眼の前に出されたコーヒーとケーキを見て、サンダウンもマッドも特に表情を変えなかった。
  けれども、サンダウンは自分よりも先にケーキにフォークを突き刺したマッドを見て、少しだけ
 ずっと昔の事を後悔した。
  小さい頃のマッドは確かに甘えてくる事はあったけれども、それは傍にいたいだとか話をして欲
 しいだとか、ささやかなお願いだけだった。年頃の子供にあるような、玩具やらお菓子やらの物品
 を強請る事は、全くと言って良いほどなかった。だから、サンダウンも特に気にせずに、マッドに
 何かを与えるという事はなかったのだが。
  今、もぐもぐとケーキを口いっぱいに頬張っているマッドを見て、やっぱりマッドも甘いものが
 好きだったんだろうか、と思う。子供というのは往々にして甘いものがすきだから、マッドも好き
 だったのかもしれない。だとすれば、あの時にそうしたものを、毎度ではなくとも一度でも手土産
 として持っていくべきだったのではないだろうか。
  そんな後悔をしたところで、それば既に遅いのだけれども。
  何せ、今サンダウンの隣にいるマッドはもう大人で、もぎゅもぎゅとケーキを口に詰め込んでは
 いるけれども、本当ならばケーキよりもアルコールのほうが好きなはずだ。




  Columbine





 「エリオは昔からピアノが得意だったのよ。」

  突如として現れた二人組に、庭師レオーネの母親は嫌がりもせずに自分の部屋に迎え入れた。
  屋敷の一画にある彼女の座敷は、幾つかの小部屋に分けられており、そこで息子と共に暮らして
 いるようだった。一介の老いたメイドに対する扱いにしては随分と良い境遇なような気もしたが、
 他の召使達の境遇を知らぬサンダウンには、下手な想像をする事はできなかった。
  懐かしむようにエリオの名を口にする彼女は、マッドの飲み干されたコーヒー・カップに新たな
 コーヒーを注ぐ。

 「私の息子も一緒にピアノを弾いていたけれども、エリオには敵わなかったのよ。」

  彼女も、息子であるレオーネと同じく、エリオを呼び捨てにする。
  けれどもその理由が、分かったような気がした。

 「レオーネと、エリオと、そしてクリスティーナお嬢様。三人はいつも一緒にピアノの練習をして
  いたわ。」
 「なるほど、あんたが教えていたのか。」

  注ぎ足されたコーヒー・カップを両手で抱えるように持ち上げながら、マッドは上目遣いで彼女
 を見た。
  ミネルバという名の母親は、マッドの台詞に眼を見開く。

 「あら、どうして分かったのかしら。」
 「手を見りゃ分かる。」

    ミネルバの驚きに対して、マッドは一語で返した。しかし、サンダウンにはミネルバの手を見た
 だけでは、何も分からない。確かに、エリオの爪の噛んだ後のある手に比べれば品良く整っている
 が、しかしサンダウンの眼には少し細みの、皺のある手にしか見えない。もしも手を見ただけでピ
 アノの弾ける弾けないを選別できるとするならば、サンダウンの基準はマッドの手であるが故に、
 ほとんどの人間の手はそれに一致せず、嫌でも点は辛くなる。
  けれどもサンダウンの見方が万国共通なわけがない。マッドはやはり、ピアノを弾いた者が分か
 る、或いはピアノに詳しい者が分かる、何らかの跡をミネルバの手に見つけたのだろう。
  そして、ミネルバもマッドの言葉の意味を解したようだ。その瞬間、微かに硬いものが彼女の顔
 に浮かんだが、それが何を意味するのか、やはりサンダウンには分からなかった。
  マッドはもしかしたら分かったのかもしれないが、例え分かっていたとしても無視する事に決め
 たようだ。ミネルバの顔になど興味も示さず、強引に話を進める。

 「それじゃあ、エリオはあんた達と同じくこの屋敷の召使だったわけだ。」

  こくこくとコーヒーを飲むマッドの姿は、いつもよりも少し幼さが残っている。他のならず者ど
 もに比べれば、ずっと優雅な手つきなのだが、しかし妙に幼い。
  その幼さは、どうやらわざとそうしているものらしかった。
  マッドの様子に表情の強張りを消したミネルバは、微かな笑みを取り戻してマッドの問いに答え
 る。

   「いいえ……エリオは召使となる前に、エイブラハム様のピアニストになったのよ。エリオの母親
  は確かに私と同じ召使だったけれども、ピアノの腕を見込まれたエリオは、エイブラハムの援助
  を受けて学校に行き、ピアニストとしての教育を受けたの。」

  エリオの母親は、エリオが卒業する前に、病気で死んでしまったけれど。

 「レオーネはピアニストにはならなかった?」
 「あの子にそんな才能はないわ。」
  
  ミネルバは首を竦めて苦笑した。
  自分の息子には、ピアノを弾く才能はなかったのだ、と彼女は言う。確かにレオーネもピアノで
 生きる事を夢見ていた。けれどもレオーネには音楽の女神は微笑まなかったのだ。
  同じ召使の子供であるにも拘わらず、片や才能に恵まれ、召使ではなくピアニストとして生きる
 事が許され、片やピアノは習って人前に弾けるようになったもののそれ以上の芽生えはなく、一介
 の庭師として生きていかざるを得ない。
  果たして、エリオはそれについて何を思い、レオーネはどう感じたのか。
  そもそも、二人とも一緒にピアノを習っていたのなら、互いの心の有り様は、はっきりとでなく
 とも、おぼろげでも理解していたはずだ。ならば、幸運に恵まれたエリオが、夢破れたレオーネを、
 自分の練習場である離れの小屋の周囲の庭を整備させているのは、どういう理由からか。
  正直なところ、それはごく一般的な感性から言って、とても酷薄な意味合いのように思えてなら
 ない。
  しかし、ミネルバは首を横に振った。

