真っ黒い宇宙を丸ごと飲み込んだような眼が、眼前で大きく見開かれた。それを覗きこんだ時に
 唇に感じた感触は、想像していたよりもずっと柔らかかった。
  ふに、と音がしそうだ、と思った瞬間、それを打ち砕くように軽いけれども鋭い音が耳を切り裂
 いた。同時に眼の前が白くなり、柔らかい感触が離れていく。
  一拍置いてから頬がじんわりと熱くなって、それからじんじんと痛みを覚え始めたので、どうや
 ら引っ叩かれたのだと気が付いた。
  引っ叩かれた勢いで、顔が横を向いたので、視界からはマッドが消えて、代わりに味気ない先程
 まで向き合っていた岩壁が映り込む。自分の突発的な行動に――そこに至るまでの諸々の感情も含
 め――サンダウンは再び、その岩壁に頭を打ちつけたくなった。頭を打ちつけて死んでしまいたい。
  なにせ、自分を引っ叩いたマッドには何の落ち度もないのだ。
  むしろ、これが普通の反応だ。いきなり賞金首に、しかも男に口付けられたなら、誰だってこれ
 くらいの事はするんじゃないだろうか。いっそ、拳でなかったのが不思議なくらいだ。マッドの温
 情が咄嗟に働いて、平手打ちになったのか。
  ひりひりと痛む頬を抱えて壁を見つめていると、たった今サンダウンに唇を奪われたばかりのマ
 ッドが吠えた。

 「何すんだ、てめぇは!」

  何と言われても困る。サンダウンにはマッドに口付けをしたという結果しか残されていないのだ
 から。だが、マッドが知りたいのはそんな事ではないだろう。

   「いきなり何て事しやがるんだ!何考えてやがるんだ!いっつも何考えてるか分からねぇ癖に、更
  に輪を掛けて何考えてるのか分からねぇような事するんじゃねぇ!それとも何か、嫌がらせか、
  これは!」
 「…………違う。」

    いや待て、何故此処で嫌がらせなんて方向に話を持って行くのだ。
  男に口付けされて気持ち悪いと怒るのは分かった。その次に思うのは男に惚れられて気持ち悪い
 とかではないのか。何故嫌がらせなんて言葉が出てくるのか。それとも自分がおかしいのか。
  嫌がらせだ!と吠えているマッドを見て、サンダウンはその方向に思考回路を向かわせているマ
 ッドを怪訝に思う。マッドはもしかして、昔、嫌がらせで男に口付けでもされた事があるのだろう
 か。だから、そう思うのか。
  それとも、嫌がらせだと思うのが普通で、やはりサンダウンがおかしいのか。サンダウンも、マ
 ッドに関しては随分と色眼鏡を掛けているから、惚れた腫れたの話に持って行こうとするのかもし
 れない。
  そこまで思って、おや、とサンダウンは首を傾げた。
  しかし、サンダウンが考えるよりも先に、マッドが吠える。

 「じゃあ何だ!嫌がらせじゃなかったら何だってんだ!言っとくけどな、こんな嫌がらせであんた
  を諦めるような俺じゃねぇぞ!」

    きゃんきゃんと吠えるマッドは、吠える割には逃げる気配がない。というか、むしろ逃げない宣
 言をしている。そして何でだ!と吠え続けている。
  マッドが逃げないのは不幸中の幸いと言うべきだろうか。しかし、マッドの『何故』に答えよう
 ものならば、きっと間違いなく今度こそマッドは引くだろう。今は気持ち悪いと思うよりも怒りの 
 ほうが勝っているようだが、あの夢の内容を聞いたなら、絶対にマッドは逃げる。
  だが、マッドは吠え続けている。

