マッドは、さっきから幾つもの扉を開いては閉じる動作を繰り返していた。

  石作りの床に、木製で鉄の錠の付いた扉。それらだけが闇の中でぼんやりと淡く光輝き、それら
 を照らし出すのは頭上高くで煌めく満天の星だ。壁もない中、ただただ扉だけが自分の周りを囲む
 ように配置されたその場所は、生命の気配に欠けていた。
  到底、現実味のないその世界に、マッドは眉根を顰め、自分がどうしてこんな所にいるのかを考
 える。火の玉気質だと言われるマッドは、周囲の人間がそう嘯くほどに、理性を欠く人間ではない。
 むしろ、西部一の賞金稼ぎという玉座に座る彼は、人一倍聡明だ。だから、この奇妙な世界に落と
 されても、喚き立てる事なく、自分が此処に来る直前の行動を思い返していた。
  確か、自分は、真夜中の荒野のど真ん中で、爆ぜる薪を見ながらうつらうつらしていたはず。愛
 馬であるディオが背後で身じろぎするのを感じながら、揺れる炎に睡魔を重ね合わせていた。
  それを思い出したマッドは、急激に自分を取り戻したような気分になった。此処に来る以前の自
 分を思い出せたのなら、此処が何処かもすぐに分かる。

  これは、睡魔が見せる、一時の夢だ。




  夢十夜






  夢の中にいる自分を取り囲む扉は八つ。一見したところ、どれも変わり映えせず同じに見える。
 しかし不思議な事に、マッドが手を触れると、それは鮮やかに変化した。
  何か意味があるのかと、闇の中にぬっと突っ立っている扉の一つを、ドアノブに手を掛けて開こ
 うとした瞬間、眼の前にある扉は草色に変化したのだ。見た目の風合いも、青い草を束ねて作り上
 げたような扉へと変わったそれを、マッドはぽかんとして見ていたが、同時に酷く愉快な気分にな
 った。
  もしもこれが現実に起こった出来事ならば、賞金稼ぎである彼の本能が激しい警鐘を鳴らしただ
 ろうが、これは夢の中の出来事だ。警戒する必要もない。
  マッドはくすくすと笑いながら、子供の秘密基地のような扉を開く。

  草色の扉を開いた瞬間、むわっと漂ってきたのは、扉の色から連想される草いきれだった。青臭
 い匂いに、マッドが顔を顰めていると、耳慣れぬ鳴き声が鼓膜を叩く。その声につられて周囲を見
 渡せば、そこに広がっているのは背の高い、そして見た事もないくらい太い幹を持った木々の群れ
 だった。
  長い間そこに佇立していた事を窺わせる幹には、びっしりと苔が生え、その苔でさえマッドの膝
 まで埋まってしまいそうなくらい分厚く重なっている。光が所々で幾何学的な文様を落とす程度の
 薄暗い中で、もう一度、ぎゃーぎゃーという鳴き声が響き渡る。
  鳥だろうか。
  そう思って天を仰ごうとすれば、そこにあるのはやはり分厚い青影だった。何重にも折り重なる
 木々の枝とそこから広がる木の葉で、蒼穹は覆い尽くされ、太陽の光が木の葉の隙間から星のよう
 に瞬いている。
  マッドが知るどの森よりも、深く、古い。人が踏み入れる事は命取りではないのかと思うほど、
 先の見えないその場所で、微かに人為的な音が聞こえた。太鼓のような音が震えているそちらを見
 ると、半裸の背の低い男達が、イノシシのような動物を枝に吊るして何人がかりで運んでいる。
  その様子は、アメリカ先住民族のようにも見えなくもなかったが、彼らよりもずっと古い香りが
 した。
  その姿がやがて森の奥に消え去るのを待って、マッドは草色の扉を閉じた。

  不思議な事に、閉じた扉は元の通りの木製のそっけないものに戻り、そして二度と変化せず、何
 度ドアノブを回しても開かなかった。
  不思議だ、と言っても夢の中の事だ。マッドは夢の中の事に理屈をつけるのは無意味だと諦め、
 別の扉に手を伸ばした。
  草色の扉の真逆に位置するその扉は、触れた瞬間に金属質で、しかもドアノブの見当たらない壁
 に変わった。

