クリスと話をしていた廊下を見渡せるような階段の手摺に、マッドは顎を乗せてサンダウンを見
 下ろしていた。子供のような仕草にサンダウンが微苦笑を見せると、マッドは形の良い顎を手摺か
 ら放し、とことこと階段を下りてくる。
  マッドの長い影が、細くサンダウンの足元に近付いてきた時に、サンダウンは思い出したように
 言った。

 「……食事は。」
 「いらねぇ。」

  考えるまでもそう口にしたようなマッドに、サンダウンは顔を顰めた。胸の中に浮かんだのは、
 朝食を食べないと身体に悪いという親のような言葉だった。今にもそう言ってしまいそうなサンダ
 ウンの横をそのまま通り過ぎ、マッドは再び何処かに行こうとしている。

 「何処に行っていた。」

  慌てて問い掛けると、マッドは歩みを止めて肩越しにサンダウンを振り返る。

 「上の階に行ってたんだよ。ぐるっと窓際を回ってみて、屋敷の周りの様子を見てたんだ。」
 「そんな事をして、何になる。」

  不思議なマッドの行動に首を傾げると、マッドは小さく首を竦めてみせた。

 「俺達以外のならず者達がどうしてるのか、知りたかったのさ。




  Red currant






 「だっておかしいじゃねぇか、俺達だけがこんな待遇なんて。だから、他の奴らはどうしてるのか、
  確認してたんだよ。」

  エイブラハムの真意は完全には掴めてはいないが、一応ダブルベッドの部屋に押し込まれた理由
 は理解したサンダウンは、その理由は懸命にして口に出さなかった。代わりに、それでならず者連
 中の動向は分かったのかと訊いた。 

 「ああ、とりあえず、あいつらにも一応屋敷周辺の警戒っていう役目が与えられてる事は分かった
  ぜ。」

  ならず者達は、門番達よりもかなり不真面目に、屋敷の周りをぐるぐるとただ周回しているらし
 い。しかも、一応彼らもそれなりの服装は用意されたようだが、どうもあまり似合っていなくて、
 変な迫力を生み出しているらしい。その変な迫力により、屋敷周辺には、れっきとした門番がいる
 門以外にはほとんど人間が近寄らないようで、それなりの効果は出しているらしかった。

   「ま、いくら正装していると言ってもならず者はならず者だからな。普通の人間は近付きたくねぇ
  よ。」

     ただ、その効果を上げているならず者達は、屋敷の中には入れないらしい。周辺の宿に寝泊まり
 して、そのあたりで食事もとっているらしかった。そんなのではさぼる者も出るのではないのかと
 思うが、そのあたりは抜かりがなく、エイブラハムはきちんとならず者一人一人の予定を組んで、
 召使達に見張らせて彼らの動向を逐一報告させているらしい。そして指示に従わなかった者は、宣
 言通り首を切られるのだ。
  正直なところ、召使達にならず者を瞠らせるくらいなら、召使達に屋敷周辺を警戒させれば良い
 ようなものだが、どうやらエイブラハムは何か起きた時に召使達が傷つく事は嫌なようだ。確かに、
 召使達の中には荒事が不得手な者もいるだろうし、何よりもベックフォード家の召使ともなれば、
 そこそこの身の証があるだろう。もしも何かあった時、それなりの保障をしてやらねばならない。
 一方で、ならず者達は脛に傷を持つ者が多く、身元を保証してくれるものはいない。だから、その
 身がどれだけ傷ついても――死んだとしても――エイブラハムには負うところは何もないのである。
 要するに、使い捨ての手駒だ。替えは幾らでもある。
  考えたもんだよ、とマッドは嘲るように呟く。
  それは、エイブラハムに良いようにされているならず者達に向けられたものではなかった。はっ
 きりと、エイブラハムに向けられた嘲りだった。
  嘲りの理由は、サンダウンにもすぐに思い至る事が出来た。きっと、マッドの周囲に額づく賞金
 稼ぎ達も思い至るだろうし、賢しらな娼婦達も気が付く。名実ともに、荒野の王者であるマッドが、
 ならず者達を使い捨てにしている成金貴族を嘲る理由など、当のエイブラハムには分からないだろ
 うが。

 「まあ、あいつらは暇そうだが別に嫌がってはいねぇよ。珍しく良い宿に泊まって美味いもんが食
  えるんだからな。」

     西部一の賞金稼ぎはそう言って、エイブラハムへの嘲りを止めた。
  それよりも気になるのは、あの庭には、庭師のレオーネ以外誰も近付く奴がいねぇって事だ。
  俺が見た限りでは、とマッドは言う。

 「今朝から今まで、誰もあの庭に――特に離れに近付いた奴はいねぇ。」
 「偶然じゃないのか。」
 「おいおい、朝っつったら召使共が一番忙しい時間帯だぜ?あちこち掃除したりさ。庭だって掃除
  される。あれだけ広い庭なんだ、レオーネ一人じゃ骨が折れるぜ。けど、誰もレオーネを手伝わ
  ない。レオーネ以外の庭師は、全員前庭とか別の庭を掃除してやがる。」

