西部の春は、やはり乾いている。
  もう少し移動すれば――南に行けば田園地帯が、北に行けば森があり、季節の境目を感じる事も
 出来るのだろうが、しかし今現在いるこの場所は、砂と背の低い枯れかけた様な草があるばかりだ。
  ただ、夜も更けた頃合いに流れる風は、昼間のそれと違ってほんのりと湿り気を帯びている。僅
 かに水を含み、それを地面に垂らす風は、何処からか甘い香りを運んできた。もはや誰も住む事の
 ない、このゴースト・タウンの一画に、以前誰かが植えた花でも人知れず咲いているのかもしれな
 い。
  湿った空気を運ぶ風の上に座する空は、今宵も良く晴れ、澄み渡った白い三日月が貼り付いてい
 た。




 Eostremonat





  あまりにも、穏やかだ。
  本来ならば人一人いないゴースト・タウンに対して感じるものではないのだが、人目を避けて逃
 げるように生きているサンダウンにしてみれば、風の鳴らす囁き以外に音の聞こえない、沈黙に支
 配された町は今まで訪れたどの町よりも平和だ。
  耳に聞こえる、深さを増した静寂は、ひどく心地良い。
  それは自分の周囲に自分の首を狙って闇に紛れる賞金稼ぎ達がいない所為もあるだろうが、それ
 以上にすぐ近くで密やかな息遣いを零している温もりの所為だ。誰よりも自分の命を狙い、酷く賑
 やかしい男が、不可思議なくらい静けさを保っている。普段ならば一体何処からそれだけの言葉が
 出てくるのかと思うほど、ぽんぽんと乱暴な言葉を生み出す口は閉ざされ、緩やかな呼吸を吐くば
 かりだ。

 賞金首と賞金稼ぎ。

  自分達の関係を考えれば、沈黙は生命のぎりぎりの縁を感じさせるような緊張感を孕むか、ひた
 すらに気まずいだけのもののはずだ。しかし、今、このゴースト・タウンの、主を失った家の一室
 に流れる気配は、ゆったりとした静けさに覆われている。心身を圧迫するような静寂は、何処にも
 ない。
  静寂をより深くしている事に一役買っているマッドは、サンダウンの前で無防備に身体を投げ出
 し、固い木のベッドの上に横になっている。背中が描く呼吸はゆっくりと落ち着き、彼が眠ってい
 るのではないかと思ってしまいそうだ。
  しかし実際は、サンダウンと同じくどれだけ平穏な空気が流れていようとも、深い眠りに身を任
 せる事はないのだろう。両腕に収めた身体は、サンダウンから見えるのは背中だけで、その顔は窺
 い知れないが眼を覚ましている事は気配でわかる。
  サンダウンは腕の中に閉じ込めた身体の、その項に顔を埋めた。微かに湿ったそこは、この夜の
 空気が孕む潤いと同じ匂いをしており、潤った空気は先程までの行為を思い出させた。頬を擽るマ
 ッドの髪も、いつもは全ての色が混ぜ合わさったかのような黒さだが、今宵はその混沌の中でも甘
 さを多く含んでいる。囲った腕に僅かに力を込めると、その身体は僅かに身じろぎした。
  この西部の、ひいては世界の誰も知らない、自分達の間にあるこの行為。
  いつから始まったのかなど、同じ空が続くこの地ではその時は思い出せても、それがいつだった
 かを言い当てるのは困難だ。だが、人目を憚り胸の内に形容しがたい絶望を住まわせるサンダウン
 に恐れる事もなく幾度も銃を突きつけるマッドが、サンダウンの中である特定の地位を築き上げる
 のは当然の事と言えば当然の事だった。
  気配で誰なのか分かり、その機嫌まで読み取れるようになった時は、もう、彼の代わりは誰にも
  務まらなくなっていた。
  尤も、そのマッドが、まさか己の腕の中に転がり落ちてくるとは思いもしなかったが。
  悉くが自分とは正反対なのだ。西部特有の武骨な自分の手と、銃を扱うには繊細すぎるのではな
 いかと思うようなマッドの手を重ねれば、それは一層際立つ。くるくると良く変化する表情も、若
 くしなやかな身体も、とてもではないがサンダウンが手に入れられるような代物ではない。
  だが、誰もが挙って欲しがる彼を、今宵よりももっと湿り気のある夜、サンダウンは手に入れて
 しまった。
  幾千の滾るような世界の熱と幾万の世界の欠片を背負う身体は、その夜、何一つ背負わないで、
 銃一つ掲げて自身の熱だけを手にして、サンダウンの腕の中にその身を投げ出した。
  思いのほか傷の多い身体は、それでも存分に艶めかしい。荒野で、その身体を貪っている様は、
 傍から見れば飢えた野獣が襲いかかっているように見える事だろう。それは、あながち、間違って
 いない。
  両腕で縛ったマッドの身体は、今も焼けつきそうなほど熱く、それが心地良い。こうして人を抱
 き締める事が、もはや日常事ではないサンダウンにとっては、時折齎されるマッドとの熱の交換は、
 性欲と言うよりも食欲を満たすと言ったほうが近い。
  しかもよりによって、眼の前に差し出されるのは飢えを満たす為の最低限のものではなく、神酒
 よりも尚濃厚な匂いを放つ身体だ。
  思って気付いた。
  先程から薫ってくる花の匂い。
  それは、眼の前にいる男から漂ってくる。
  いつもの、彼が好む葉巻の匂いを越えて漂ってくる事に気付いて、少し眉根を寄せた。

