけて、そのまま部屋から出ていこうとする。
  しかし、クリスは強情だった。サンダウンではなくマッドの手に縋りついて、助けを請う。
  
 「ねえ、お願いよ、このままじゃ……!」

  まるで捨てられる惨めな女のように雪崩れるクリスに、サンダウンはその手でマッドに触れるな
 と言ってやりたくなった。
  マッドは成金貴族などに触れられて良い存在ではない。本当ならば、サンダウンにも。その足元
 に額づいて、顔を伏せて、直視する事さえ、おこがましい。
  しかし、恥じらいのない成金は、マッドの腕を引っ張って、引き止めようとする。あまりにも下
 品なその様子に、更にいっそう下品な声が響き渡った。
  口から泡を吹いて喚く男は、本来ならば今宵の主役であったはずのエリオだ。しかし化けの皮が
 剥がれた青年は、元来の見苦しさを取り戻して、見苦しく喚いている。

 「お前達、お前達ッ!早くあいつらを何とかするんだっ!お前達は、この僕に雇われたんだぞ!僕
  の言う事を聞けッ!」

  虎の威を狩る狐は、けれども威を借りている虎も実は狐でしかない事に気付いていない。
  あまりの見苦しさに、サンダウンは眼を背けた。やはり、一刻も早く、こんな場所からは立ち去
 るべきだ。この不健全で薄暗い貴族の屋敷には、いるべきではない。
  サンダウンはげんなりして、下品な連中を見つめる。その眼差しに気付かないエリオは、思い出
 したかのようにクリスに迫った。

   「くそっ!おい、お前、クリス!お前なんとかしろよ!ならず者一緒に暮らしてたんだろッ!あい
  つらに言ってこいよ!お前、どうしたら良いのか、知ってるんだろッ!」
  
  お前は女なんだから。
  そういう方法だって知ってるはずだッ!
  
  その台詞に、クリスの顔にヒビが入ったのが見えた。もはや、成金特有の下品さだとかそれを上
 回る、品性のなさ。ならず者達が男同士で卑猥な話をするのではない。本気で、そう言っているの
 だ。
  その言葉に、マッドも表情を変える。
  先程まではサンダウンに手を引かれて戸惑っていたのが、すっと無表情になり、たちどころに冷
 ややかさを孕んだ笑みが浮かぶ。
  それは、荒野の王者が戻ってきた瞬間。
  彼が普段から礼を以て接している女達を貶され、更に彼の眼下に広がるならず者達の事まで貶さ
 れたのだ。それらは全て、成金貴族の道楽の為。
  荒野の頂点に君臨する賞金稼ぎの王は、今、怒っているのだ。
  黒い瞳に燦然と光を灯して、マッドはどうしようもないほど見苦しい貴族達に向き直った。

 「は、随分とおめでたいじゃねぇか。そんなにあいつらを貶すんなら、てめぇらでどうにかしろっ
  てんだ。」

  ならず者達の主張は、真っ当だ。
  労働に対して、それなりの対価を与えぬ雇用者など、これまでに何度も撃ち倒されてきたではな
 いか。その最たるものが南北戦争だというのに、一体歴史から何を学んだのか。

 「ちゃんとてめぇの兄貴が金を払えば済む事さ。」

  その言葉に、クリスは首を振った。

 「無理よ!お兄様は、お金なんかないって言うわ!それに、お兄様が自由に動かせるお金なんて、
  本当はほとんどないのよ!」

  エイブラハムに代替わりしても、それは未だに先代の権力の強い世界。エイブラハムが自由にで
 きる金は、こうしてエイブラハムの道楽から生み出される金だけだった。いや、自由になる金が欲
 しくて、この道楽を始めたのか。

 「だったら、宣言通り、ピアノでも弾きゃあ良い。」
 「うるさいっ!僕に、新曲もないのに舞台に出ろって言うのか!そんな恥を曝すような事、できる
  もんか!」
 「安心しろよ。これ以上、恥曝しな事はねぇからよ。」

  レオーネやミネルバを踏み躙って安穏としていた事こそ、一番の恥知らずだろうに。
  けれどもマッドの言葉を聞いても、クリスもエリオも頷かなかった。
  完全に聞く耳がないのだ。だったら、どれだけマッドが言葉を募っても意味はない。それならば、
 さっさと立ち去るべきだ。
  そう思ったサンダウンは、再びマッドの手を取ろうとする。
  が、嘆きの砦は、今誰を一番憐れむべきかを過たなかった。

 「あいつらも、憐れだな。」

  ただ働きさせられた挙句、暴動起こして、そして、捕まるのか。
  嘆きを汲み取る事に特化した耳は、雄叫びの裏側の声を、聞き逃しはしなかった。
 
     だから、マッドはひらりとサンダウンの手を躱した。