  まるでそこに――離れの小屋に近付く事を禁じられているかのように。
  なんでだろうな、と眼をくるりと回してみせたマッドに、けれどもサンダウンは小さく溜め息を
 吐いて窘めた。
  サンダウンとしては、肝要なのはマッドは無事である事だ。危険は遠ざけたい。あの離れに秘密
 があると言うのなら、けれどもそれを暴く事で潜んでいた蛇が飛びかかってくると言うのなら、放
 っておけばいいのだ。
  けれどもマッドは手をひらひらと振っただけだった。

    「大丈夫だって。俺が死んだりしたら怪しまれるのは分かってるだろうから、いきなり襲ってくる
  ような事はねぇよ。」
 「マッド。」

  マッドの口から出てきた『死』という言葉に、サンダウンはひやりとする。
  マッドは決して死の匂いのする人間ではない。むしろ暴力的なまでに命が荒れ狂う若者だ。しか
 し、だからと言って死が遠い存在ではない。いや、賞金稼ぎである以上、通常よりも近い位置にい
 る。
  サンダウンとて、マッドの立ち位置が如何に白刃の上のように不安定であるか分からぬわけでは
 ないし、知らないわけでもない。マッドの命は、一歩間違えればあっさりと掌から零れ落ちてしま
 うほど、危うい場所にいる。それを重々承知しているからこそ、サンダウンはマッドを守るのだ。
  けれども、だからこそ、マッドの口から『死』という言葉が――しかも自らの――あっさりと零
 れ落ちると、心臓を鷲掴みにされたような気がする。
  サンダウンにとって、マッドはサンダウン自身の手によって家族を壊してしまった幼子だ。その
 幼子が唐突に命を奪われてしまったとなれば、サンダウンはどうやってこれから先の彼岸への道を
 歩けば良いのか分からない。
  それは、決してマッドが、殺してしまった男の子供だからという理由だけではない。
  そのもう一つの理由をサンダウンが口にする事は出来なかったし、また、だからこそマッドはサ
 ンダウンの口調に含まれていた窘めにも興味を示さなかった。

 「でも本当の事だろ。いくら貴族様とはいえ、疑われたくはねぇだろうよ。ましてクリスは真っ先
  に兄貴を疑うだろうよ。」
 「だが、何が起こるかは分からない。」

  大丈夫だと言ってみせても、前回のように友人の振りをした斜陽貴族が襲いかかってくる事もあ
 るのだ。それを防ぐには、サンダウンがマッドの傍にいる事が一番良いのだ。
  しかし、マッドは首を振る。

 「気にしすぎだろ。そんな事よりも、あんたも好き勝手に屋敷の中探ってみたらどうだ?」
 「マッド?」

  不意に出てきたマッドの台詞に、サンダウンは怪訝な顔をする。それに対してマッドは首を竦め
 た。

 「いや、良く良く考えてみりゃ、屋敷の中まで四六時中一緒にいる必要はねぇんじゃねぇかって思
  ったんだよ。」

  その台詞に、サンダウンは驚き、眼を瞠った。
  これまでマッドは、サンダウンにぺったりと張り付いてきた。サンダウンが悩ましく思うほどに、
 子供の頃と変わらずに甘えて、懐いた。それは今朝方、眼を覚ますまでずっと続いていたのだ。そ
 れが、ちょっと会わなかったほんの数時間の間に覆ったとなると、サンダウンでなくとも驚くとい
 うものだ。
  まして、サンダウンは確かにマッドの子供の頃と変わらぬ様子に悩ましく思っていたものの、そ
 れは決して嫌悪や煩わしさからではない。それどころか、持て余しそうになるほどの情を傾けてし
 まいそうだったからだ。
  もしかしたら、その部分をマッドは勘違いしたのではないだろうか。サンダウンの悩ましい気分
 を敏感に感じ取り、それを煩わしい為と思いこんでいるのではないか。
  が、それは違っていたようだった。
  マッドは一つ首を振ると、何やら眼に思いを湛えてサンダウンを見つめる。

 「……あんた、女が欲しいとか、思った事ねぇのか?」
 「は?」

  再びの唐突さに、サンダウンが顔を顰めたとしても無理はない。

 「俺と一緒にいるばっかりで、女が欲しいとか思った事ねぇのか。俺がいない間だって、誰かと一
  緒に暮らそうとか思わなかったのか。」
 「マッド?」

    何を言っている。
  あまり、心地の良い話ではない事だけは分かるが、その真意が分からない。

 「別に、俺に気兼ねする必要はねぇんだぜ。あの時、あんたが俺のもんになったって言ったのは、
  言葉の綾みてぇなもんだし。だからって、あんたを一生縛りつけようなんて思ってねぇよ。」
 「マッド、何の話だ。」

