「もしも、ミネルバが俺を知っているとしたら。」

  踏み躙られた庭の土を見下ろして、マッドが呟く。

 「あの女は、俺に気付いただろうか?」

  酷く思わしげに傾く首。けだる気にさえ見えるほど優雅なその仕草は、マッドの血に今でも濃く
 染みついている、彼の属性を思い知らされる。
  それは、この屋敷にいる誰にも見つけられなかった、古い血脈の中に刻み込まれた貴族の面影だ。
 サンダウンはマッドの血筋を知らないが、時折、どうしようもなく隠せないマッドの仕草を見る度
 に、マッドの血の中に古い古い脈流があるように思える。
  むろん、その事に自分の仕出かした物事がマッドの未来を閉ざしたのだと打ちのめされる事はあ
 っても、マッドを守る事を止めようという気にはならない。サンダウンにとって、マッドは紛れも
 なく、何よりも優先して守るべき存在だ。サンダウン自身の手垢さえ付けないように、丁寧に布で
 包んで、桐の箱に入れておくべきなのだ。
  だから、微かにでも自分の過去を知っている香りのある人物がいる事に、何処か怯えた様子のマ
 ッドを慰める事に何の躊躇いもなかった。
  本当を言えば、そのまま抱き締めたかったのだが、この屋敷でそれは危険すぎる。手を差し伸べ
 て頬に触れる事さえ、憚られた。
  だから言葉で、大丈夫だ、と口にしようとした瞬間。
  それは、遠くで聞こえた怒声に呑み込まれた。




  Alkekengi






  怒声は、屋敷の奥の更に奥から聞こえた。唸る獣のようなその声は、貴族達の住まうこの土地に
 は似つかわしくない、野生の猛々しさに似ている。そんな声を出せる人間は、この近くに住んでい
 るはずもなく、ましてやこの屋敷の人間であるはずがなかった。
  では、何者かが、この貴族の住まう地に忍び込んだのか。
  いや、厳重に門番達が睨みを利かせている、檻のようなこの土地で、それは有り得ない。それに
 今は、門番達だけではなく、エイブラハムが自らの沽券を守る為に、ひいては音楽祭を守る為に西
 部から引き寄せたならず者達が、屋敷の外には張り巡らされている。そんな場所に、誰かが忍びこ
 む事など不可能だ。
  思って、そういう事か、とサンダウンは口の中で呟いた。
  そう、いるではないか。荒野の猛々しい獣共が、この貴族の住まう楽園に、今は解き放たれてい
 るではないか。
  貴族達は彼らを金で飼い馴らしたつもりになっているのかもしれない。けれど、狡猾で野蛮な獣
 達は、小奇麗な貴族達を裏切って食い千切る事に、些かの躊躇いも持たない。
  かくいうサンダウンとて、マッドの為ならば、此処に住む貴族達を全員、塵に還す事に一切の躊
 躇を感じない。

 「……どっかの馬鹿が、あいつらに喧嘩でも売ったか。」

  マッドも、サンダウンと同じ考えに行きついたようだ。
  かつては貴族であったかもしれない、しかし今は西部の賞金稼ぎの、ひいてはならず者達の頂点
 に君臨するとも言える存在であるマッドは、最初から此処にいる貴族達がならず者を飼い馴らせな
 い事に気付いている。
  口の端に冷ややかな笑みを浮かべたマッドは、けれども少しだけ、まだ古く香り立つような貴族
 の顔をしていた。  

 「マッド。」

  思わず声をかけた。
  その顔は、ならず者達がひれ伏す、王者の顔ではない。そう思って名を呼ぶと、マッドの黒い眼
 がサンダウンを見た。その眼は、呆れと面倒くささとを帯びており、マッドは嘆息しながら首を竦
 めた。

