乾いた風を身に纏った黒く背の高い寡黙な影に、マダムも主人も息を呑んだ。
  男にブッチとバットを撃ち殺すように頼んだのは、一月ほど前だったか。ブッチとバットがいい
 気になってつけ上がる切欠を与えた男。マッドを殺した男。そう詰って、沈黙を保つ男に、無理や
 り銃を持たせて追い払った。お前が全てを狂わせたのだからお前がどうにかしろと、ほとんど言い
 掛かりのような言葉を投げつけて。
  その男が、今、眼の前に立っている。

  マッドの話では、バットを殺したのはこの男だという。ならば、バットの首の分である500ドル
 は、確かにこの男のものだ。マッドに渡すはずだった500ドルを、そのまま手渡そうとして、振り
 払われる。音を立てて舞い散る紙幣に、マダムと主人ははっとする。その二人に対する男の声は短
 かった。

 「マッドは何処だ。」




  抜け出した売春宿の中から、何かが降り払われるような音が勢い良く響いた。背後で湧き起こっ
 たその音にマッドは一瞬びくりと肩を震わせたが、すぐに裏から表へ回り、停めていたディオの手
 綱を引く。その隣にサンダウンの愛馬が並んでいたが、マッドの愛馬がディオである事は、まだサ
 ンダウンに知られていないはずだ。それとも、ブッチとバットを殺したあの一瞬の邂逅で、そこま
 で知られてしまっただろうか。だが、そんな事を考えている余裕はない。
  ディオに跨った瞬間、背筋に噴き上げる鳥肌。あの男の気配が、違える事なくこちらに向かって
 くる。何故、と思う暇も与えられず、売春宿の扉が乱暴に開いた。それと同時に、マッドはディオ
 を走らせる。夕日が沈んだ直後の、うすぼんやりとした明るさの中、ディオの手綱を引き絞って一
 気に速度を上げようとした。
  マッドがディオの馬首を翻した瞬間、図らずとも、店から出てきたばかりの男と眼が合った。
  荒野の青空と同じ色をした眼は、確かに自分の姿を捉えている。
  引き千切るようにその視線を振り払い、マッドはディオを走らせる。
 その波打った手綱に銃撃が響いたのは、眼が合ってから一拍も経っていないだろう。
 撃ち抜かれた手綱とその音に、ディオが後脚で立ち上がり短く嘶く。それでもマッドが振り落とさ
 れなかったのは、何度も手綱を撃たれて振り落とされた経験からくる賜物か。千切れて短くなった
 手綱と、ディオの黒の鬣に指を絡めてしがみ付き、今にも暴れ出しそうなディオを無理やり宥めて
 走らせる。
  突然の銃声で騒然となった街並みを、どう考えても町中を走る速度ではない速さで馬を走らせ、
 サンダウンを引き剥がした。
  が、賑やかな町を背にし、風と砂のさざめく音だけが耳に入ってから、背後で激しい馬蹄が地面
  を叩いている事に気付く。
  土煙を噴き上げて迫る馬蹄に、マッドは慌ててディオの脚を速めさせる。馬蹄が背負っているの
 は、他ならぬサンダウンの気配だ。
  サンダウンが何を思って自分を追いかけているのかは分からない。しかし、夕闇がひたひたと空
 を覆い始めた中、荒野を必死で追いかける程の事ではないはずだ。死者の顔を確かめるだけの事に
 しては、サンダウンの気配は必死さを伴っている。

  あの野郎………なんてしつこいんだ!

  サンダウンに対する己の所業を棚に上げ、マッドは腹の底で悪態をついた。
  さっぱり引き離されようとしないサンダウンは、無言であるが故に、言い知れぬ不気味さを余計
 に醸し出している。自分に追いかけられているサンダウンもこんな気分だったのかと思いながら、
 追われる人間の気持ちが分かってるんならやるんじゃねぇと、もはや現状の解決には何ら役に立た
 ぬ事を考え始める。

