消えたミネルバの行方は、ようとしてしれなかった。
  消え去った楽譜の行方も同様だ。
  消え失せた楽譜を前にして、しかし財閥の主であるベックフォードは何一つとして手を出せなか
 った。楽譜を新たに起こせるのはミネルバとレオーネであり、けれどもミネルバは何処にいるのか
 分からない。残るレオーネは心の内を吐き出してしまった所為か、既にベックフォードの前で膝を
 折る気持ちはなくなっているらしく、曲を作るつもりなど毛頭ないようだ。
  それでも、エリオは一度は楽譜を見て弾いたはずなのだから、その曲を覚えているだろうと思う
 のだが、エリオはそんなもの覚えていないと言う。曲を作って貰い、その曲をただただ弾くだけに
 特化した青年は、何の曲を弾いているのかも、もしかしたら知らないのかもしれない。
  しかし、エリオがどんな心持でピアノを弾いていようとも、エリオがその曲を覚えていないのな
 ら、どうする事もできない。
  ベックフォード家の威信をかけた音楽祭が始まるまで、あと十二時間を切ったその日。
  けれども、事態は依然として変化せず、ありとあらゆる富みを得たはずのベックフォードの嫡男
 であるエイブラハムは、ただただ凡庸に、己の権威の失墜の時間を数えるだけだった。




 Passion flower





  金を払う事は出来ない。
  エイブラハムがそう言い始めたのは、十二時間という時間が刻々と刻まれていくその時だった。
  もともと、ならず者に払う為の金は、音楽祭で得た金をもとに作るつもりだったらしい。しかし
 エリオの新曲の楽譜が消え失せた以上、音楽祭によって手に入るはずだったベックフォードの利益
 は望めず、結果、ならず者に払う金はないという事だった。
  それを聞いたマッドの表情は、呆れてものも言えないというものだった。
 
 「馬鹿じゃねぇのか。」
 
  きっと、もしもこれが荒野の町だったなら、マッドはそう口にしていたに違いない。ならず者の
 頂点である賞金稼ぎの王者にしてみれば、ならず者達に対価を払わない事がどれほど危険であるの
 かを知っている。
  むろん、対価が支払われぬ事が起こりえると分かっている者もいるだろう。しかし、大部分はそ
 れについて暴動を起こしかねぬ連中だ。そのあたりを、成金貴族達は理解していないのだろうか。
 かつて、金脈の発見により財を成した貴族が、嫉妬に駆られた暴漢達の手によって廃人にまで追い
 込まれた事件もあったのに。
  けれども、マッドはエイブラハムを表だって非難するような事はしなかった。エイブラハムが暴
 漢達の手によって廃人に追い込まれようとも、それはマッドが関知すべき事ではないからだ。サン
 ダウンも、そう思っている。サンダウンは、マッドが暴動の海に呑み込まれないよう、事が起こる
 前にマッドを安全圏に連れていけば良いだけだ。
  そんな、気ままで身勝手な二人は、今から暴動を起こして自滅しようとしているベックフォード
 になど興味も示さず、密やかに水面下で行方知れずとなっているミネルバを探していた。
  この街には、今、ならず者達が大勢いる。彼らを使えば、初老の女一人など、すぐにでも捜し出
 せる。それに、マッドが一度王者としての資格を示せば、ならず者達が足元に跪くのは当然だった。
  これから、音楽祭を血の海にしようとしているベックフォード一族の隙を突いて、サンダウンと
 マッドはならず者達の犇き合う街へと繰り出した。
  ミネルバが消えたその日の内に、マッドはならず者達に命令を下し、マッドの意向を聞いたなら
 ず者達は、幾許かの金を握ってマッドに言われた通りに動いた。そして、嵐の前の静けさを保つ今、
 マッドの望むものを手に入れて戻ってきたのだ。だから、マッドはそれを確かめに街に下りた。サ
 ンダウンも、その後に続く。