 「放っておくわけにも、いかねぇだろう?」

    別に、マッドはサンダウンの心の内を解したわけではないようだった。しかし、その表情は荒野
 で見る表情の戻っている。口元に湛えた笑みは皮肉っぽいが、同時に悪戯めいても見える。それは、
 紛れもなく普段の賞金稼ぎマッド・ドッグの顔だ。
  その表情に心底安堵している自分がいる事に気付いて、サンダウンは苦笑した。
  どれだけマッドを大切に思って、マッドの閉ざされた道の事を考えても、結局はサンダウンは身
 勝手な生物だ。マッドが自分の知っている世界で生きている事に喜ばずにはいられない。
  それに、王者の顔をしたマッドが、下々の様子を見に行く姿を見るのは久しぶりの事かもしれな
 かった。サンダウンと一緒に過ごすようになってから、マッドは他の賞金稼ぎ達と一緒にいる事が
 少なくなったからだ。そう思えば、マッドから荒野の色を奪っているのは、サンダウンであると言
 う事もできる。
  自分自身が、酷く矛盾している、とサンダウンは思う。
  しかし、そんな相反する想いを持つのは、マッドだからだろうとも思う。マッド以外の人間に、
 自分自身の中で反発しあうほどの想いは、抱けない。おそらく、これから先も。
  黒い背中をすっと伸ばし、時折その背に日差しを受け止め照らして先を行くマッドを、サンダウ
 ンは追いかけた。




  辿り着いたそこは、誰も行き来する事がないのではないかと言うほど、苔むした場所だった。
  緑の布に覆われているのは地面だけではなく、他の場所は白亜とも言っていい白さを保っている
 はずの塀も、そして錆びた鉄の錠の引っ掛かった古い木の扉も、苔に侵食されていた。
  そして、塀と扉には、白い花を咲かせた蔓薔薇が茂っている。
  何処か、遠く離れたイギリスの原風景を思わせるような場所だったが、けれども今、生い茂る蔓
 薔薇を引き千切るように扉は開かれ、その前には数人の屈強な男が立ちはだかっている。何れも、
 荒々しいまでの髭を蓄え、日に焼けた肌を曝していた。
  その前で、圧倒的なまでに貧弱な身体を見せつけているのは、どれだけ上品なジャケットを羽織
 っても痩せた肩の所為で崩れて見えるエリオだった。

 「うるさい!お前達みたいな物乞いなんかを雇うから、こんな事になったんだッ!何の役にも立た
  ない、もしかして、お前達が盗んだんじゃないのかッ!」

  金属同士を擦り合わせるような不快な甲高い声で、ならず者達に言い募っているエリオ。
  それは、いくらならず者相手とはいえどう考えても失礼であるとかそういう事を通り越して、無
 謀としか言いようがなかった。
  喚くエリオ程度だったら、おそらくならず者達は馬鹿にして終わりだっただろう。しかし、盗人
 呼ばわりされて許してやるほど、彼らの心が広いとは思えなかった。
  ぐい、と眼を剥いて無言で近付く彼らの顔から、卑下た笑みさえ消えている事が、どれほど恐ろ
 しい事か、この狭い屋敷の中だけで生きてきたエリオには分からない。

 「……ぬかしてくれるぜ、坊ちゃん風情が。」

  男達の唸り声は、獣がする威嚇音の尤も最大級のものだった。じり、と近付く影は、飛びかかる
 寸前の狼の形をしている。

 「みんなみんな、僕の邪魔ばかりしてッ!所詮凡人なんだから、大人しく天才の言う事を聞いてい
  れば良いんだ!」

  どうせ、生きていても屑にしかならないんだから!

  無様なほどに喚く獲物に、ならず者達の怒りが立ち昇っても仕方のない事だった。瞬間、男の太
 い腕が、エリオを突き飛ばす。敢え無く尻もちをつく青年は、何の力も持たない。

 「なにするんだ、屑が!僕にこんな事をしたら、お前達は追い出されるだけだぞ!」

  これほどまでに滑稽な脅し文句はない。一泊の宿しか持たぬ獣は、屋根のある場所から追い出さ
 れる事など恐れない。流れる彼らは、一つの家になど興味を持たない。
  それが、狭い貴族の屋敷の中でしか生きてこなかったエリオには分からない。
  そして、それはエイブラハムも同じだった。

