円らな真っ黒な、まさに夜空を呑み込んだかのような瞳がサンダウンを見上げた。
  些かの邪気もなく、屈託一つないその眼差しは、無垢と言っていい。
  つるりと濡れた瞳とは、また異なる色合いの黒の毛並みが、荒野の乾いた風にそよいだ。
  細やかなそれは、触れれば指が埋まってしまいそうなほど、柔らかな風合いを出している。
  思わず手を伸ばすと、彼は抵抗する事なくサンダウンの掌を額に受け入れた。
  むしろ、擦りつけさえする彼に、眼を細める。

 「マッド………。」

  名を呼ぶと、彼は尻尾を千切れんばかりに振って、その小さな体をサンダウンの脚にぶつけてき
 た。




 Lovely Dog





  荒野に自生する珍しくもない低木の茂みの下に、何か黒い物体が乱雑に放り出されているのが見
 えた。時には人間が行き倒れる事がある荒野では、人工的なゴミを見かける事は多くはないが珍し
 くもない。
  だが、ゴミというわりには投げ出されたそれは、酷く真新しいものだった。
  分厚い、しかしすっきりと洒落たジャケットは、ゴミと言ってしまえば言いすぎた感がある。
  しかし、身ぐるみ剥がされた者の物とも思えなくもない。
  かといって、それを拾い上げるほどサンダウンは浅ましい人間でもなかった。
  気取ったその服に、一瞬誰かを思い出さなかったわけではないが、無言で一瞥した後、何事もな
 いような表情で馬を走らせ、通り過ぎようとした。
  その、通り過ぎようとした瞬間。

  もこ。

    乾いた砂に被せられていたジャケットが、もぞもぞと動いた。
  風に煽られたとか、そんな動きではない。中に何かが入っていて、それがもこもこと動いている
 のだ。
  思わず馬の歩みを止めて見ていると、出口を探しているかのようにジャケットのあちこちを突い
 ているもぞもぞは、ようやくジャケットの隅に辿りつき、そこから這い出して来る。

  まずは先端だけが白い手が。
  次に黒い鼻先が。
  ふるふると何かを払い落すように首を振り、大きな眼をぱちぱちとさせて、通りがかったサンダ
 ウンを見上げる。
  ほんの少し先が垂れた黒い耳と、頼りない小さい尻尾。
  犬だ。
  黒い、子犬だ。
  誰かに捨てられたのか、迷ってこんな所まできてしまったのか。
  荒野には似つかわしくない愛くるしい姿は、首を傾げて珍しそうに馬とサンダウンを見つめる。
  馬から降りてその小さな身体を掴み上げたのは、純粋すぎる眼差しに絆されただけではない。
 真っ黒な毛並みに良く映える首に巻かれた赤いスカーフと、その小さな頭からずり落ちた黒の帽子
 に、なんだか見覚えがあった。
  いやしかし、そんなはずは。
  胸に去来した馬鹿げた妄想を、サンダウンは打ち払う。
  赤いスカーフなど別に珍しくもないし、ジャケットだって金さえ払えば誰にでも手に入るような
 ものだ。帽子だって別に、あの男だけが持っているものではない。
  そう思いつつ、子犬が先程までもぞもぞとしていたジャケットを拾い上げる。そこから、ごろん
 と無造作に転がり出てきた黒光りする物体に、サンダウンは呆気にとられた。
  バントライン。
  所々に引っかき傷のようなものが残るそれには、見間違いがないくらいに見覚えがある。何故な
 らば、何度も銃弾によって弾き飛ばされたて出来たその傷をつけたのは、他でもないサンダウン自
 身だからだ。
  バントラインを眼にした子犬は、尻尾を振ってじゃれつこうとしている。
  なんだか色々なものが思いもよらないくらい合致した。
  ぐわんぐわんと頭痛がしそうな状況に、それでもサンダウンは一縷の望みを懸けて名前を呼んだ。