 「言われた通り、見つけてきましたぜ。」

  どれだけ整備された貴族の街であっても、その裏側は薄暗い。
  すえた臭いのする路地裏の、汚れた木の扉の前に立つ男はどことなく粗暴な印象を持っていた。
 訛りの酷い声で、マッドに扉の中を差し示す男に、マッドは特に感慨も浮かべずに問う。

 「間違いはねぇんだろうな。」
 「そりゃあ勿論。あんたに言われた通り、少しばかり小奇麗な、何処かの屋敷に務めてたらしい婆
  さんを見つけてきましたよ。」

  なんの為なのかは知らねぇが、と男は告げ、そうしてマッドを上から下までじろじろと見つめた。

 「しかし、あれだねぇ。あんたが、まさか賞金稼ぎマッド・ドッグだなんてねぇ。もっといかつい
  男を想像してたんだが。」

     何も知らない連中は、大抵マッドが賞金稼ぎの王者である事を知ると、そういう発言をする。マ
 ッドの白い肌と端正な顔と身体付きは、確かに荒野で生きるには不適切だ。それと同時に、男達の
 劣情を擽る。
  それは、この男も同じであったらしい。
  一瞬、好色そうな眼をマッドに向けた後、背後にいるサンダウンを見て、いっそうにやける。

 「それで、このおっさんがあんたの情夫ってわけかい。」

  そう言った瞬間、サンダウンは男の口腔に銃口を突きつけた。
  自分の事はともかくとして、マッドを卑下される事には我慢がならない。それが自分が傍にいる
 所為だというのなら尚更。
  サンダウンの速さについていけるはずもない男は、抵抗する暇もなくピースメーカーの銀の唇に
 喉の奥を口付けられる事になり、眼を血走らせて口の端から涎を垂らす。そして、いきなり噴き上
 がったサンダウンの気配に怯えたように眼を動かした。

 「……おい、キッド。」

  咎めるようなマッドの声。

 「こんなところで騒ぎを起こしてる場合じゃねぇだろうが。そんな事よりも、あの婆さんに問い質
  すのが先じゃねぇのか。」

  マッドが知りたがっている、マッドの過去にも繋がっている過去の一部。
  それを知っているのは、いまやミネルバしかいない。今を逃せば全部失ってしまうと、マッドは
 サンダウンに先に進む事を促す。
  マッドの声を聞いたサンダウンは、口腔に銃を突きいれられ涙眼になっている男を労わるでもな
 く、一気にその中から銃身を引き抜くと、扉の奥の様子を窺っているマッドの背後にそっと回る。
 自分の背後で、べたりと男が崩れようが、興味はない。サンダウンが考えねばならないのは、これ
 から、もしかしたら過去と対峙せねばならない事になるマッドの事だ。マッドがそちら側に連れ去
 られてしまわないように、心が崩れてしまわないように、その時には抱き締めてやらなくてはなら
 ない。
  けれども、もしも、マッドが扉を開くのを迷うのであれば。

 「マッド。」

  無理に過去を暴く必要はない。
  そう言おうとするよりも先に、マッドはその白く繊細な指で扉を開いてしまった。
  開かれた扉の奥はより暗く、マッドによって開かれた扉から、扇状に光が広がる。その光を浴び
 て部屋の中に閉じ込められていた人物は肩を震わせたようだった。
  薄暗くなった部屋の中に立ち尽くしていた老婆の皺を見て、マッドは硬い、けれどもはっきりと
 笑みを浮かべた。

 「よう、ミネルバ。今まで何処に行ってたんだ?」

  硬質なブーツの足音を立てながら部屋の中に入り込み、マッドは軽やかな口調でミネルバに話し
 かける。対するミネルバは眼を大きく見開き、蒼褪めた顔のすぐ下で祈るように指を組んでいる。

   「あんたがいなくなった所為で、ベックフォード家は大騒ぎだ。何せ、今日の夜に発表されるエリ
  オの新曲を書いた楽譜が何処かに行っちまったんだからな。エリオはどんな曲か覚えていねぇっ
  て言うし、あんたの息子のレオーネは新しく曲なんか書く気はねぇようだ。」