 「あの小屋は、エリオにとっても、レオーネにとっても、思い出の場所だから。」

  あの小屋で、ミネルバは彼らにピアノを教えていたのだ、と言う。つまりあの小屋こそが、全て
 の発端の場所だ。

   「だから、エリオは誰もあの場所に近付けたくないのよ。思い出を穢されたくないと思って。あの
  子は、繊細だから。それで、レオーネだけは、同じ思い出を持つレオーネだけは、あの庭に入れ
  るのよ。だから、レオーネはあの庭の庭師なの。」

  そんなわけが、あるか。
  ミネルバの説明に、サンダウンは心の底で呟いた。
  ミネルバ自身が本当にそう思っているかどうかはともかくとして、普通の眼で見て、レオーネと
 エリオの関係が、そんな美しい友情で培われているとは思えない。エリオのレオーネを見下した眼
 付きも、エリオを見るレオーネの憎々しげな表情も、決して友情という言葉で掻き消せるものでは
 ない。
  そんな事は、どれだけ眼が節穴であっても、分かるというものだ。
  おそらく、マッドもミネルバの言葉の愚かしさに、気付いているだろう。だが、マッドはそれを
 お首にも出さなかった。相変わらず何処か幼い仕草で、ミネルバの眼を曇らせている。

 「クリスティーナは?ピアノを習って、それだけだったのか?」

  首を傾げるマッドに、ミネルバは再び苦笑した。

 「クリスティーナお嬢様がピアノで生活していくなんて事は有り得ないわ。あの方はベックフォー
  ド家のご令嬢ですよ。ピアノで生きていくなんて事はせず、どこかのご立派な殿方とご結婚され
  るのでしょう。」

  その台詞に、マッドは首を竦めただけだった。
  それは、音楽家であった母親を思い出した所為かもしれない。

 「じゃ、クリスティーナは、すぐにピアノの練習を止めたのか?」
 「いいえ。エリオがエイブラハム様にピアニストとしての教育を施される頃に、クリスティーナ様
  も全寮制の学校に入られる事になったので、この時に。」
 「ふぅん。」

  マッドは頷いて、こくりとコーヒーをもう一口飲み、そして最後にもう一つだけ、と聞いた。

 「エイブラハムはエリオの新曲について随分心配しているようだが、なんでそんなに心配するんだ?
  盗まれるなんて、そんな事有るとでも思ってるのか?」
 「エリオはここ最近、新曲を発表していませんでした。だから、エイブラハム様も心配なのでしょ
  う。私は貴族様達の事は良く知りませんが、もしかしたら中には、非道徳的な方もいるのかもし
  れません。それを見越して、エイブラハム様は貴方がたをお雇いになったのでしょう。」

  初老の婦人の、澱みない答えに、マッドは薄っすらと笑った。その笑みは、満足したというより
 も、これ以上は聞いても意味がないという意味を示していた。

 「そうか、じゃあ、これで失礼するぜ。急に押しかけて悪かったな。」

  コーヒー・カップを、突然先程よりもずっと優雅な仕草でテーブルに戻したマッドに、ミネルバ
 が、何かはっとしたような顔をした。その時にはマッドの表情からはあどけなさが消えており、何
 処までもうっとりとした上品な笑みを浮かべる口元があるだけだ。
  洗練されたその表情に、ミネルバが自分の警戒が怠っていた事に気付いたとしてもおかしくはな
 い。動揺を見せるミネルバに、マッドは貴族特有の傲慢さを浮かべて立ち上がり、ひらひらと部屋
 を出ていく。
  サンダウンは、それについていくだけだ。
  呆然とした様子のミネルバを放り出したまま扉を閉じたマッドは、しかししばらくの間その表情
 と仕草を消そうとはしなかった。ようやくマッドが普段の表情に戻ったのは、三つほど廊下の角を
 曲がった時だった。

 「あの婆さんは、息子と違ってベックフォードに従順だなぁ。」

  エイブラハムとクリスティーナを貴族と持ち上げるミネルバに、マッドはそういう感想を抱いた
 ようだった。

 「……何故、ピアニスト、だと?」

  サンダウンは一番最初に感じた問いをマッドにする。するとマッドは、ああ、と頷いた。

 「あんなの適当だ。まあ、部屋の隅に楽譜が置かれてるから、そうかもしれねぇとは思ったけど。」
 「…………。」

  真剣に考えた自分が、馬鹿だった。
  がっかりしているサンダウンを余所に、マッドは呟いている。

 「まあ、レオーネとエリオの確執が分かっただけでも良いか。」
 「……調べる意味はあるのか。」
 「レオーネがエリオの邪魔をする可能性だってあるだろ。ってか、そこいらの貴族よりも、ずっと
  可能性としちゃ高いぜ。」
 「だが、そんな事くらい、エリオもベックフォードも気付いているはずだ。」
 「まあな。でも、あいつらは物凄い鈍感かもしれねぇぜ。」
 「………。」

  鈍感と言うよりも、想像力が逞しいのだ。
  サンダウンは、自分とマッドの関係を大きく間違えたエイブラハムの事を思い出し、苦虫を噛み
 潰したような顔になる。その表情に、マッドがどうした?と聞いても、なんでもないと返すしかな
 い。

   「まあ、俺らはレオーネを見張ろうぜ。あれだけ見張りがいるんだ。外から入ってくる事はねぇん
  だから、だったら何かあるのは内側からさ。」

  それには、サンダウンも同意見だった。
  この屋敷は、おそらく内側から瓦解する。

  ただ――それは、サンダウンとマッドが思っているよりも早く、その時は訪れた。