部屋の中には何十枚、何百枚という神が踊り狂っていた。足の踏み場もないくらい床に激しく散
 らばった神は、一枚拾いあげれば奇妙な符号が幾つも幾つも、耐える事なく並んでいる。
  何も知らない人間には、ただの模様にしか見えないだろう。
  けれども、分かる人間にはそれは確かに、意味のある言葉であり、それ以上に音だった。
  几帳面に真直ぐな線が紙の端から端まで進み、その上に一定の間隔を持って黒や白の丸が線に重
 なるように、或いは線と線の間に配置されている。それらは細長い棒を持っていたり、棒の先に旗
 を付けていたり、或いは何も持っていなかったりと、様々だ。
  途方に暮れたように、散らばる紙切れの一枚を拾い上げたサンダウンの隣では、ふぅん、と納得
 したような声を上げるマッドがいた。
  サンダウンには理解できない言葉を、マッドはちゃんと理解出来ている。
  それは、サンダウンにとっては当の昔に知っていた事実だったが、やはりそこに、失われてしま
 ったマッドのもう一つの道筋を見てしまったような気がして、微かに心が痛んだ。
  当のマッドは、全く気にしていないようだったが。そしてそれだけが、サンダウンの慰めでもあ
 った。




  Narcissus





  朝食の後、いつもと同じようにエリオはクリスを連れて離れへと立ち去り、離れに入る事を許さ
 れていないサンダウンとマッドは、宣告通りレオーネに張り付いた。マッドの言う通り、外からの
 侵入は考えられない以上、一番の脅威となるであろう存在は、その確執から見ても屋敷の内側にあ
 るとしか思えなかった。
  サンダウンとしては、成金貴族のお抱えピアニストの遺恨に関わるのは願い下げだったが、しか
 し依頼を受けた以上、ピアニストを守る事は建前上必要であった。
  だが、そのピアニストがサンダウンとマッドを侍らす事を良としない以上、ピアニストに何らか
 の形で――身体だろうが名誉だろうが――傷つけるのを止めるには、容疑者たりえる人物を見張る
 のが一番効率的であった。
  だから、サンダウンとマッドは、レオーネが一人きりになるであろう時間帯は常にその身に張り
 付いていたのだが。
  昼食の後、エリオ達は休憩と称して庭の中へと消え去り、サンダウンとマッドはやはりレオーネ
 に付き従う。
  そして、しばらく時間が経った後、けたたましい悲鳴と共に、それは発覚したのだ。
  離れから聞こえてきた悲鳴は、エリオのものだった。
  クリスを連れて庭を散策していた彼は、その後やはりクリスを連れて再び離れへと戻ったらしか
 った。悲鳴を聞いて駆け付けたレオーネと、それに張り付いていたサンダウンとマッドが見たもの
 は、開け放たれた離れの扉の前で立ち竦むクリスと、半狂乱になりながら部屋の中を荒らしている
 エリオだった。
  要領の得ぬ声を発しながら、小屋の中の棚と言う棚をひっくり返し、本を投げ飛ばすエリオは、
 傍目から見ると、どう考えても正気を失っていた。ばら撒かれた本は綴じている部分が切れて、ば
 さばさと音を立てて、あっと言う間に白い紙が螺旋を描くように落ちたかと思うと、風圧でばさり
 と舞い上がる。
  白い紙で覆い尽くされていく部屋の中に、皆が一様に呆気に取られている中、ようやくエリオが
 意味のある言葉を発した。

 「ない!何処にも、ない!」

  両腕を人形のように振り回し、床に舞い落ちた紙を踏みつけて茶色に汚しながら、エリオは口か
 ら泡を吹きながら喚いた。

 「僕の、僕の楽譜が!新しい、新しい曲が!何処にも、ない!」

  何処だ!

  絶叫しながら、無茶苦茶に散らばった白い紙きれを掘り起こすように手で掻いて、そしてもう一
 度、天井へと舞い上がらせる。 
  白い紙きれは、既にエリオにもみくちゃにされており、薄汚れている。そのまま放っておいたら、
 そこに刻み込まれている文字まで消えてしまいそうだ。
  サンダウンには読む事は出来ない文字は、それでもそれが、何らかの音階を持つものである事は
 サンダウンにも理解できる。けれどもそんなふうに踏み躙られたら、消えてしまう。そう思ったの
 か、或いは無様なエリオの姿に興醒めしたのか、激しく踊るエリオを止めたのはレオーネだった。

 「止さないか、屋敷の者以外がいる前で!」

  みっともない。
  そう続けられてもおかしくない口調だった。そしてレオーネはエリオの振り回されている腕を掴
 む。がっしりとした身体付きのレオーネにとって、ひょろりとしたエリオを止める事は苦もない事
 だっただろう。
  だが、エリオは現れたレオーネに、更に逆上したようだった。確執のある、しかもエリオにとっ
 ては見下すべき相手に見下されたような発言をされたのだ。細く、噛み跡だらけの爪を付けた指で
 レオーネに食ってかかる。