 「マッド…………。」

  すると、バントラインにじゃれついていた子犬はサンダウンを振り返った。

 「きゃん!」

  甲高い子犬の声が、青い空に吸い込まれていく。
  最後の望みが潰えた瞬間であり、一番最初の想像が現実と確定した瞬間でもあった。




  だが、確かにおかしい話ではない。
  安宿の小さな部屋で、サンダウンは思った。
  眼の前では黒い子犬がベッドの中央を占領して眠っている。
  サンダウンの帽子やらポンチョにじゃれついて遊んで疲れて眠る姿は、愛くるしい以外の何物で
 もない。
  それが、あの西部一の賞金稼ぎの座にいるマッド・ドッグだと、一体誰が信じるだろうか。
  正直、サンダウンも信じる事は出来ないが、その場に転がる物的証拠がこの無邪気な生物がマッ
 ドである事を示している。そしてそれが決して起こり得ない事ではない事を、サンダウンは知って
 しまっているのだ。
  クレイジー・バンチの首魁であったO.ディオが実は馬であったように、マッドの正体が子犬であ
 っても、信じられない話でも有り得ない事ではない。
  だが分からないのが、この子犬が人間になった理由だ。
  そして再び犬に戻った理由も。
  サンダウンは決して聖人君子ではない。
  恨みの一つや二つ―――いや一つや二つではすまない―――買っている。
  もしかしたら、その恨みが凝ってこの子犬を人間としたのかもしれないが、では何故今になって
 子犬の姿に戻ったのか。   分からない。

  安っぽい作りのベッドに腰掛けて考えていると、腰のあたりに何かが当たった。
  見ると、黒い子犬が眼を覚まして身体をぶつけている。
  上目遣いでサンダウンを見る仕草が、いじらしい。

 「マッド。」
 
  名を呼ぶと尻尾を振って身体を擦り寄せてくる。
  その様子にサンダウンは溜め息を吐く。
  子犬は出来る限りサンダウンの側にいようとする。サンダウンが子犬を置いて何処かに行こうと
 すると、よちよちと歩いてついてくる。サンダウンが相手にしなかったり、別のほうを向いていた
 りすると、怒っているのか気を惹こうとしているのか身体をぶつけて吠える。そのくせ、他人が可
 愛いと言って頭を撫でてくる事は拒まない。
  まるでサンダウンを試しているかのように、そういう時は名前を呼んでも尻尾一つ振らないのだ。
 その様子は、人間だった頃と同じで。
  だが。

 「その姿でそれは、反則だと思わないのか。」

  解け掛けたスカーフを結び直してやりながら呟くと、子犬は不思議そうに首を傾げる。
  何を言っているんだ、と声が聞こえてきそうだ。
  無自覚なのか、お前のそれは、人間だった頃から。
  ふわふわとした頭を撫でてやると、もっとと言うように頭を擦りつける。
  基本的に人間と子犬で行動は変わらないが、この姿のほうが素直だ。
  頭や頬、首周りを撫でてやっていると、気持ち良くなってきたのか子犬の瞼が再び下がり始める。
 まだミルクが必要なくらい幼い彼は、人肌が心地良いのだろう、サンダウンの身体に凭れてうとう
 としている。
  ふわふわの毛に包まれた身体を抱え上げ、自身もベッドに横たわると、子犬はベッドの上とサン
 ダウンの腕の間で無意識に居心地の良い場所を探してもぞもぞする。
  柔らかい毛と耳と尻尾がサンダウンの首やらあちこちを掠めてくすぐったいのだが、子犬はそん
 な事一切気にしていない。
  時折耳をぱたぱたさせてサンダウンの肌をくすぐるのも、サンダウンにとっては恨めしい事この
 上ないのだが、無意識にやっている事だ。
  しかも、それをやっているのは人間ではなくて子犬なのだ。
  人間だったなら、間違いなく口にする事も憚られるような事をしてくれてやるのだが。
  が、残念な事に腕の中で丸くなっているのは愛くるしい子犬だ。
  何一つ手出しする事が出来ない。