    もしかして唐突にサンダウンが嫌になったのだろうか。だから召使に暇を出す主人のように、こ
 んな遠回しな言い方をしているのだろうか。マッドは確かにはっきりと物を言うが、自分が理不尽
 な物言いをしている事に気付かぬ男ではない。だから、こんな迂遠な方法で、サンダウンを遠ざけ
 ようとしているのだろうか。

    「マッド、私が煩わしくなったか?」

  思って、訊いてみた。
  すると、今度はマッドが眼を見開いた。

 「はぁ?俺の言葉の何処をどうとったらそんな事になるんだよ。ってか、煩わしいと思うのはあん
  たのほうじゃねぇのか。」
 「……何故。」
 「何故も何もあるかよ。俺があんたに甘えてる事くらい、俺だって自覚してんだ。」

  そう告げるマッドの顔は、酷く苦々しくて、まるで不本意だと言うようだった。

 「でも、そんなんじゃ、あんただって女と一緒にいたい時の邪魔になるだけだろうが。だから、少
  し距離を取ろうかと。」
 「…………。」

  言いたい事は分かったが、それでサンダウンにどうしろと言うのか。まさか、サンダウンに女を
 抱きながらマッドの心配をしろとでも言うのか。
  渋面を作ったサンダウンに、マッドは溜め息を吐く。

 「まあ、あんたの好みがクリスじゃねぇだろうって事は分かるよ。でも、クリスだって相当の美人
  だっただろ。女っ気のない、俺ばっかり纏わりつかせてるあんただって、ちょっとはクルもんが
  あっただろうが。」

  つまり、そういう事か。
  クリスの事を口に出されて、一瞬何故そこにその名前が、と思ったが、つまりはそういう事だっ
 たのだ。
  マッドは、おそらく階段の上からサンダウンとクリスが会話しているのを見ていたのだろう。会
 話の内容までは知れなかっただろうが、クリスがサンダウンとマッドの正体を暴こうとする眼付き
 に何か感じるものがあったのかもしれない。
  それでなくとも、マッドは日頃から自分がサンダウンに甘えていると自覚はしていたのだろう。
 その状態を今まで眼を瞑っていたものの、クリスと話をするサンダウンを見て、ふっと考えてしま
 ったのだろう。
  マッドの本質は、白々しい部屋の中に閉じ込められていた少年の時と変わらない。マッドは、サ
 ンダウンには語る事以外何も求めてこなかった。未来永劫サンダウンを自分のものにしようだなん
 て、絶対に口にしないのだ。
  そんなマッドを、抱き締めたい、と思った。
  マッドが震えを見せるたびに抱き締めたいとは思うのだが、静かにサンダウンを手放そうとする
 マッドを、離れないでくれとしがみ付いて抱き締めたくなったのは、これが初めてだ。
  しかし、今この場ではそれが出来ない事を、サンダウンは良く知っていた。そうすべきであって
 も、この些か品のない屋敷の中ではそれはするべきではない。
  だから代わりに、少しだけマッドの意識を逸らせる事を口にした。

 「クリスが、お前の出生を疑っていた。」

  正確にはそれだけではないのだが、騎士云々を話し始めると長くなるので止めておいた。しかし
 それだけで十分だった。マッドは、黒い眼を零れんばかりに見開くと、すぐに冷然とした色を灯し
 た。その白く硬い表情は、サンダウンの償いを拒絶した彼の母親の顔に似て、サンダウンは微かに
 胸が痛んだ。が、眼は逸らさない。
  サンダウンに受け止められたマッドの貴族としての眼差しは、この屋敷への不審をはっきりと物
 語っていた。それは、マッドの中の頑是ない子供の部分が覆い隠され、賞金稼ぎマッド・ドッグへ
 と移行する瞬間でもある。

 「……俺は、こいつらを知らねぇぞ。」
 「向こうが勝手に知っている可能性はあるだろう。」

  マッドの慎重性を引き出すように仕向けると、案の定、マッドは荒野で獲物を窺い見る時のよう
 な表情を浮かべた。

 「まさか、あいつらが俺を誘き出したとでも言う気か?」
 「そこまでは分からない……。呼び出されたのは私だけだからな。だが、それを見込んでいた可能
  性はあるだろう。」

    その可能性は低いが。
  サンダウンは、ベックフォード家がマッドの出生に気付いている可能性は低いと思っている。た
 だ、マッドが何者かとは疑っているだろう。
  しかし用心するに越した事はないし、何よりもマッドの意識がおかしな事――サンダウンを手放
 す事など考えないように、別のほうへ緊張を持っていたほうが良いのだ。
  ずるい事を考えている、とは思う。
  だが、サンダウンはもともとそういう人間だった。昔はそれを抑えていたが、しかし今では抑え
 る必要はない。サンダウンにはマッドしかいないのだから、マッドを手放さないようにあらゆる手
 を尽くす事に、戸惑うはずもなかった。