    「嫌がらせじゃなかったら、何だ、てめぇまさか俺に惚れてるとでも言うつもりかよ!」

  ようやくそこに辿り着いたのか。
  随分と遠回りしたような気分になったサンダウンは、再びおや、と首を傾げた。それは先程もサ
 ンダウンが気が付いた事であったのだが。
  果たして、自分はマッドに惚れているのか。
  あんな夢を見たのは偶々だとして。見た事もないマッドの表情や服の下に覆われた白い肌まで想
 像してしまったのだとしても、あの夢は偶然であったとして。けれどもその後の一連の流れ――マ
 ッドを見る度にその夢を思い出し、挙句の果てにマッドから漂う匂いと同じ匂いを嗅いで欲情して
 しまったのは言い逃れが出来ない。
  けれども、それは欲情であって、惚れた腫れたとはまた別物だ。サンダウンはそう思っている。
 先程の泣きそうな顔にだって、欲情した。だから突発的に口付けたのだ。だからこれは惚れている
 だとかそんなものではない。
  つまり、もっと最低なものだ。
  惚れているのならば、まだ情状酌量の余地はあっただろう。だが、単に欲情したから口付けた、
 では何の憐憫もない。好きだから襲ったというのも褒められた話ではないが、欲望の捌け口として
 襲ったがもっと最低であるように、同じ理由でマッドに口付けたサンダウンは、やはり最低だ。マ
 ッドも、そう思うだろう。
  もしもサンダウンが正直に、単に欲情しただけである事を話せば、マッドは確実にサンダウンか
 ら距離を置く。もしくは軽蔑の眼差しで見るか。
  それが嫌だから、夢の話もずっと黙っていたのに。
  マッドがサンダウンっから距離を置く事は、サンダウンにとっては良い事だ。けれどもサンダウ
 ンはそれを嫌だと思ったから、黙りこんでいたのに。今や、サンダウンは自分で自分の首を絞めて
 いる。それもこれも、抑えきれない自分の欲望の所為だ。
  がっくりと落ち込んだサンダウンの後ろで、マッドはしかし勝手に一人で落ち込み始むサンダウ
 ンを許さない。

 「おい、キッド!てめぇ何を一人で落ち込んでんだ!落ち込むのは、この場合は普通、俺のほうじ
  ゃねぇのか!」

  確かにその通りである。
  しかし先程から、マッドは男に口付けされたにも拘わらず、あまり落ち込んでいるように見えな
 いのだが。

   「……お前は、気持ち悪くないのか。」
 「ああ?あ!やっぱりてめぇ嫌がらせだったんだろ!」
 「違う………。」

  だから何故、話をそちらに戻す。

 「じゃあ、何だよ。俺に惚れてるってでも言うのかよ。」
 「……それも違う。」
 「だったら何なんだ、てめぇは!」
 「…………………………………。」

  岩壁に視線を固定したまま、サンダウンはしばらく黙り、小さく答えた。

 「言うつもりはない。」
 「んだと!」
 「言ったら、お前は気持ち悪いとか言うに決まっている。」
 「はあ!?宙ぶらりんの今の状態のほうが気持ち悪ぃぜ!大体、俺が気持ち悪いとか思ったら、ど
  うだってんだよ!」
 「………お前は、何処かに行ってしまうだろう。」

  今はそうやってサンダウンの傍で吠えているが、よもやサンダウンがマッドに欲望しか持ってい
 ないだなんて思ったら、マッドは何処かに行ってしまうに違いない。だからサンダウンは口を閉ざ
 すのだ。
  それっきり黙り込んだサンダウンの背後で、マッドは何か思案するような表情を浮かべた。

 「なあ、キッド。」
 「……なんだ。私はこれ以上何か言うつもりはない。」
 「あんた、俺に惚れてんの?」
 「違う。」
 「……で、俺には何処にも行って欲しくない、と。」

  キッド、とマッドが夢の中のように甘い声で囁く。
  損得勘定があるような仲ではない。むしろ、賞金首と賞金稼ぎ。一緒にいれば損にしかならない
 のに、何処かに行ってしまうのを恐れるなど。

 「あんた、それは普通、惚れてるって言うもんだぜ?」