 「お兄様、話は終わっていないわ!」
 「黙りなさい、クリスティーン。お前はベックフォード家の令嬢として、今後は淑女として振舞い
  なさい。ならず者の中に入ろうとするなど。お前にそんな事できるわけがないだろう。」

  妹を振り払おうと足早にやってきたベックフォード家の当主は、苔むした裏庭に脚を踏み入れ、
 そこに広がる光景を眼にしてぎょっとしたようだ。

 「何をしている!」

  尻もちをついたピアニストの姿と、その前に立ちはだかるならず者を姿を対比させて、エイブラ
 ハムは、すぐさま声を上げた。

 「私に雇われている以上は、私の指示に従ってもらうと言ったはずだ。」
 「こいつらは、僕を突き飛ばしたんだ!僕は何もしてない!」

  エイブラハムの声に、エリオは力を取り戻したように顔を上げ、叫ぶ。その言葉にエイブラハム
 は、ますます顔を顰めた。

 「彼はこの屋敷のピアニストだ。彼に手を挙げた事については、然るべき処分を……。」
 「けっ……こっちが下手に出てりゃ良い気になりやがって。」

  肩を怒らせたならず者達は、もはや雇い主であるエリオの言葉など最後まで聞かない。

 「貴族だか何だか知らねぇが、何様のつもりだ、ああん?」
 「俺達を、自分の召使か奴隷かと勘違いしてんじゃねぇのかぁ?」
 「今の君達の雇い主は、私だ。私の指示に従う事が出来ないのなら……。」

  エイブラハムの声を遮るように、男達は爆笑した。

 「ああ、好きにしやがれよ!」
 「その代わり、ベックフォードはピアニストの尻に突っ込んで喜んでる変態野郎だって、他の奴ら
  に言いふらしてやるよ!」

  しかし、彼らの眼は笑っていない。
  狡猾に世界を生きてきた彼らの言葉は、全てが実行される可能性のある、脅しだった。そこには、
 いかなる法律の効力もない。あったとしても荒野に戻った獣を探すのは困難に等しく、その為には
 新たな獣を雇う必要があった。

 「貴方達!そんな事をして、許されると思ってるの!」

  卑下たならず者の声に果敢に応戦したのはクリスだった。しかし、その言葉もやはり見当違いだ
 った。そして、請い方も。
  威丈高な態度は、ならず者達には逆効果だ。理を説くのも、この場合は明らかにおかしい。
  荒野の獣は、成金貴族の金と理の手綱では、制御する事などできはしないのだ。

 「ベックフォードは雇った人間に、金も出さないってな!」

  それを、今、ベックフォードに雇われているならず者全員が聞いたら、どうなるか。門番達より
 も荒事に長けた彼らは、一瞬でこの屋敷を食いつくすだろう。司法の手が回らぬうちに、逃げ遂せ
 る事も、彼らには出来ぬ事ではなかった。
  ひひっと笑いながら、ハイエナのように立ち去ろうと――仲間達に脅しに使った言葉を全て話そ
 うと――うっそりと背を向ける。
  エイブラハムには、これを金で止めようと思えばできた。しかし、それをすれば後々、更なる金
 を要求される恐れがあり、その手段はベックフォード家当主として使う事は出来なかった。
  成す術なく、そのまま通り過ぎる時間。
  それを割ったのは、酷くぞんざいで乱暴な、しかし端正な声だった。

 「おいおい、穏やかじゃねぇなぁ。」

    黒く突き抜けた身体が、苔むした木立の間から軽やかな歩調で現れる。その声も、喚くでも唸る
 でもなく、風のように軽快だった。
  まるで、先程までの遣り取りなど知らないかのような。
  しかし、はっきりと聞いていたと分かるような台詞を、賞金稼ぎマッド・ドッグは、ならず者達
 に向けて吐く。

