サンダウンは、荒野の王者による獣の封印をじっと見ていた。
  白い蔓薔薇と苔により支配された木立の影に隠れたサンダウンの姿は、マッドなら少し視線を巡
 らせれば見えるかもしれないが――それ以前にマッドなら気配でサンダウンの存在を感じる――ク
 リス達には見えない。
  だから彼らは、自分達貴族が地に落とされた姿は、マッドにしか見られていないと思っているの
 だろう。他の誰かに注意を払う事もなく、崩れた貴族の仮面を掻き集めて、貴族らしくもないみっ
 ともない捨て台詞を吐き捨てて、立ち去っていく。
  もしかしたら、サンダウンがいたらもう少しは取り繕ったかもしれない貴族の仮面を、マッドの
 前であっさりと破り捨てたのは、マッドの前ではそれが無意味だと感じたからだろうか。本当の貴
 族の血の前では、成金貴族の立ち場など、砂上の城であると悟ったのかもしれない。
  ならば、やはりベックフォード家は、マッドの存在がどういうものなのか、気付いたのか。
  その恐れは、小さく疼き、やがて大きな斑紋に変わっていく。斑紋が広がれば広がるほど、今す
 ぐにでも、マッドをこの屋敷から引き離し、荒野の青空の下に連れ去りたくなる。
  だが、そうする為にマッドの前に出て行く事を、サンダウンは微かに躊躇した。
  そこには、まだ、クリスが残っていたからだ。




  Marigold





 「貴方、何者?」

  自分達が張りぼてである事を白日のもとに曝されたベックフォード家の令嬢クリスティーン・ベ
 ックフォードは、マッドを見据えてそう問い掛けた。その眼差しにはマッドの真実を探る強さがあ
 ったが、しかし所詮それも張りぼてでしかない。
  生まれながらの貴族であり、且つ自分の力で名実共に西部一の賞金稼ぎにまで上り詰めたマッド
 には、外見だけは豪華だが、振ればカラカラ鳴りするような成金貴族の眼差しなど、蠅の視線と似
 たり寄ったりだ。
  だから、マッドも口角に笑みを浮かべて、なんの気負いも気兼ねもなく、紛れもない真実を告げ
 る。

 「俺は賞金稼ぎのマッド・ドッグ様だ。」

  西部広しと雖も、その名を知らぬ者はいない。
  ただし、名は知っていても、顔を知らぬという事は多々ある。
  それにマッドは、その名に似つかわしくない秀麗な青年だ。狂気の名を冠する賞金稼ぎと、端正
 な青年を結び付けて考える事は難しい。
  それは、クリスも同じようだった。これまで『マッド』という呼称でしか知らなかった彼女は、
 はっきりとそうであると告げられて、眼を見開く。

 「貴方が……?」

  驚きを隠しもしないクリスに、マッドは小さく首を竦めてみせた。
  それを見たクリスは、けれども気を取り直して、再びマッドを見ら見つける。

 「でも、それだけじゃないでしょう。」

  きっとした視線。
  だが、勿論マッドには効果はない。それでも、クリスは語気を強めて言い募る。

 「確かに、ならず者達が貴方の言う事を聞いた理由は、それで分かったわ。」
 「別に、言う事を聞かせたわけじゃねぇぜ。俺は、真実を言っただけだ。」
 「同じことよ。それよりも、でもそれだけじゃ貴方の説明はつかないわ。」

  そう言って、クリスは視線を木立の間から間へと巡らせた。何かを探すような視線は、何回かサ
 ンダウンが身を潜めている木立の間を通り過ぎたが、けれども一度も立ち止まらなかった。やがて
 クリスは諦めたのか、再びマッドに視線を戻す。

 「貴方には、騎士がいるじゃない。」

  きっぱりと告げられた台詞に、マッドは微動だにしなかった。
  その端正な顔に、クリスは更に言葉を積み重ねる。何かを思い出すように感慨深げに白い蔓薔薇
 を見つめながら。

 「此処はね、私達の秘密の遊び場だったのよ。」

  緑の苔むした、木立の隙間から日差しが円を描く、白い蔓薔薇に覆われた裏庭。
  そこは、貴族の子供と、その遊び相手にとっての、良き遊び場だった。

 「ここで、よく、三人で遊んだわ。私と、エリオと、レオーネと。エリオとレオーネの摘んだ花に
  囲まれて。私は何処かの国のお姫様だった。」

  姫のように扱われていたに違いない貴族の令嬢は、けれども二人の遊び相手に傅かれている時こ
 そ、本当の王女だったのだという。おそらく、それは召使には有り得ない――金銭が絡んでいない
 傅きだったからだろう。

 「あの二人は、私にとっての騎士だったのよ。」
 「悪いが、そんなもんは、もう、この世には存在しない。」

  全てに傅かれ、けれども騎士を必要としない王者は、きっぱりと断言した。空を飛ぶ馬などこの
 世にいないと言い切るように。
  それに対して貴族の令嬢も頷いた。

 「ええ。もう存在しないわ。エリオもレオーネも、あの時のように私に花を捧げてくれないの。」

  白い蔓薔薇は、今もこうして咲き誇っているというのに。

 「レオーネは昔から力が強くて体力もあって。私の飛ばされた帽子を取ろうと木に登ってくれた事
  もあったわ。まるで、騎士のようだった。でも、エリオは病弱で。ただピアノは本当に上手だっ
  た。だから、私はお兄様に言ったのよ。エリオをピアニストにしてはどうかって。」