  一見壁に見えるそれは、しかしマッドが手を翳しただけで、何処かから空気が抜けるような音と
 共に左右に開かれた。まるで魔法のようなそれにマッドが眼を丸くする暇もなく、その眼に飛び込
 んできたのは、先程の光を覆った暗さとはまた別の、夜に近い暗さだった。そしてそこに漂う静寂
 も、森の中の静けさではなく、金属の塊の中にいるような、耳が鳴るような静けさだ。
  無機質な空間の中で、両面のやはり無機質な壁は、非常に規則正しい感覚で、赤や青の光を点滅
 している。その光の配置さえ、無秩序ではなく、何らかの模様を描くように規則性があった。それ
 らの規則性が、余計に無機質な空間を煽っている。
  しかし、マッドはそんな無機質な空間に顔を顰めるよりも、金属質の壁に囲まれた部屋の真正面
 で展開される世界に釘づけになっていた。
  大きな――硝子張りなのだろうか――窓の外では、無数の星が競い合うように輝いている。扉を
 開く前の場所も満天の星空だったが、それを遥かに超える星の量。しかも、月よりも大きな惑星が
 間近に迫っている。
  巨大な輪を持つ土星の横を通り過ぎ、小石のような星屑の中を突き進む。時折、星の中から不思
 議な淡い光が発せられては消えていく。
  望遠鏡でも見た事のない世界に、マッドは子供のように口を開いたまま見入っていた。
  やがて、窓の外が徐々に暗くなり、最後は壁に点滅する光だけが残る。規則正しく点滅する光を
 一瞥して、マッドはその扉を閉めた。

  閉じた扉は、やはりもとの木の扉に戻り、二度と開かなかった。
  そこでマッドはその扉の二つ隣の扉を開く。触れた瞬間、それはほとんど変化しなかったように
 見えた。だが、妙にのっぺりとしたそれに触れると、木目のように見えたものが、木目特有の凸凹
 した感じがなく、妙につるつるとしている事が分かる。
  まるで絵のような木目を持つ扉を、マッドはドアノブを回して開いた。

  開いた瞬間、マッドは頭痛に襲われたような気分になった。
  一気に視界に流れ込んできたのは、激しく展開する光の渦。ただし、先程の星のような光ではな
 く、ひたすらにけばけばしく、眼に痛い光だ。そしてその下にいる、人、人、人。
  何かの祭りか、と思うほどの人の数に、マッドは今度こそ開いた口が塞がらない。一体何処から
 湧いて出たんだと呆れるくらいの人からは、むわっと様々な匂いが沸き立って、しかもそれと同時
 に熱気が流れ込んでくる。
  しかも、先程までと違って、そこに静寂はない。
  黄色い声と言って差し支えのない、人間の甲高い声と、そして一体何処に発生源があるんだと思
 うほどの耳を劈くような音。
  如何に銃声を聞きなれたマッドと雖も、これほどの無秩序な音の洪水には耐えられない。しかも
 音の音域が、高い音から低い音までありすぎて、何処に落ち着いたら良いのか分からない。
  のたうち回る光の洪水と、その下で激しい熱気を渦巻いている人間。そしてその隙間を泳ぎ回る
 音楽。
  顔を顰めたり、呆れたり、何らかの感想を述べる暇さえ与えられないその光景に、マッドは慌て
 て開いた扉を閉じた。

  再び静かになった耳の中に安堵して、マッドはひとまずその扉が二度と開かない事を確認する。
 他の扉と同じように、開かない扉に、ほっと溜め息を吐く。
  そして気を取り直し、その隣にある扉に手を触れた。
  触れた瞬間、それは金属質の扉と同じように、軽い空気の抜ける音と共に左右に開かれる。ただ
 し、扉は金属ではなく、透明なガラスだった。

  下に妙な金属のタイルの敷かれた硝子の扉が開いたそこには、先程と同じように無数の人間がい
 た。ただし、彼らは足早に何処かに立ち去っていく。
  周囲には、古い森のように背の高い――しかし形は基本的には長方形――建物が立ち並び、そこ
 からは眩しいほどの光が零れている。光の色も、オレンジや黄色だけではなく、ピンク、青、緑、
 紫と様々だ。その光の中で、巨大な人間が踊っている。遠くに視界を転じれば、赤い三角錐が見え、
 それもやはり光っている。その頂点では、白とも黄色ともつかぬ光が点滅していた。 
  しかし、やはり、先程のように踊り狂ったような感じはない。行き交う人々からも、激しい熱気
 は感じられない。
  喧騒があるのは間違いない。ただし、そこには踊り狂うような様子はなく、何かの漣のように、
 誰にも受け止められる事なく消えていくような、酷く矮小なものだった。
  一人で何か早口で喋っている人間が大勢いる。けれど、それらは周囲にいる人間の誰にも関係な
 い出来事のようだ。
  奇妙、というよりも、何処か物悲しい風景だ。
  人間の量は、マッドの知る世界よりも遥かに多く、光の量も星のそれよりも身近にあるというの
 に、そこに温かみがない。
  それはマッドが知らない世界だからだろうか。
  妙にうすら寒い気分になって、マッドは扉を閉じた。

