水のせせらぐ音が聞こえる。
  荒野には珍しい深い緑が、浅い川を囲っていた。
  まさにオアシスのように、こんもりと木々が生い茂るその場所に、一頭の黒馬がひっそりと佇ん
 でいた。
  その黒馬は、サンダウンを嘲笑うかのように、或いは憎々しげに、もしくは傲慢に、呟く。
  お前など呪われてしまえ、と。




 The End





  鞍と手綱を付けられる事で自由を奪われた馬の前には、脱ぎ散らかされた衣類がある。
  その奥のせせらぎの中からは、水が跳ねる音が。
  血を洗い落としているのか、それとも風呂の代用か。
  いずれにせよ、銃さえ放り出して無防備な様を曝している男は、此処がならず者がはびこる荒野
 だという事を忘れているのかもしれない。
  現に、サンダウンが近付いても水音は止まない。
  本来ならば何よりもサンダウンの気配に気付いてしかるべき男は、まるで無数の壁にでも囲まれ
 ているかのようにせせらぎの中にいる。
  珍しく青々とした下草を踏みしめ、しかしサンダウンはそのまま奥へと近づくことを戸惑った。
  これがいつもなら、何の気負いもなく近付くなり立ち去るなり何らかの行動に移せたのだろうが、
 如何せん眼の前の地面には、明らかに彼が着ていたのであろう衣服が散在してる。
  黒い帽子やらジャケットやら、果てはスラックスまで脱ぎ棄てられている事と、奥から聞こえる
 水音から察するに、彼がどういう状況なのか想像するに難くない。
  その状況というのが、次に踏み込むべき脚の行方を戸惑わせている。

  せめて、彼が気付いているのなら。
  一糸纏わず水に浸る彼が、サンダウンがいる事に気付いているのなら、サンダウンも何らかの反
 応もしようがある。
  それこそ、足早に立ち去る事も。
  だが、何よりも気配に敏い――ことサンダウンに関しては特に――賞金稼ぎは、微塵もサンダウ
 ンに気付いていない。
  その無防備さがサンダウンから立ち去る事を戸惑わせている。

  これが、他の賞金首だったなら、どうするつもりだったのか。
  惜し気もなくその肌を見せて、その身を守る銃でさえ放ったらかしにして。
  だが、無辜であるとはいえ賞金首である己がそれを指摘するのもおかしな話だ。
  いや、その前に何一つ身につけてない彼の前に、どうやって姿を現せというのか。

  たった一人の男の身体の状態に、酷くうろたえているサンダウンの耳に、怨嗟のような声が聞こ
 えてきたのはその時だった。

 「呪われてしまえ。いっそ消え失せればいい。」

  人と化すほどに憎しみを背負った黒い馬は、その呪いが消えた今も尚、人智を越える力をその身
 に秘めているようだ。
  もしくは、いつ再び憎しみを花開かせようかとその時を待っているのかもしれない。
  世の不幸を引き連れたかのような黒い馬――ディオの眼は、馬特有の優しい眼をしていない。デ
 ィオの眼は、世界を嘲る人間の眼差しそのものだ。

 「本当は他人任せの人間など嫌いなくせに。それでも弱者を守るためだとかそんな言い訳をして、
  醜い自分を隠して。」

  一つの声の中に幾つも声が重なって聞こえるのは、ディオの身体を介して、あらゆる世界の憎し
 みがサンダウンに語りかけているからかもしれない。
  あの悲しい世界にいた魔王が告げたように、あらゆる場所あらゆる時代に存在する人間のその感
 情は、次元さえ超えて繋がっているのかもしれない。恐らく、今聞こえている声には、塵になって
 消え失せたあの青年のものも混じっている。

 「お前は結局のところ、我々と同じだ。我らとお前を分け隔てたものなど、実はないに等しい。」

  だって、お前が魔王にならないのは、単にあの男の手によるものじゃないか。

  今、何一つにも守られていない、あの、黒い眼と髪の男。
  その男を守ろうとするかのように立ち去らないお前の、なんと滑稽な事か。

 「だってあの男は気味の悪い俺を連れて行ってくれた。」
 「あの男は我々の力を押し込める。」
 「私の絶望の囁きにさえ笑いかける。」
 「俺の不幸を縛り、暴走を許さない。」

  口々に告げる憎しみ達は、ひたりとサンダウンを見据え、きっぱりと言い放つ。

 「我々は、お前の事が嫌いだ。」

  嫌いだ、嫌いだ、憎い、お前が。

 「お前がいると、あの男はお前しか見なくなる。だから。」

  サンダウンは眉を顰めた。
  ディオが彼の所有物になるより前から、彼はサンダウンを追っていた。
  彼がサンダウンの事だけを考えるのもサンダウンが彼を求めるのも、それは憎しみ達が彼の手中
 収にまるよりずっと前からの事。
  ならば、二人の関係を、新参者である彼らにとやかく言われる筋合いはない。
  むしろサンダウンのほうが、彼が自分以外の憎しみを受け止めている事に腹を立てているのに。

 「でも、我々はお前を愛している。」
 
 不意に厳かな口調で彼らは告げる。

 「お前は私の仲間だから。」
 「お前は俺と同じ、憎しみに彩られているから。」
 「お前は、我々以上に深い魔王の色をしているから。」

  でも、それ以上に。

 「あの男が、お前の事を求めているから。」

  欲しい、欲しい、欲しい。
  彼は、お前の事を、何よりも求めている。

 「俺は、彼に従う。」
 「我々は、お前の味方だ。」
 「ああ、だって、だって、あの男は我々を受け入れた唯一の人間だから。」
 「お前は、我々の持つ憎しみを全て、腹の底で抱えているから。」
 「そんな二人が、何よりも互いを求めているから。」

  だから、我らに示しておくれ。
  勇者や英雄だけが、幸せな結末を迎えるのではないという事を。
  魔王が、決して不幸ではないという事を。

  ぱきり、とサンダウンが足を前に踏み出した。
  その瞬間、何処か遠い世界にいるのかと思うくらいサンダウンに気付いていない男の気配が凝集
 する。
  それと同時に、水のせせらぎが小さくなる。
  それはまるで、結界が消えるよう。

  ああ、お前が此処で逃げ出すようなら、ずっと我らは彼を覆い尽くすつもりだった。
  覆い尽くし、お前の気配に気づかぬようにするつもりだった。
  でもお前は逃げなかった、逃げなかった。
  彼はお前を求めている。
  お前も彼を求めていた!
  ならば、どんな結末であれそれは幸いだ!

  憎しみ達が翻る。
  翻った憎しみが指し示すのは、一つしかない。
  だって、それらは表裏一体なのだから。

 「キッド………?」

  ようやく聞く事の叶ったその声に、微かな歓喜が含まれている事に気付かぬほど、サンダウンは
 愚かではない。
  遠ざかりつつある魔王の声を、最後まで消し尽くす為に、サンダウンは脱ぎ散らかされた衣類を
 せせらぎの奥へと投げ込んだ。