  そもそもマッドは追いかける事に慣れてはいても、追われる事には慣れてはいない。それでも相
 手が適当にあしらえる相手ならばなんとかなったのだろうが、今背後に迫っているのはよりによっ
 て西部一の賞金首であるサンダウンだ。しかも、だだっ広い見渡す限りの荒野には、背丈の低い草
 木とタンブル・ウィードと砂ばかりがあるだけで、隠れる事が出来そうな場所は何処にもない。
  町を出ずに売春宿の中の何処かに逃げ込めば良かったかとも考えたが、それはそれで限界がある
 だろう。
  結局、後悔しようにも後悔する箇所もなく、かと言って現状を打開する策もない。思考回路は堂
 々巡りを繰り返すばかりで、背後で喚き立てる蹄の音が消える気配は微塵も感じられない。むしろ、
 サンダウンの気配がいっそう物騒なものに変化し始めている。

  そんな考え事をしながら馬を疾走させていた事が仇になった。手綱捌きを誤ったのか、ディオが
 何かに躓いたのか、唐突にディオの体勢が崩れた。
  普段ならばすぐにでも立て直せただろうが、撃ち抜かれた手綱は不安定で、マッドの対応も遅れ
 た。反応した時には、遅すぎる。手の中から手綱は滑り落ち、ついでにディオの鬣を数本引き抜い
 て、マッドの身体は地面に投げ出された。咄嗟に受け身の体勢は取ったが、それでも地面に叩きつ
 けられた瞬間、肺から空気が全部奪われた。
  背中の痛みと息苦しさに噎せて、そちらに意識が向いてしまう。そこを突く形で、大きな手に肩
 を掴まれた。その感触にはっと気付いて、身を捩って逃げようとするも、腕を取られて地面に押し
 付けられる。それでももがいていると、両腕を頭上高くで一纏めにされた。

 「…………マッド?」

  最後の抵抗で顔を背けていると、低い声で名を呼ばれた。それでも顔を逸らせていると、苛立っ
 たように顎に手を添えられ、無理やり眼を合わせられる。痛いぐらいに顔を前に向けさせられ、夕
 闇が濃いというのに相手の顔がはっきりと分かるくらいに近い所にあって、ぎょっとした。しかも、
 青い双眸には寒気がするほどの怒りが灯っている。

 「何故、逃げる………。」

  低く押し殺した声は、サンダウンの怒りを表すには十分だった。蒼褪めた炎のような怒りで貫か
 れて、マッドは思わず息を呑む。サンダウンの怒りの所在が分からないというのも、マッドに反応
 を躊躇わせる。尤も、マッドが思い浮かぶサンダウンの怒りの理由は、己が存在しているからだろ
 うというものだけだ。
  だから逃げようとしたのに。
  眼を伏せたマッドに、サンダウンが微かに苛立ったような素振りを見せた。

 「今更、諦めるつもりか………。」

  地を這う蛇でも、もっと可愛げのある声を出しただろう。
  そんなおどろおどろしい声で吐き出された台詞に、マッドはほんの少しうろたえた様な表情を見
 せた。
  この男は一体何の話をしているのだろう。それ以前に、怒りの矛先がどうもマッドが想定してい
 る事とは別の方向を向いているような気がしてならない。
  反応に困っているマッドに、サンダウンは苛立ちやら怒りが突き抜けてしまったのか、急に苦し
 げな表情を浮かべた。そして押さえ込んでいたマッドの両腕を解放すると、いきなりその肩を掴ん
 で引き寄せて抱き締めるという暴挙に出た。あまりの事にぽかんとするマッドの耳元で、男は低く
 苦く囁く。

 「………何か、話せ。」

  お前が、悪魔の囁きでも、夢が見せる幻でもないのなら。

 「キッド………?」

  男の腕の中でしかもその胸に顔を埋めているという意味不明な状態に、マッドは困惑した声でサ
 ンダウンを呼ぶ。すると、眼の前の男の怒りや苛立ちが、眼に見えて消え失せた。抱き締めている
 マッドの身体の線をゆっくりとなぞり、お前だ、と呟く。その台詞に、他に誰がいるんだと危うく
 突っ込みかけて、流石にそれは話がややこしくなると思い止める。代わりに、身を離そうとすると
 その両腕に阻まれた。

「………行くな。」

  囁きは恐ろしく真摯だった。身体に回された両腕も、震えるほどに強張っている。この男が、こ
 れほどまでに震える理由が――怯える理由が、マッドには分からない。

「お前の代わりが、いない。」



  今日、何人かに言われたものと同じ言葉がサンダウンの口から零れ落ちる。
  マダムからは叱咤するように、主人からは言い聞かせるように言われた台詞が、今、ありとあら
 ゆる不吉さを孕んでサンダウンから聞かされる。まるで、この世全ての闇がサンダウンの背後に犇
 き合っているようだ。