 「煩い!たかが庭師の分際で、僕に指図をするな!お前は挫折した召使に過ぎないんだ!ピアノの
  才能のない人間は、黙って僕の踏み台になってれば良い!」

  それとも、お前が、とエリオは誰しも思い付く事を口にした。

 「お前か!お前が、僕の楽譜を盗んだのか!僕に嫉妬して、盗んだのか!」
 「あー、それはねぇよ。」

  泡を吹き散らすエリオに反論したのはマッドだった。エリオの口調とは対照的にのんびりとした
 声で、マッドはエリオの予想が間違いである事を淡々と説明した。

 「この男には俺達がずっと張り付いてた。こいつにあんたの楽譜を盗む暇なんて、ねぇよ。」

  そう。レオーネは離れの扉を開ける事は一度としてなかったし、離れの中に入る事もなかった。
 サンダウンとマッドがレオーネに張り付いている間、レオーネには楽譜を盗む暇など、一度もなか
 ったのだ。

 「だったら、お前らもグルだ!僕の才能に嫉妬して、僕を貶めようと、こいつに雇われたんだろう!」
 「んな事して、なんの旨みが俺らにあるってんだよ。大体、こいつに俺らを雇う金なんかあんのか
  よ。」
 「僕の楽譜を売り払えば、それなりの価値にはなるだろ!」
 「あー、悪ぃけど、楽譜なんぞそれなりの名前の価値がねぇと売れねぇよ。しかも買い取るのは音
  楽に通じた人間じゃねぇと駄目だろ。例えあんたの名前が売れてたって、こいつに楽譜を買い取
  ってくれるような、そんな伝手があるとは思えねぇんだよな。」

  熱っぽいエリオに水を差すように、マッドは楽譜の売り買いの難しさを説明する。
 「ついでに言うと、俺らは金の代わりにあんたの楽譜なんか貰っても嬉しくねぇからな。そんな紙
  切れ、荒野じゃ一銭の価値にもならねぇぜ。」

  流れのピアニストは荒野にもいる。けれどもそれはピアノの腕あってこそだ。音楽はならず者達
 も喜ぶが、ただの楽譜など誰も喜ばない。
  マッドには、その楽譜を弾きこなす技量はあるのかもしれないが、しかしマッドはそれで金を稼
 ぐ事はしないだろう。賞金稼ぎであるマッドの指は、どれだけ端正でも、銃を抜く事に特化してい
 る。
  楽譜など役に立たないと言い切るマッドの心境はサンダウンには分からないが、本当なら楽譜で
 生きていく事もできたかもしれないマッドがそう言うのは、何かとても悲しい事に思えた。

 「もうたくさんだ!」

  しかし、サンダウンが胸を痛める暇もなく、エリオに激しく罵られたレオーネが声を荒げたのだ。

 「いい加減にしてくれ。人の事を盗人呼ばわりなど、随分とお偉くなったものだ。お前にそんな事
  を言う権利など、いや、本当の盗人を糾弾する権利さえない癖に。」

  庭師にならざるを得なかった青年は、何かを耐えるように眼を閉じていたが、ぐっと眼を開くと
 エリオを睨みつけた。その眼に、エリオが一瞬蒼褪めたような気がした。しかし、虐げられてきた
 青年が、それに同情を覚える事はなく、レオーネは呆然と傍に立っていたクリスも睨むように見つ
 める。

 「ちょうど良い。クリスティーナお嬢様にも聞いていただこう。」
 「レオーネ!」

  非難の声はエリオだけでなく、クリスからも上がった。クリスは焦ったようにサンダウンとマッ
 ドに視線を向け、咎めるようにレオーネを見る。
  しかしレオーネは何処吹く風だ。

    「お嬢様、残念ながらあなたは隠し事が下手です。この二人はあなたがベックフォード家のご令嬢
  である事は最初から気付いていましたよ。」

  驚いたようなクリスの視線に、サンダウンは呆れたように眼を顰め、マッドは首を竦めただけだ
 った。

 「エイブラハム様は、ならず者達の中で明らかに貴方を贔屓していましたしね。それにあなたは品
  の良さを隠そうともしなかった。ばれるのは当然です。」
 「そんな、だったら、あの人だって。」

    ちらりとマッドを見るクリスに、今度はレオーネが首を竦めた。

 「彼が何者であるのか。それは俺にも分からない。もしかしたら、エイブラハム様でさえ、何か思
  い違いをしているのかもしれない。」

  たかが成金貴族が口を利く事さえ難しい存在であるのかもしれない。

 「しかし、今はそんな事はどうでも良い。いや、第三者がいるという意味では、良いのかもしれな
  い。エリオの栄光について、暴くには、人は多いほうが良い。」

  弾劾裁判の原告のようなレオーネの眼は、爛々と輝き、それは虐げられてきた民衆の革命のよう
 にも見えた。対するエリオは、何かを口にしようと口を開けたり閉じたりしているが、結局言葉は
 出てこない。何かに怯えているようにも見える。
  その怯えに対して、レオーネはきっぱりと言い放った。

 「此処にある楽譜は、全て俺と、俺の母親ミネルバが書いたものだ。エリオは、生まれてから一度
  として、曲を作った事なんか、ない。