  今宵、ベックフォードの権威は失墜し、そして賃金を得られなかったならず者達は暴徒と化し、
 それを以てベックフォードは終わりを迎えるだろう。
  しかし、それを聞いてもミネルバは表情をそれ以上動かさなかった。
  代わりに、白い吐息を吐くように呟く。

    「レオーネは、話したの?」
 「ああ。あんた達がエリオの代わりに作曲していた事は。」
 「そう……話してしまったのね。」

  いつかは話してしまうと思っていたけれど、と呟く彼女は、自分の息子がエリオに踏み躙られて
 いた事を知っていたのだろう。それでも、エリオに跪いたのは、何故か。
  だが、マッドにはそんな事はどうでも良い事らしい。マッドにとって重要なのは、ミネルバが何
 処まで自分の過去に食いこんでいるか、だ。

 「ああ。でも、あんたの息子はそこまでしか知らなかったみてぇだな。あんたの作った曲について
  の謂れまでは、知らねぇんだろ、レオーネは?」

  俺が知りたいのは、あんたが作ったと称して、エリオに手渡した曲だ。
  マッドの声に、ミネルバの肩が眼に見えて跳ね上がった。そして、蒼褪めているだけだったミネ
 ルバの顔に、はっきりと表情が浮かびあがる。それは、恐れか、怯えか。

 「答えろ。あの曲は、お前が作ったものなのか?それとも、何処かの貴族が弾いているのを聞いて、
  書き写したのか?それとも。」

  それとも、戦乱の中から、奪い去ったのか。
  白い、屋敷の中から。

 「知りません!」

  マッドの問い掛けに、ミネルバは、悲鳴のように答えた。老婆の皺のある顔からはいよいよ血の
 気が失せて、まるで灰のように真っ白だった。

 「知りません、知らないのです!あの曲を弾いていたのが誰か、なんて!貴族なのかもしれない、
  もしかしたら使用人だったのかもしれない。私はあの曲を弾いていたのが誰なのかなんて知らな
  かった!」
 「つまり、誰かの弾いてる曲を、自分の曲としたわけか。」
 「ええ、そうです!」

  きっとミネルバはマッドを睨みつけた。
  突然の変貌。それは、彼女もまた、あの戦乱の中を生きて駆け抜けた女の一人だからか。

 「そうでもしなくては、生きていけなかった。庶民の、女一人では、あの戦乱と戦乱の後の時代を
  生きる事なんて出来なかった。だから、貴族の屋敷の前で流れていた音楽を楽譜にして、売って
  生きたんです!」

  それの、何が悪いのか。

 「どうせ、放っておいたらあの音楽達は全部貴族の時代と一緒に忘れさられてしまうんです。それ
  なら、私が。」

  私が楽譜にして売り出す事の、何がいけないというの! 
  それは、糾弾したマッドに向けられたものではなかった。誰かに、マッドよりも先にミネルバの
 不審を嗅ぎつけた誰かに向けられた叫びだった。それが誰なのかを、マッドは問い詰めたりはしな
 い。そんな事をしてやる義理は、マッドにはない。

 「じゃあなんで、今更逃げ出したんだ?」
 「貴方達がこそこそと何かを嗅ぎまわっているから!何処かの貴族が生き延びて、私を捕まえよう
  としているのかと思ったから!」

  エリオの評判は上がり始めている。エリオの弾く曲が有名になって、それが生き延びた貴族の耳
 に入ったら。
  しかし、それはマッドの納得のいく答えではなかった。

 「俺達が嗅ぎまわる前から、その怯えはあっただろうが。それに、じゃあどうして新曲の楽譜だけ
  持って逃げ出した?そんな事をしたって、意味はねえだろう。」

  新曲だけを持って行っても、それで何が変わるわけではない。エリオの曲として世に出された曲
 は消す事が出来ない。そもそも、ベックフォードのもとには、楽譜が全て残っている。
  他の楽譜は全て置き去りにして、なのに何故新曲だけを持って逃げたのは、何故か。その新曲に、
 一体何が書き記されている?