  そんな、もんもんとした夜を何度も迎えながら、サンダウンはそれでも子犬を抱え込んで寝てい
 た。
  愛くるしい姿は放っておくと誰に盗まれるか分からないし、荒野で野宿する時には何処に野生の
 獣が潜んでいるのか分からない。ハゲワシに攫われる事も有り得るし、狼に引き摺り回される事だ
 って起こり得る。
  それを防ぐために、サンダウンは子犬を腕の中に匿う事にしている。
  そんなサンダウンの心配など一向に気付かないのか、子犬は今日も野営地でサンダウンのポンチ
 ョにじゃれていた。帽子の中に入ったり、そこに身体を収めてそのまま歩いてみたりと、何かと忙
 しそうだ。
  ミルクをたっぷりと飲んで、そろそろ眠くなるはずなのだが、眠気を押して遊んでいるらしく、
 時折ぼーっとして船を漕ぎ、はっとしてまた遊び始める。

 「マッド。」

  ポンチョの上でころころしている子犬を呼ぶと、彼は少し眠そうな眼でサンダウンを振り返る。
 先端だけがちょっと垂れ下がった耳から、小さい尻尾までのラインが、例えようもなく愛らしい。
 眠いのならば寝れば良いのに、と耳元を擽ると、眠気を促進されたのか、瞼を閉じてしまった。
  無防備すぎる仕草に、今更ながら苦笑する。

 「その姿も素直で可愛いんだが………。」

  ポンチョの上で夢の世界に入ろうとしている子犬の耳に囁く。
  夢の世界と、鋭敏な犬の耳のどちらが勝るのか。
  柔らかい身体を抱え上げながら、呟いた言葉は届いたのか。

 「そろそろ、お前の声が聞きたいんだ…………。」

  人間の姿になるつもりはないのか、と。
  腕に抱え上げている間に人の姿になっても良い、と。
  どう考えても血迷った事を思いつつ、サンダウンも浅い眠りにつく準備を始める。
  腕の中で、子犬が身じろぎするのを肌で感じながら、周囲に気を配り、身体を休めるだけの獣の
 眠りに入った。




  どれだけ時間が経っただろうか。
  浅い眠りの中を割るように、遠くから気配が近づいてくる。何の奇も衒わず、一直線に向かって
 くるそれは、サンダウンは良く知っている。
  そして、おかしいな、と思った。
  腕の中に確かに小さな温もりがあるのに、なのに、彼は遠くから近付いてくる。
  吐息さえ感じるほど近付いた気配に、サンダウンは眼を開いた。
  するとそこには、思った通りの黒い眼差しがあった。
  夜を切り取ったような眼は、子犬と変わらない。

 「マッド………戻ったのか。」

  いやこの場合は人間になったと言うべきか。
  そんな事を思っていると、マッドが怪訝な顔をした。

 「何の話をしてるんだ、てめぇは。」
 「いや…………。」

  手を伸ばして、ここ最近ずっとしていたように耳から頬にかけてを擽る。

 「もっと傍に寄れ。」

  どうして腕の中から抜け出ているんだ、と呟いて引き寄せようとすると、マッドの怪訝な表情の
 中で眉間に皺が寄った。
  おや、と思うのと、もう片方の手の中に小さい塊がある事に気付いたのは同時だった。
  しかしそれよりも早く、マッドが地を這うようなおどろおどろしい声を吐いている。

 「おいおっさん、てめぇ一体誰を俺と勘違いしてやがるんだ。」

  不吉なほど真っ黒い影――マッドの愛馬であるディオの影だ――を背負って、ただならぬ気配を
 醸し出しているマッドは、眠れる野鳥でさえ驚いて飛び立つほど殺気立っている。
  その気配は、サンダウンの腕の中で眠っている子犬も呼び醒ました。

 「きゅ?」

  可愛い声と共に眼を覚ました子犬は、サンダウンの腹の上で寝ぼけたようにあちこちを見回して
 いる。
  マッドが二人――うち一人は犬なので正確には一匹なのだが――いる。
  こういう状況を両手に花と言うのか、などと頭の沸いた事を考えていると、マッドがサンダウン
 の腕の中から子犬を奪い去った。

 「こんな所にいたのか、チビ!」

  マッドに抱え上げられた子犬は、寝起きでぽーっとしていたようだが、状況を理解すると尻尾を
 ぱたぱたと振り始めた。
  自分自身に逢えたのがそんなに嬉しいか。
  まだ現実を把握していないサンダウンに、マッドの冷たい眼差しが飛んできた。