 「てめぇら、大人げねぇじゃねぇか。こんなガキの言う事真に受けるなんざ。どうかしちまったの
  か?」

  ゆったりとした手つきで葉巻に火を点けながら、マッドは怪訝な顔をする獣達を睥睨する。
  獣達は、突如現れた黒い影に、微かに戸惑ったようだ。

 「それに、ボンボンの言う事なんか、半分以上が世間から突き飛ばされたような言葉だろ?いちい
  ち気にしてたらきりがねぇぜ。」
 「そいつらはなぁ、俺達の事を泥棒呼ばわりしたんだよ。」

  マッドの言葉に対して、ならず者達がゆっくりと反応する。

 「クズだなんだとぬかしやがって、その上、出て行けとまで言いやがる。どう考えても喧嘩売られ
  たとみて間違いねぇだろうが。」
 「あのなぁ、こんなガキに、そんな大層な喧嘩売れるわけがねぇだろうが。」

  ならず者達の言い分に、マッドは首を竦めてみせた。

 「こいつらはな、てめぇらにやっかんでんのさ。こいつらは全員、世間知らずの坊ちゃん嬢ちゃん
  だ。温室で長い間、大切に大切に育てられて、その所為で女の中も男の味も知らねぇんだぜ?」

  そういう面してるだろ、とマッドが凍りついた成金貴族達に顎をしゃくれば、ならず者達はその
 物言いに微かに笑った。

 「だから、好き勝手に女が抱けるてめぇらが羨ましいんだよ。特にこのガキなんか、女の手も握れ
  ねぇんだぜ?ピアノを弾ける手が大事過ぎてなぁ。」

  多分、自慰だってした事ねぇよ。
  にやり、と笑ったマッドに、男達は、違いねぇ、と今度こそ本当に笑った。
  その笑い声に耐えられなかったエリオが、僕を馬鹿にするな!と叫んだが、その声はもう誰にも
 届かなかった。

 「こうやって叫ぶしか能がねぇガキなのさ。我慢してやりな。そんな事よりも、ただで旨い酒が飲
  める今を楽しもうぜ。」

  エリオの頭を撫でながらマッドが言うと、ならず者達は苦笑いを浮かべた。

 「ああそうだな、こんなガキにかまってたって仕方ねぇ。」

  行こうぜ、と口々に言い合いながら苔むした庭を去っていく獣達。
  それを見送ったマッドの手を、エリオが物凄い勢いで、振り払った。

 「お前!よくも、僕を、僕をッ!貶めてくれたなッ!」

  ぎり、と睨み上げるエリオ。
  しかし、次の瞬間にぶつかったマッドの眼差しに、ひ、と喉の奥で引き攣った音を漏らして凍り
 ついた。
  そこにあったのは、霜を張った刃のように凍えた黒い瞳だった。冷然と睨み据えるマッドの眼差
 しは、罪人を絞首刑へと見送る時の表情をしている。

 「てめぇが呼びこんだ火の粉を、てめぇで振り払って何が悪いってんだ。売れもしねぇ喧嘩を売り
  やがって。」

  声は、何処までも抑え込まれて、低かった。まるで、海底から湧き起こるよう。その声は、エイ
 ブラハムにも振り下ろされる。 

 「てめぇもだ。飼い馴らす方法も知らねぇくせに、飼おうなんて思うんじゃねぇ。貴族を気取るん
  なら、せめて自分の身の程を知れ。」

  身震いするほど端正な声は、古い血の匂いがした。
  それでも自分の権威を保とうとするエイブラハムは、一つ咳払いをして、マッドに向き直る。尤
 も、眼線はマッドには合わせない――合わせられないのだ。

 「場を収めてくれた事には礼を言う。……が、我々を侮辱した事に変わりはない。その分、給料か
  らは引かせて貰うから、そのつもりでいたまえ。」

  金を纏う事でしか権威を振りかざせない貴族は、やはり古びた血を前にしても同じだった。金を
 ちらつかせながら背を向けて立ち去るエイブラハムを、マッドは馬鹿にしたように見送る。その鼻
 先を、エリオが子供のように服の裾を乱しながら、走り去っていった。
  後に残されたクリスは、何か物言いたげにマッドを見上げてた。