 「未完成なんです、その曲は!」

  南北戦争の後、ある屋敷の前を通って聞いた。けれども、いつもいつも中途半端なところで終わ
 ってしまう。ミネルバは、その曲を最後まで聞いた事はなく、そしておそらく最後まで作られなか
 った曲なのだろう。
  そんな曲を世に出すわけにはいかない。
  けれども、エリオは新曲を出せと言う。ミネルバの中にある楽譜は、既に枯渇していた。だが、
 新しい曲を出さねば、屋敷から放り出される事は眼に見えていた。だから、やむなく、未完の曲を
 エリオに渡したのだ。

 「……エリオには、分からなかったのか?それが、未完だって事が。」
 「あの子に分かるはずがありません。あの子は、ピアノの技巧には優れていますが、そういった感
  性には欠けています。他人の心も推し量る事もできない。まるで、あの子の母親そっくり。」

  ミネルバの声に辛辣なものが混ざった。
  そこで、ようやくサンダウンは悟った。ミネルバが糾弾しているのは、エリオの母親なのだ、と。
 死んだエリオの母親に向かって、貴族の楽譜を奪って何が悪いのか、と訴えているのだ。むろん、
 二人の間に何があったのかは、想像するしかないのだが、決して友好的な何かではなく、後ろ暗い
 取引だあったのだろう。脅迫や、それに類する何かが。

 「未完成の曲何かを弾いてしまったら、普通の人にはすぐに分かってしまう。そんな事になったら、
  私はベックフォードに罰される。それに、万が一、作った本人に気付かれてしまったら。」

  破滅だ。
  ミネルバは、悲壮に満ちた声でそう言った。
  おそらく、ミネルバにとって、南北戦争は悲痛なものでしかなかったのだろう。家を失い、野で
 眠るしかない人々が大勢いた事は、サンダウンも知っている。ミネルバにとって、後ろ暗くてもベ
 ックフォードの庇護にある事は、幸いだったのだろう。だから、必死にしがみ付いているのだ。

 「その、未完の楽譜は何処にあるんだ。」

  マッドは、ミネルバの執着を切り捨てるように問うた。しかし、ミネルバは首を振る。

 「もう、ない。ないわ。燃やしてしまったもの。」
 「……じゃあ、あんたがもう一度音楽を作る事は?」
 「私は音楽なんか作れないわ。作れるのはレオーネよ。あの子の曲だけは本物よ。」
 「レオーネはエリオの為に曲は作らない。だから、レオーネの協力は求められない。」

  新しい音楽がなければ、音楽祭は無茶苦茶になる。そうなれば、ベックフォードは失墜し、そし
 て賃金を貰えなかったならず者達は暴動を起こす。

 「……あんたがしがみ付く庇護も、なくなるぜ。」
 「もう、無理よ!あたしには!」

  ミネルバにはもう、ベックフォードの女中という顔はなく、家を失った移民でしかなかった。
  その弱者に対して、マッドはもう何かを要求したりはしなかった。ミネルバが自分の過去を知ら
 ないという事実を確かめただけでも満足したのか、彼はミネルバに背を向け、サンダウンの横を通
 り過ぎて薄暗い部屋から抜け出す。

   「マッド。」

  マッドの後を追うサンダウンの呼び掛けに、マッドは立ち止り、小さく視線を動かした。
  これでもう、サンダウンとマッドが行うべき事はないはずだ。いずれ、この街はならず者達の暴
 動に巻き込まれる。それが起こる前に、此処から抜け出さなくてはならない。

 「マッド。帰るぞ。」

  マッドの腕を掴み、サンダウンは強い口調でそう告げた。
  サンダウンは、これ以上マッドを此処に置くわけにはいかないのだ。これから起こる動乱で、マ
 ッドに傷が付く事はあってはならない。
  サンダウンの語気が強められたのをマッドも気付いたのか、彼は小さく頷いた。