 「お前は簡単に、私に殺せと言うが…………。」

  ぎり、と歯噛みが耳元で聞こえた。その瞬間に閃いた怒りは、その理由も度合いもマッドの想定
 を越えていた。

 「お前のいない世界が、どれだけ辛いものか、分かるか!」

  光も色も、熱さえない世界が、どれほど苦しいか。しかも、手に掛けたのは自分だ。その瞬間、
 人である事が出来なくなるかと感じた。再び見つける事が出来た、奇跡に等しい姿は、けれどあっ
 さりと自分に背を向けて、それどころか逃げようとさえする。

  寡黙な男の怒りは、血の色をしていた。その色に呑まれているマッドに、サンダウンは有無を言
 わせずにその血を滴らせる。マッドはそれを呑み下すしかない。喜びに跳ね上がりそうな身体を抑
 え込むほどの恐怖が――嫌悪や侮蔑の眼差しへの恐怖が、ずるずるとサンダウンの前に否応なしに
 引き摺り出される。その時点で、もう死にそうだ。

 「何故、逃げた…………。」
 「だって、もう、決着は着けただろ?あんたの中では、俺は死んでるんだろ?」
 「だが、お前は生きているだろう。今更、諦めるつもりか。」
 「でも、あんたは、俺との事はもう終わってると考えてたんだろ?」
 「質問の答えになっていない…………。」
 「普通に考えてみろよ、俺は一度あんたに殺されてんだぜ?生きてるけど。けど、殺されたし墓場
  まで連れて行かれた。そんな、本来なら地獄にいる人間が出てきてみろよ、絶対に嫌だろ。」
 「…………嫌じゃない。」

  サンダウンはマッドの短い髪に指を差し込み、ゆっくりと撫でる。宥めるような手つきは、先程
 までの怒りや苛立ちが嘘のようだ。

 「言っただろう………お前がいなくて辛かったと。」

  生きている事を、その前に現れる事を躊躇う必要はないのだと囁かれ、マッドはすとんと肩の力
 を抜いた。ぼろり、と涙が零れ落ちなかったが不思議なくらいだ。怯えて縮こまっていた心の底が
 解け、押し込められていた皮膚が歓喜に震え始める。その砂色の髪が、空色の眼が、薫る紫煙が、
 ぞくりと全身に火を点けた。




  この手で切り捨てた命が、奇跡に近い所業で再び手元に戻ってきて、サンダウンは安堵した。
  生きているだけで幸いであるはずの男が、妙に戸惑い、本来持っているはずの命の色をくすませ
 ていたが、それも取り除かれた。ようやく本来の爆ぜるような灼熱に戻った身体を、それでもサン
 ダウンは放さない。
  取り戻した。だが、それが夢だったというのは、繰り返されてきた話。笑っていた彼が、実は夢
 の中の住人だったという苦い思い出は、数え切れない。
  ブッチとバットを撃ち殺した姿も、白昼夢だったという可能性も捨てきれない。荒野を駆け巡る
 魂が、気紛れに自分達に慈悲を下したのだと言われても、納得してしまう。
  先程までサンダウンの腕から抜け出そうとしていた身体は、無駄な抵抗と分かったのか今は大人
 しくしている。その身体を全身で囲って、サンダウンは夜明けを待つ。夜明けの瞬間に、消え去る
 のではないかという恐怖に怯えつつ。身じろぎする熱に身を寄せ、何処にも行かないようにと囁く。
 彼が、別の次元に行く事が、掛け値なしに恐ろしい。彼のいない世界を知らされたが故に、その恐
 怖はひとしおだ。

 「………キッド?」

  うとうとしていたのか、腕の中にいるマッドがぼんやりと声を上げる。その横顔に、一筋、赤い
 光が当たった。それにマッドが眩しそうに眼を閉じる。夜が明けたのだ。しばらくすると、眼が慣
 れたのかマッドも眼を開く。
  あと数日もすれば、ここ数週間騒がしかった荒野も落ち着くだろう。
  賞金稼ぎ達も、おかしな人選をする事もなくなるだろう。
  世界には、もう、色が戻り始めている。

  サンダウンは、消えない身体をもう一度腕の中に引き寄せた。