  木の扉に戻ったそこから少し離れて、マッドは少し遠い位置にある扉を選ぶ。なんとなく肌に合
 わない空気を浴びて、それらの扉から身を離したくなったのかもしれない。
  そう思って触れた扉は、見る間に鮮やかな紅色と、金で縁取られた、派手な物へと変化した。蛇
 のような竜が二匹飛んでいるその模様に、少し気分が上向きになり、マッドはわくわくしながら扉
 を開く。

  扉を開いた瞬間、マッドはひゅっと息を呑んだ。
  足の先には進むべき道はなく、そこは切り立った崖だった。その下には濃く白い霧が漂い、その
 奥に微かに深緑の色が見える。
  霧特有の、湿っぽく冷たい空気が喉に入ってくるのを感じながら、マッドは自分の周りが崖で出
 来ているような山々で囲まれている事に気が付いた。
  鳥でさえ飛ぶ事を躊躇うような、高山。
  アメリカ西部にも、確かに人を寄せ付けぬような山はあったが、しかしこれほどまでに、まるで
 人から身を隠すように佇む山というのはなかった。
  ここにあるのは、身を深緑で覆いながらも霧で秘密を隠す夢幻のような山々だ。
  けれど、それでも何処かで生命の気配がする。遠く遠くした方で、何かの鳴き声がした。鳥か、
 獣か。そしてそれの名前をマッドは知らない。
  けれども、何処かで水の流れる音がして、木々が生い茂っている以上、間違いなく生命が蠢いて
 いるのだろう。
  ぼんやりと霧に覆われた山々を見ていると、次第に霧が晴れ始めた。雲のように深かったそれら
 が風に流されて、ようやく露わになった眼下は、ぎょっとするほど深い青の湖水が溜まっていた。
 切り立った山に囲まれたそこは、守られているが故に青以外の色を知らないのだと言わんばかりに、
 碧い。
  まるで、天国の青のようだ。
  ぶるりと身震いし、マッドは扉を閉めた。

  再びもとの場所に戻ってきたマッドは、紅色の扉から木製の扉に戻ったばかりの扉の、すぐ横に
 ある扉に手を触れる。
  ふわりと、古い紙の匂いと共に変化したそれは、薄い紙が小さな幾つもの木の枠に貼りつけられ
 たものに変化した。今にも倒れてしまいそうなそれを、どうやって開けたら良いのかと思っている
 と、それはごく自然に横にスライドした。

  続いている道は、荒野にある小さな町のように、土を踏み固めただけのものだった。ただし、荒
 野のように埃っぽくはなく、むしろ何処か湿気を感じる。
  どこかに水の気があるのだろうかと思っていると、土の道のすぐ横に、石で補強した水路があっ
 た。赤い橋の掛かっている水路の脇には、涼しげに柳が立ち並んでいる。
  何処かで聞いた、異国のようだと思っていると、その異国の佇まいをした人間が、何人か行き交
 っている。彼らのうち何人かが腰に帯びている長い物を見て、そういえば、あれは刀とかっていう
 んだっけ、と商人だったか誰だったかに聞いた言葉を思い出していた。
  カランコロンと不思議な音を立てて歩く、それだけで美術品になりそうな服を着ている女を横目
 で見ていると、その女が歩いてきたほうの通りで、女以上に色とりどりの何かがくるくると回って
 いる事に気が付いた。
  小さな風車のようなそれが、小さな小屋のような――もしかして露店か――ものの前で、幾つも
 風を受けて回っているのだ。赤や水色といった鮮やかなそれらは、止まればやはり美術品のような
 色合いで染め抜かれている。
  しばらくそれに見入っていると、何処からか卵の焼けるような匂いが漂ってきた。
  そう言えば腹が減ったな、と思いながら、マッドは扉を閉じた。

  何となく空腹感を覚えつつ、それでもまだ二つ扉が残っていると思い、マッドは一番最初に開い
 た扉の隣の扉に手を触れる。
  しかし、そこは触れても一向に姿を変えなかった。
  代わりに、妙に、ねっとりと冷たい空気が扉の隙間から零れてきた。

