「何やってんだ、こんなとこで。」

  低く、けれども澄んで届いた声に、高い塀を見つめていたマリアははっとしたようだ。振り返っ
 た顔には、はっきりと驚愕の表情が浮かんでいる。
  その顔を見て、マッドは葉巻を唇から離し、小さく笑った。

 「勝手な真似をするなって、言わなかったか。それとも邪魔をする者は容赦なく撃ち落すっていう
  てめぇの心情に従って、撃ち落とせねぇ奴は無視するってのを選んだのか?」

  突然現れたマッドに、マリアは狼狽えたようだったが、すぐにいつもの澄ました静かな顔を取り
 繕った。一度歪められた表情は、取り戻せないと分かっているはずなのだが、彼女はそうするしか
 ないのだろう。
  マリアのどうしようもない臆病性を嗤い、マッドは高い塀を見た。

 「で、この塀の向こう側に、何を見たんだ、お前は?」

  はっきり言っておく。
  この兵の向こう側には、何もない。
  マリアが求めてやまない、憎い復讐の相手は、こんな場所にはいない。
  どうやら、キースのいる場所が自分には手の届かない、そう、例えばこの塀の向こう側に見える
 上流貴族の居住地のような場所だと見当をつけて、塀の前に立っているのだろう。そして、キース
 が出てくるのを待つつもりだろうか。
  だとしたら、愚かすぎる。
  キースが、そんな簡単に、自分を憎んでいる女の前に姿を現すだろうか。確かに、小説の中では
 そんなふうに復讐者が相手を見つけるのかもしれない。だが、生憎とこの世は現実で、そんなに上
 手く物事は進まないのだ。
  そもそも、上流階級の人間が、しかも過去に酷い憎しみを背負った人間が、無防備に一人でやっ
 て来るとでも思うのだろうか。もしも彼らが居住地から出てくる時は、自分が何処の輩か分からぬ
 ように馬車の窓を天鵞絨のカーテンで覆って、護衛を雇ってやって来るだろう。
  その時、一人で対峙するマリアに勝ち目があるわけがないのだ。
  もしも、マリアが狩りを主導できるほどの力があったなら、キースとの対峙は可能であったかも
 しれない。
  だが、マリアは孤高を気取った事で、その手段を失ってしまっている。

 「なんで、レティシアは、お前なんかと一緒にいるのかね。」

  マッドは独り言のように、けれどもマリアに聞こえるように言った。
  明らかに銃の取り扱いに慣れていない、それどころか賞金稼ぎと荒野を放浪するのにはまるで慣
 れていない、中年の女。
  若さを見せようと足掻くレティシアは、マッドの眼から見れば滑稽だ。
  まるで、過去の残像に縋りついて生きているかのような。
  思って、マッドは喉の奥で、マリアとレティシアを混ぜ込んで嗤った。そういえば、結局のとこ
 ろマリアもレティシアも同じ種類の人間だ、と。マリアは復讐心に凝り固まって、とどのつまり過
 去の男を忘れられていない。
  そして自分の若さを捨てられないレティシアも、同じく過去に縛られた人間だ。

 「……レティシアは、私に同情してくれているんだ。レティシアの恋人だった保安官が、結局キー
  スを捕まえられなかったから。」
 「騎兵隊の抗争を止めたっていう保安官の事か。」