  それは、子供の浅はかな考え。
  けれどもそれは間違いではなかった。エリオは確かに屋敷で普通に働くには貧弱だった。そんな
 エリオが生きていくにはピアノしかなかったのだ。

 「エリオに、ああいう生き方を押し付けたのは私。けれどもピアニストになったエリオは、もう私
  に花をくれる事もなくなったわ。そして同時に、レオーネも私の前から消えてただの庭師になっ
  てしまった。」

  尤も、レオーネは曲を作るという任務が裏で与えられていたわけだが。

 「でも、それも私の所為ね。私がエリオをピアニストにしようなんて言ったから。」
 「もう一度言っておくが、騎士なんてこの世にいねぇぜ。」

  漆黒の王者は、もう一度きっぱりと言い放った。

 「お前が何に罪悪感を感じようがお前の勝手だが、お前の前には最初から失うような騎士なんても
  のはいなかったんだよ。」

  騎士とは、損得勘定なしに主人に忠誠を誓った者の事だ。古い古い時代に古い血筋の中で生み出
 されてきた習慣だ。
  そんな古い習慣は、この新しい大地には必要ない。
  西へ西へと新天地を目指して歩みを止めぬ新しい大地の新しい時代に、古い時代の習慣などいら
 ないのだ。

   「レオーネもエリオも、損得勘定なしにお前に傅いてたわけじゃねぇだろう。もしかしたら、それ
  こそ夢物語みたく、騎士と姫の恋物語でも望んでた可能性だってある。お前の望んでたのは、そ
  ういうのなのか?だったら、別に騎士である必要はねぇぜ?」

  その言葉に、クリスは頬を赤くした。
  それが激昂によるものなのか、照れによるものなのか、サンダウンには分からない。或いは、嫉
 妬なのか。

 「貴方には、騎士がいるから……!」
 「いねぇよ。欲しくもねぇ。」

  俺にあるのは自分だけだ。
  マッドの視線は揺るぎなく、真直ぐだった。子供の頃と変わらぬ黒い眼差しは、全てを見下ろす
 夜空のようで、何かを秘めたそれにサンダウンはたじろいでしまう。
  それは、クリスも同じだったようだ。

 「俺は賞金稼ぎマッド・ドッグだ。少なくとも、俺は、それ以外の何かになった事はねぇよ。騎士
  に傅かれるような立場なんかに辿り着いた事はねぇ。」

  その通りだった。
  マッドは自らの力で、マッドになったのだ。騎士を従えるのは、マッドにとっては本意ではない。
 サンダウンがマッドに従っているのは、サンダウンが勝手にしている事であって、マッドが希った
 からではない。
  そして、サンダウンも決して騎士などになるつもりはない。確かにサンダウンはマッドを守るつ
 もりだが、それは忠誠などといった高尚なものではない。むしろ、先程マッドが口にした夢物語よ
 りも、更にどろりとした何かである可能性のほうが高い。
  そして、それがマッドに気付かれずに、このままであれば良いとサンダウンは思っている。
  間違っても、これは、クリスの願うような関係ではない。

 「お前がエリオとレオーネを再び騎士に取り戻したいって言うんならそうすりゃあ良い。でも俺に
  は関係のない事だぜ?俺は単に、音楽祭が滞りなく進むようにって事で雇われただけだからな。
  ま、とうの昔に滞ってるけどな。」

  最新曲の楽譜は何処かに消え失せ、エリオとレオーネの中は既に修復が不可能だ。すぐに新しい
 曲が出る事もないだろう。

 「ミネルバが、天才でもない限りは、な。」

  レオーネは宣告口にしたとおり、新しく曲を書く事はないだろう。それならば、ミネルバしかい
 ないが、あと3日で新しい曲が作れるものか。
  そして、それだけの事をミネルバがエリオの為にしてやるのか。

 「ミネルバはエリオの事を可愛がっているから、それくらいはするかもしれないわ。」
 「……なんでだ?」
 「知らないわ。ただ、エリオの母親とミネルバは仲が良かったから。」
 「…………。」

  マッドの表情が、小さく顰められた。本当に小さなそれはクリスには分からなかったが、サンダ
 ウンにはミネルバの存在がマッドの中で疑惑になっているのだと気付いた。
  何一つ自分達には漏らさなかったミネルバ。それこそ、まるで騎士のようにベックフォードに忠
 誠を誓っているかのよう。そして息子を差し置いてエリオの為に曲を書き続ける女。
  それは果たして本当に忠誠であり愛情と言い切って良いものなのだろうか。
  そして何よりも。
  マッドの知っている曲を、どうやら知っているらしい。
  その事がサンダウンにとっては、一番の問題だ。マッドの古い血を知っているかもしれないとい
 うその事実が。
  木立の陰で戦々恐々とするサンダウンの事など忘れたように、マッドは白い蔓薔薇を見つめて、
 酷く遠い昔を思い出しているようだった。

 「キッド。」

  呼びかけは唐突だった。
  クリスの事などもはやどうでも良いのか、視界にすら入っていないのか、マッドはサンダウンが
 潜む木立をはっきりと見据えて呼んだ。
  そして、サンダウンの顕在も返答も待たず、まるで聞こえている事が分かっているかのように続
 け様に告げる。

 「……ミネルバに会いに行くぞ。」

  もう、これ以上だらだらとしていられるか。

  もともとマッドは気の長いほうではない。出てこぬ答えを前にして、狂犬は知恵の女神に噛みつ
 く事にした。