  開いた瞬間、その空気はいっそう濃くなった。
  身体に纏わりつくような冷気は、そのまま死臭に転じる。
  しかし、とマッドは周囲を見渡した。石作りの道と、その両脇に立ち並ぶ質素な家々。それらは
 御伽噺に出てくるような――まだ、皇帝や教皇が、力を持っていた時代の家々に酷似していた。だ
 が、その中からは全く生命の気配が感じられない。いや、それどころか死臭がしそうな、遺骸すら
 転がっていないのだ。
  にも拘らず、感じられる、圧倒的な腐敗の気配。
  黒死病で死に絶えた町、と言われても頷く事のできるその佇まいに、マッドが顔を顰めたその時、
 やけに薄暗い家並みの間から、カツンカツンと硬質な足音が聞こえてきた。その音は、高く響いて
 いるが、同時に這い回るような気配も孕んでいる。
  一瞬身構えたマッドの前に、それは、くすんだ空気を割るように――それともそれ自体がくすん
 でいるのか――現れた。
  死んだ獣の毛皮のようにぼさぼさの金髪。澄んだ青のようも見えるし、濁った赤のようにも見え
 る、判然としない瞳の色。薄汚れた簡素な甲冑に身を包んだ姿から想像するに、傭兵か、民兵か。
 まだ幼さの残る青年の姿は、だがそこから立ち昇る気配の希薄さから、得体の知れなさを感じる。
  マッドは、じりじりと近付く青年から一定の距離を保ちながら、青年の顔色を読み取ろうとする。

 「…………ストレイボウ?」

  青年から発せられた声は、やはりあどけなさの残る冒頓としたものだった。
  しかしマッドは、青年のその声よりも、青年の手と共に自分に差し出された言葉に眉根を寄せる。

 「ストレイボウ、戻ってきて、くれたんだね。」

  ゆっくりと手を伸ばす青年の眼は、やはりその色は判然としない。だが、焦点はしっかりとマッ
 ドに合わさっている。

 「私はもう、長い事、君を待った。百年か、二百年か、良く分からない。それでも、君を待ってい
  たんだ。」

  そして君は現れた。
  紛れもなく、私の前に。
  そう告げて、ゆるゆると伸ばされる腕に、マッドは咄嗟に後退った。そしてゆっくりと首を横に
 振る。

 「悪いが、俺は、ストレイボウって人間じゃねぇよ。」
 「いいや、君はストレイボウだ。私が、君の魂を、間違えるわけがないだろう?」

  まるで確実性を帯びた声は、己の言葉が誤りでない事を信じて疑わぬようだった。だが、その声
 音にマッドは身震いする。

 「どれだけ時間が経っても、どれだけ離れていても、私が君を間違えるわけがないし、君が私から
  離れられるわけがないんだ。例え、全てが終わっても。」

  それは閨での睦言のように甘く、しかし呪詛のようにおぞましく、蜘蛛の糸のように身体に纏わ
 りついた。
  青年は、本気で、それらの祝詞を口ずさんでいる。判然としていない瞳が、マッドだけを明確に
 追いかけている事から、それは火を見るよりも明らかだ。

 「俺は、俺だ。」

  マッドは、その視線を両断するように、きっぱりと言い放つ。
  魂の色が何色であろうとも、マッドはマッドの生きたいように生きてきた。それはこれからもそ
 うであって、マッドが進むべき道は、決してこの青年の待ち人になる道ではない。
  今にも縋りつきそうな手が自分の身体に触れるよりも先に、マッドはその身を翻す。

 「一緒にいるって、言ったじゃないか!」

  追い縋る青年の声と一緒に、あの、生々しくも冷たい気配がマッドに追い縋る。しかし、そんな
 約束など誰ともした事がないマッドは、喉から出てきた手のようなそれらを振り払うように、直ぐ
 後ろにあった扉に飛び込み、すぐさま閉じる。

  ――だが、

 「また、私を裏切るのか、君は?!」

  扉を閉じたにも拘わらず、青年の声は追いかけてくる。それに続いて、激しく扉を打ちつける音
 が。二度と開かないはずの扉が、無理やり捻じ曲げられ、開かれようとしている。
  マッドは周囲を見回し、逃げられる場所を探すが、暗闇と扉と、満天の星空しかないその場所に
 は身を隠す場所さえない。その間にも、捻じ曲げられた扉の奥から、少年の指が、腕が、ねっとり
 と溢れ出てこようとしている。
  どろりどろりと床に広がる青年の影は、正に侵食と言っても過言ではない。その侵食から逃げ場
 を失ったマッドが、じりじりと後退っていると、ふとその眼に、まだ開いていない最後の扉が映っ
 た。
  しかし、それを開いたところで安全なのだろうか。
  逡巡するマッドは、だが、青年の何色かも分からない瞳が、床の中に大きく開いた瞬間、躊躇い
 を打ち消した。
  激しく波打って自分の背を追いかける眼差しが、背中を焼き尽くすような熱を込めたと同時に、
 マッドの手は最後の扉のドアノブに触れる。
  その扉は、先程と同様に、ほとんど変化を見せなかった。だが、代わりに同じように空気が零れ
 落ちてくる。
  どこか懐かしい、乾いた風が。
  それを感じた瞬間、マッドは勢いよく扉を開いた。