     マッドが、レティシアの恋人と思しき人物について、初めて聞いたかのような声で呟けば、マリ
 アは強く頷いた。

 「そうだ。腕の良い保安官だった。だが、キースだけは捕まえられなかった。そしてキースを捕ま
  えないまま、街を去った。レティシアも置き去りにして。」

  知っている。
  マッドは勿論、その情報を知っている。西部一の賞金稼ぎは、そんな情報も漏らさずに得る。そ
 れが仕事だ。

 「捨てられたのか。」

  揶揄するように告げれば、マリアの眼がじろりとマッドを睨んだ。だが、彼女もそれを思ってい
 たのか、どうだかな、と小さく答えただけだった。

    「私に言えるのは、ただ、保安官はキースを捕えなかった。それをレティシアは憐れんだという事
  だけだ。」

  勿論、その憐みが何処まで憐れみであるのか、それはマリアにもマッドにも分からない。レティ
 シアの中には、何処かに行ってしまった保安官が、キースを捕えなかった事を悔いて同じくキース
 を追いかけているという思いがあるのかもしれない。そして、もしかしたら、保安官は密かにキー
 スを追っているのではないかと。だから、キースを追っていればいつか保安官にも会えるのではな
 いか、と。
  そんな、ロマンチックな事を考えているのかもしれない。想像して楽しんで、有り得ないと思い
 つつも、自分の上には奇跡が降りかかるのだと信じて、願っているのかもしれない。
  滑稽だと思う。
  闇夜で、月に向かって爪を伸ばすような行為だ。
  それを憐れめば良いのか、それとも嗤えば良いのか、マッドには分からない。だから結局、マッ
 ドは嗤うだけだった。
  それは、マリアに対しても同じだ。

    「念の為に言っておくけど、その塀の向こうにキースはいねぇぜ。」

     憐れな女に向かって、マッドは慈悲を施すように言った。
  壁を睨むマリアは、ぴくりとも動かない。その顔に向けて、マッドはゆっくりと穏やかに聞こえ
 る声で囁いた。

 「キースがいるのはまた別の場所だ。こんなあからさまな場所にはいねぇさ。」
 「ならば、何処にいる。」 

  硬い声は、まるで鉛玉が話しているようだった。それはまさに、マリアの人生そのものを表して
 いるようだった。何もかもを削ぎ取って、けれども重苦しく生きてきて、最後には疎まれる鉛のよ
 うだった。
  そして、恐ろしい事にマリアは、自分の成してきた事が何一つとして分からないのだ。

 「マリア。お前は此処に来るまでに、一体何人を邪魔だといって振り払って、銃を向けてきた?」

  聞く者が聞けば、マッドの声に酷く深い感情の渦が逆巻いている事が分かっただろう。けれども
 何も知らないマリアの耳には、それは届かなかった。
  どういう事か、と言わんばかりに片眉を上げた女に、マッドは浅い笑みを湛えた状態で、同じ口
 調で質問を替えた。

 「言い替えてやるよ。せめて、宿からこの塀に来るまでに、一体何人の人間とすれ違って、そいつ
  らの何人がお前に絡んで、そしてそいつらの何人に銃を向けたか、と聞いてるんだ。」
 「そんな事……。」

  覚えていない。
  マリアはそう言った。

   「振り払った火の粉の数など、いちいち数えるものか?相手にした下衆の為に記憶を使うのも愚か
  だ。お前もそうだろう?」 

  マッドに同意を求めるマリアに、マッドは確かに、と笑んだまま頷いた。ただし、その笑みは底
 知れない。

 「確かに、そんな事覚えるなんて無駄な労力だよな。だがな、」

     途端に跳ね上がるマッドの腕。その手には黒光りするバントラインが握られている。
  そして、振り向きざまに二発。
  鋭い銃声の間に、倒れる二つの音がした。
  目を丸くするマリアに、マッドは顎をしゃくって、たった今マッドの背中を狙い、そしてマッド
 に撃ち抜かれた二人の男を指し示した。

 「自分の行動の何がどんな結果になるのかも分からねぇって言うのは、いただけねぇな。例え、自
  分がどうなろうがかまわねぇと思っているんだとしても、だ。」 

  くい、とマリアの顎を、銃を噴いたばかりのバントラインの銃口で持ち上げ、黒い眼でマリアを
 ひやりと見下ろした。  

 「まして、お前は今は俺に協力を仰いでいる身だろうが。少しは身の程を知るんだな。」

  未だ状況が飲み込めていないマリアに、マッドの声は完全に凍てついている。顔は笑っていても、
 だ。

 「お前の動きが、キースにばれたのさ。だから勝手な事をするんじゃねぇって言ったんだ。」

  身を翻してマリアから離れて、倒れた男二人の懐を弄っていたマッドは、何かに気が付いたのか
 ふと表情を消し、指先に当たった物を男のジャケットの隠しから取り出す。
  それは、酷く古風な、けれども確かに手紙だった。
  マッドは口角を持ち上げ、随分と芝居がかった事をする、と呟いて、見た目は古風だが、書かれ
 ている文字は酷く荒い手紙をマリアに見せた。

 「これが、てめぇのやった事に対する報いだ。」

    成金ぶった手紙に、けれども育ちが良く分かる汚らしい文字は、こう書かれていた。

 『レースの女は預かった』と。