視界に薄い靄がかかっている。
  白いような蒼いような黄色いようなピンクのような。
  なんとも不可思議な色のそれは、温かくも無ければ冷たくもなく、そしてそれら以外に眼に入る
 ものはない。延々と何処までも続く靄の世界に、だからこれが夢の中なのだと、サンダウンはぼん
 やりと理解した。
  何もない夢というのを別段嘆くつもりはない。眼が覚めても、ただただ広がり続ける空と砂の大
 地しかない世界があるだけだ。それなら、夢の中に何も存在しなくとも、現実と特に大差はないか
 らだ。
  しかし、そう思ってふと腕の中に何かがいる事に気付く。
  自分以外には何も存在しない、靄だけの世界だと思っていたのに。サンダウンは首を傾げながら、
 妙に大切そうに抱えているそれを見下ろした。自分の胸に顔を押し付けるようにしているそれは、
 サンダウンの眼からは黒い頭しか見えない。時折もぞもぞと動くそれは、しばらくしてサンダウン
 の視線に気付いたのか、ゆっくりと顔を上げた。
  サンダウンを見上げたその顔を見て、サンダウンはぎょっとした。それはサンダウンも良く知っ
 ている賞金稼ぎの顔だったからだ。いや、それだけならば別に驚きはしない。ただ、その顔がサン
 ダウンが今まで見た事のない顔をしていたのだ。
  黒い眼は潤んで、形の良い唇はいつもよりも赤く濡れて、時折小さな喘ぎを零している。それに、
 よくよく見れば腕の中にいる賞金稼ぎは、その身に何一つとして纏っていない。そして白い身体に
 は、あちこちに赤い痕が残っている。
  見れば自分も全裸だ。全裸で、賞金稼ぎと抱き合っている。
  唖然としているサンダウンの前で、腕の中に抱いた賞金稼ぎが吐息混じりに、聞いた事もない甘
 い声で、サンダウンの名前を呼んだ。
  そこで、サンダウンは眼を覚ました。




    胡蝶の夢





  がばりと弾かれたように身を起こした。
  そして、まるでたった今、何事か罪を犯したかのように、慌てて周囲を見渡す。
  素早く視界を巡らせた周囲は、そろそろ東の空が赤く滲んでいるものの、今だ濃い紺色に包まれ
 ており、夜が明け切るにはまだ時間が掛かりそうな気配を示していた。その、ひんやりとした気配
 の中に混じるものといえば、草木の揺れる音と自分の愛馬の気配だけである。愛馬が小さく身じろ
 ぎした方向を見やり、他に何もいない事を――特に神出鬼没の賞金稼ぎが間違ってもいたりしない
 事を確認して、サンダウンは背にしていた岩場に再び身体を預けた。
  恐ろしい夢を見た。
  神出鬼没の賞金稼ぎマッド・ドッグがこの腕の中で喘いでいるなんて。
  そんな夢をみた自分が恐ろしく、何故そんな夢を見たのかが分からないから、余計に恐ろしい。
 人間は自分が理解できないものに恐怖を抱くと言うが、正にその通りだ。さっき見たばかりの夢ほ
 どサンダウンの理解の範疇を超えたものはなく、だからこそ恐ろしい。
  マッドという賞金稼ぎを恐ろしいと思った事はない。自分をしつこく追いかけてくる賞金稼ぎで
 はあるが、何せ自分よりも弱いのだ。恐れたりする必要もない。
  だが、同時にマッドをそういう対象として見た事も、ない。
  よりにもよって、自分の命を狙う賞金稼ぎに、何故欲情せねばならないのか。大体、マッドは確
 かに眼鼻立ちは荒野の男とは思えないほど整っているが、何処からどう見ても男だ。決して中性的
 な顔立ちをしているわけでもなければ、小柄というわけでもない。むしろ顔立ちは男性的に整って
 いるし、身長もサンダウンほどではないがかなりの長身だ。
  そんな彼に、何故、欲情せねばならないのか。
  サンダウンは、マッドを抱き締めて明らかに性行為をしていたと思われる夢を見た己に、げんな
 りとする。自分はそんなに、切羽詰まっていただろうか、と。
  確かに此処最近、女を抱いたりといった行為はしていない。賞金首として追われる生活である以
 上、悠長に女を抱いている暇などごく限られているというのが現状だ。だからといって、性欲を持
 て余すような年齢でもない。まして、それて自慰行為をせねばならないほど切羽詰まった事も一度
 もないのだ。 
  いや、仮にそこまで切羽詰まっていたとして、それで性的な夢を見たとしても、相手が何故マッ
 ドなのか。
  むろん、マッドに欲情を覚える人間がいたとしても、おかしくはない。此処は荒野。女の絶対数
 は少ないから、男同士で慰め合うといった話も良く聞く。その対象としてマッドを選ぶ人間もいる
 だろう。何せマッドは容姿は整っている。マッドを組み敷きたいという輩は大勢いる事だろう。
  だが、生憎と、サンダウンにその手の趣味はない。
  どんなに女が枯渇していようと、男に手を出そうだなんて思った事は一度もない。保安官時代、
 長期間ならず者を追いかけて町に戻れぬ事もあったし、それよりもずっと前、南北戦争に従軍した
 時は、それこそ周囲でそういった行為があったけれども、サンダウンはそれに関わる事はしなかっ