  開いたそこには、砂色の髪と空色の眼が広がっていた。
  きょとんとしてその顔を見て、マッドは、ぎゃっと叫ぶ。思いもかけず至近距離にあった賞金首
 の顔に、賞金稼ぎは心理的に百歩ほど後退った。が、今度は逃げ出したくても背後に扉さえない。
  その事に気が付いて、マッドは自分が夢から覚めた事を知る。
  変な夢だった。
  そのほとんどは記憶から失われているが、しかし、変な夢だった事は覚えている。はあ、と溜め
 息を吐けば、眼の前にいる賞金首が、大丈夫か、と声を掛けてきた。その言葉にマッドは眉を顰め
 た。
  というか、なんでこの男が此処にいる。
  思って睨めば、肩越しに焚き火を背負った男はびくともせず、あろう事かマッドの頬を自分の手
 で包んだ。

 「何考えてんだ、てめぇ………。」

  意味不明な賞金首の行動に、マッドが苦り切った声を出せば、やはり賞金首は腹正しいほどに顔
 色一つ変えない。その代わりに、脈絡のない言葉を落とす。

 「……疲れているのか?」
 「誰かさんが、さっさと捕まってくれねぇからな。」

  男が、こうして脈絡のない言葉を零すのは日常茶飯事だ。それに慣れているマッドは、その言葉
 に意味がある言葉を返す。

 「………良く眠っていたな。まだ、眠るか?」
 「あんたが、見張りでもしてくれるってのか。」
 「…………。」

  沈黙は肯定だった。
  頬を包み込んていたかさついた手が、ゆっくりと離れてマッドの身体を支える。時折、こうして
 マッドに情を傾ける賞金首の意図は、マッドには分からない。まさかこれでマッドが追いかけるの
 を諦めるとでも思っているわけでもないだろう。では、何故か。
  眠りの残滓が散らばる頭で考えて、疑問を投げかけるように男を見上げれば、男の静かな瞳とぶ
 つかる。その瞳に籠る光は判然としない。その光に、マッドはふっと何かに似ていると思った。た
 った今、見たばかりの、何かに似ている。
  だが、それが何だったのかを思い出す前に、マッドは柔らかい温もりと心地良い疲れに包み込ま




  くたり、と身を任せる賞金稼ぎの身体を抱きかかえながら、サンダウンは闇の中を睨みつける。
 先程まで騒がしかったマッドの愛馬は今は落ち着いており、それの気配が遠ざかった事を知らせて
 いる。
  だが、サンダウンの中では、怒りとも苛立ちともつかぬ感情が燻っていた。
  以前、自分が塵に返したはずの、憎しみで彩られた青年の影が、未だに何処かにちらついている
 ような気がしてならない。そしてその青年は、まだ、諦めていないはずだ。
  無防備に眠るマッドの中に侵入して、自分のもとへ引き寄せようとした青年は、今も何処かでそ
 の機会を窺っている。
   何もかもを叩き潰してしまった者には、再生の道は与えられない。再生の道を示す導さえ、彼は
 自分の手で壊してしまったのだから。
  にも拘らず、この男が欲しいと言う。
  そんな身勝手を、サンダウンは許す事が出来ない。それはマッドの為ではなく、サンダウンの為
 に、だ。何もかもを叩き潰した青年の行く末が、魔王だったというのなら、それはサンダウンも同
 じ事。そうならない為に、サンダウンはマッドをこうして抱き締めている。
  駄目だ、とサンダウンは何処かにいる、自分と同じ色をした魔王に告げた。
  これは、自分のものだ、と。
  この男は、サンダウンの為の魂であって、お前の勇者ではないのだ、と。
  もしもそれでも欲しがるのなら、サンダウンはもう一度、青年を打ち砕くだろう。今度は、魂の
 欠片さえ残らぬほどに、完膚無きまでに。それほどまでに、サンダウンにとってマッドは紛れもな
 く勇者だった。自分を、人間として、殺す為の。



  静かに熱を放つ身体を抱えて、サンダウンは闇の中を見据えた。