 「…………なんだよ。」

  僅かに気配を変えたサンダウンに気付き、マッドは静寂と同じ低音で囁く。月光で濃く芸術的な
 陰影を描いていた背中が揺れ、視線だけがサンダウンを窺っている。

 「何処へ、行っていた?」
 「『何処へ』?」

  マッドがサンダウンの腕の中で、ゆっくりと寝返りを打つ。くるりと回転した黒い頭の下で、こ
 ちらは夜空を引き摺り落としたかのような黒い瞳が、静かに光っていた。お喋りで騒がしい男だが、
 実はその内側は透き通るように凪いでいる事を、一体何人の人間が知っているだろうか。

「…………匂いがついている。」

  頤から首筋までを擽るように囁くと、マッドは睫毛を少し震わせ、ああ、と呟いた。

 「昼間………南にある草原を突っ切ったら、ディオの奴が。」

  ひっそりと名前を出された彼の愛馬は、今はサンダウンの愛馬と仲良く毛繕いをし合っているだ
 ろう。その馬のように、サンダウンもマッドの短い髪に手を差し込み、ゆっくりと撫でる。その感
 触に眼を閉じながら、マッドは言葉を続ける。

「急に立ち止まりやがって、おかげでこっちは地面に振り落とされて…………っ。」

  首筋に顔を埋めて、薄く口付けると息を呑む音が聞こえた。
  それで、と先を促すと、睨むような視線が返ってきた。

 「そのまま、穴ぼこの中に落ちて、ちょうどそこが菫の群生地だったんだよ。」

  やたらと匂いのする菫だったと言って、マッドは厭らしく動き始めたサンダウンの手を止める。

 「ってか、てめぇにはムードってもんがねぇのか。」
 「………今更だと思うが。」

  荒野での慌ただしい情事に、雰囲気も何もない。
  すると、マッドの視線が細くなる。穏やかな静寂が、じわじわと消え去る気配がする。ずりずり
 とサンダウンから距離を取ろうとして、尚且つ投げ出したバントラインに向けて手を伸ばすマッド
 の腕を掴み、ひとまず銃の撃ち合いになる事だけは阻止する。
  せっかくの誰にも邪魔されない夜が、マッドによって叩き壊されるのは、なんとしても避けたい。
  確かに本質は冷然としている男ではあるが、どうしようもなく気紛れであるマッドは、何処に地
 雷を持っているか分からない。
  荒野のど真ん中で嫣然としてサンダウンを誘う事もあれば、今のように妙な事で機嫌を損ねるこ
 ともある。以前も崩れかけた小屋の中で、もどかしげにその脚を覆うものだけを引き摺り降ろして
 事を運ぼうとしたら、物凄く嫌がられた。その後、しばらくの間、変態呼ばわりされた。結構長い
 間、そう呼ばれていた気がする。

  抱き寄せてこめかみに口付けし、髪を撫でてやると、ようやく身を捩っていたマッドが大人しく
 なる。よし、と心の中で頷き、顔だけは無表情で、しかしさりげなくその身体の上に乗り上げなが
 ら、サンダウンはマッドの頬を撫でる。

 「………匂いが、移りそうだ。」
 「てめぇから花の匂いなんか、似あわねぇぜ。」
 「………お前の、匂いが。」

  カリと耳を甘噛みし、その手を自分の手で覆い、固いベッドの上に縫い止める。見下ろしたマッ
 ドの顔は、何とも微妙な表情を作っているが、微かに朱を散らしているので間違ったわけではなさ
 そうだ。匂いを擦りつけるように身を寄せると、眼を閉じて腰を捩る。動物などは自分の所有物に
 は匂いをつけるというが、果たして自分達も同じだろう。マッドの葉巻や酒の匂いが、自分の衣服
 から時折薫る事は今や珍しい事ではない。それは、マッドも同じはずだ。そもそも。
  ちらりと視線を巡らせると、小さく光った物があった。黒光りするバントラインと、銀に輝くピ
 ースメーカー。マッドの手に馴染んでいるバントラインは、今、ピースメーカーの銀色の銃口に口
 付けられている。
  一瞬で立ち昇る硝煙の薫りまで、移しているのだ。
  それ以外の匂いなど、今更だ。
  腰に手を這わせると、ぴくんと身体が跳ねた。腕の中の身体の熱が焼き尽くすものから蕩けるも
 のへと変化する。
  春の夜は一瞬だ。そうでなくとも、次、いつ会えるか――その生死すら――分からない。ならば、
 この瞬間を無駄には出来ない。

  そのまま溶けてしまいそうなマッドを抱え直すと、サンダウンは再び、眼の前に差し出された身
 体に溺れる事に専念する事に決めた。