 「ってか、なんでチビをてめぇが持ってやがるんだ。てめぇは人様の犬を盗んだのか。」
 「…………お前は自分がハゲワシに攫われたり狼に食われたりしても良いのか。」
 「なんで俺がハゲワシに攫われたりするんだ。」
 「こんなに小さいんだから攫われるのは当然だろう。」

  言葉と共に、マッドの手から子犬を奪い返す。
  その瞬間、マッドの眉間の皺がいっそう深くなった。
  それはマッドが不幸な事に、サンダウンが何を考えているのか分かった瞬間でもある。
  米神に青筋を立てた男は、今度こそ気配を殺気に変えた。
  それでも辛うじて理性を繋ごうと言葉を吐くあたり、マッドも大概人が良い。

 「おい、キッド………てめぇ、遂におかしくなったのかよ…………。」
 「何がだ。」
 「俺とその子犬を同一視してる時点でおかしいだろうが!」

  俺は犬になった覚えは一度もねぇ。
  吠えた狂犬の、その台詞を理解――というか受け入れるのに、サンダウンは心臓が三拍ほど脈打
 つ時間を要した。




 「…………何故、こんな紛らわしい事をしたんだ。」

  マッドに帽子とジャケットとバントラインを返しながら、サンダウンは愚痴るように呟いた。そ
 れでも子犬はしっかりと抱いて放さない。
  その様子を冷たく見ながら、マッドはバントラインに弾を込める。

 「そのスカーフを巻いてりゃ、俺の犬だと思って誰も手出ししねぇだろうが。ジャケットを被せて
  たのは、そうしてりゃあちこちうろつかねぇから。そん時はディオが勝手に何処かに行こうとし
  てたからな。バントラインはそいつがじゃれて遊んでたから放っておいたんだよ。」
 「銃で遊ばせるのは危ないと思わなかったのか。」
 「だから弾抜いてただろうが。」

  俺としちゃ、まさか犬を俺だと思う人間がいる事のほうが、考えつかねぇよ。
  弾を込め終えて、マッドはサンダウンに向き直る。

 「その犬はな、とある賞金首の犬だったんだ。そいつを撃ち殺した時に手に入れたんだ。上流階級
  では結構人気の犬でさ、だからそいつらに売り払おうと思ってたんだが………。」

  まさかてめぇの手に渡ってるとは思わなかった。
  じろりと睨んでから、マッドはサンダウンに手を差し出す。
  その手に首を傾げていると、マッドは苛立ったような声を出した。

 「返せよ、そのチビ。」
 「嫌だ。」
 「は?」

 「お前は何処の馬の骨とも知れない男に自分を売り払われたいのか。」
 「いやまだ男と決まったわけじゃねぇから。ってか、あんたまだ俺とその犬を同一視してんのか。」
 「高額で買われたからといって、可愛がってもらえるとは限らんだろう。」

  まだ混乱しつつもそれでも正論を吐くサンダウンに、マッドはむっとする。

 「じゃあ何か、あんたが飼うってのか。言っとくけどな、あんたみたいな根なし草に飼われるのも
  大概不幸だと思うぜ。」
 「お前の一人や二人くらい養える。」
 「だから俺は別にあんたに養って貰いたくねぇから。いい加減、犬と俺を混同すんの止めろ。」

  マッドはサンダウンの手から子犬を奪おうとするが、サンダウンは犬を高く掲げてマッドの手が
 届かないようにしている。
  微妙な身長の差が、ここにきて勝敗を決した。
  子犬はといえば、尻尾をふりふりして何だか楽しそうだ。

 「マッドは私と一緒にいたがっている。」
 「人の名前を勝手につけてんじゃねぇ。」
 「お前も少しは見習って素直になったらどうだ。」
 「頭蓋骨かち割って、脳味噌があるか確認していいか、なあ?」

  子犬を奪い合う賞金首と賞金稼ぎの遣り取りは、こうしてしばらく続いた。




  結局、妥協案としてサンダウンが子犬を買い取り、買い取られた子犬はサクセズ・タウンの少年
 に飼われる事になったのである。
  子犬の名前が結局何になったのか、それはサクセズ・タウンの住人だけが知っている。