 た。もちろん、夢にだって見た事はない。若い頃の自慰行為だって、女を想像する事はあっても、
 男を想像して行うなんて事は一度もない。
  紛れもなくサンダウンは、そういった性的な事にはノーマルだ。
  幾らマッドが見かけ整っていたとしても、サンダウンはマッドに手を出したいなんて思いもしな
 い。
  そもそも、マッドは賞金稼ぎだ。自分の命を狙う輩の一人だ。罠を仕掛けるでもなく妙に決闘に
 拘っている、ちょっとばかり毛色の違う賞金稼ぎだが、それ以上でもそれ以下でもない。
  大体、確かにマッドは容姿は良い。すらりと伸びた身長も、何処か優美な仕草も、そして白く整
 った顔立ちも、まるで何処かの貴族のようだ。
  だがそれは、マッドが口を開くまでの幻想だ。一度マッドが口を開いたなら、その口からはガト
 リング砲のように言葉の波が襲いかかって来るのだ。しかもそのほとんどが罵詈雑言だという。ま
 あ、罵詈雑言はサンダウンに対してだけかもしれないが、だが、マッドの言葉遣いは決して褒めら
 れた類のものではない。発音一つ一つは、まるでそれだけで音楽なのではないかと思うほど滑らか
 で正確なのに、言葉一つ一つは粗野そのものだから、聞いているほうは聴覚が混乱する。一体、そ
 の口調がどうやってその言葉遣いを覚えたのか、知りたくなるほどだ。
  ただ、言っている事は、間違っていない。怒り狂っているように見えて、その発言自体は至極正
 当であったりする。それに、言葉遣いは乱暴であっても、マッドは何処か面倒見が良い。ぶつぶつ
 と文句を言いながらも、結局はお節介を焼くのだから何とも人の良い事だと思う。大体、賞金首で
 ある自分なんかと、女に頼まれたくらいで共闘するなんて大概だ。
  それに、理不尽に暴れまわったりしない事も知っている。
  賞金稼ぎなんて職業は、その実、ならず者と紙一重である事が多い。だが、マッドはその手の連
 中とはまるで違う。賞金稼ぎという仕事を嵩に着る事はまるでなく、自分の嗅覚に従って賞金首を
 撃ち取っていく。マッドが一般人に手を上げたという話は聞かないし、例えそんな話があったとし
 ても、相手の根性がどうしようもなく腐っていたのだろうな、と思う。
  が、それらはマッドに欲情を覚える理由にはならない。
  男なんて物は即物的で、どれだけ性格が良かろうと不細工な女には欲情しないし、まるで悪魔の
 ような女でも見てくれさえ良ければ勃起するのだ。
  マッドは性格は悪くないし、それに見てくれも良いけれども、けれども男が欲情する女の身体を
 していない。男なのだから当り前だ。
  見栄えは悪くないのだから、女受けは良いだろうと思う。男受けもするだろうと思う。黒い髪は
 艶やかで日差しを浴びた時など銀の宝冠を戴いているかのようで、同じように黒い眼は夜空のよう
 に果てしなく澄み切っている。そしてそこに灯る光は強烈だ。生を謳歌する魂とは、きっとあんな
 ふうに輝いている。
  銃を扱う手は、銃を扱うには相応しくない繊細さで、まるで白い百合が花開いているようにも見
 える。それでも傷が多いのは知っているが、野生の百合とはそんなものだろう。
  そう、マッドは整えられているが、決して飼い馴らされてはいない。
  どれだけ細身に見えても、マッドの身体は荒々しく動くし、小奇麗な優男だと思っていれば、痛
 い眼を見る。あの身体には、しっかりと筋肉がついているのだ。見た事はないけれど。
  と、思って先程の夢の中で見たマッドの白い身体がちらついて、サンダウンは慌てて首を振って
 それを振り払う。
  待て、そもそもマッドの肌など、見た事がない。なのにどうしてマッドの裸体を想像出来たのか。
 サンダウンは自分の夢に落ち込みながらも、あの服の上から大体の骨格は分かると自分を慰める。
 マッドの身体は細身だが、そのしなやかな動きから筋肉が綺麗についているのは分かるではないか、
 と。
  ただし、マッドの身体は、決して鍛え上げられたものではない。そういうと語弊があるかもしれ
 ない。要するに、無理やり作られた筋肉ではないのだ。
  サンダウンとて保安官時代はそれなりに身体を鍛えてきた。長時間の捕縛に耐える為、ならず者
 との格闘の為。勿論、マッドも同じように鍛えているのだろうが、マッドの場合、必要な部分のみ
 に筋肉を付けているような気がする。不要な筋肉は削ぎ落した。まるで、野生の獣のように。
  そう、マッドは野生の獣に、花に似ている。
  その無駄のない身体も、峻烈に生を謳歌する生き方も。
  そこまで思って、サンダウンは再び、ずん、と落ち込んだ。
  どうして自分はこんなにもマッドの事を知っているのか、と。確かに長い付き合いだが、上辺だ
 けの付き合いで、そんな事細かに見えるものだろうか。サンダウンは、マッドの睫毛が長い事も、
 拗ねるとそれを隠そうとしても実は唇を少し尖らせている事も知っているのだ。
  そんなに見ているとなると、それはまるで。
  最後まで考える事は止めて、サンダウンは落ち込んだままでいる事にした。