「………怒ってるのかい?」
 「怒ってねぇよ。」

  マダムの言葉に、マッドは酷く無造作に聞こえる声で答えた。

 「仕方なかったんだ。ブッチとバットに敵う相手なんて、あんた以外に思い浮かぶのはあの男ぐら
  いしかいなかったんだ。」
 「だから、怒ってねぇよ。」

  怒る気にもならない。
  それよりもそこまで思い至らなかった己が浅はかだったのだ。売春宿というのは基本的に無法者
 でさえ受け入れる場所だ。ならば、賞金首に何を依頼してもおかしくないではないか。その賞金首が、
 100ドルだろうが500ドルだろうが1000ドルだろうが、それこそ、5000ドルでもなんらおかしくない。
 まして、銃の腕だけを取るのならば、尚更。
  マダムと主人が、サンダウンに、ブッチとバットの討伐を依頼しても、おかしい事など何処にも
 ないのだ。





  マダムと主人の懺悔を聞いたマッドは、差し出された500ドルに手を出さなかった。マッドとして
 は、500ドル――マッドが撃ち取ったのはブッチだけだ――は、口止め料に使ったつもりだった。尤
 もマッドの存在はブッチとバットとのやり合いで知られるところとなったので、もはや全く意味の
 ないものだが、それでも自分で賞金はいらないと言った以上、受け取るべきではない。
  そんなマッドに、マダムと主人は顔を見合わせるばかりだ。噂は千里を走るというが、マッドが
 生きていたという話はあっと言う間に知れ渡り、それはマッド生存を知りながら黙っていた二人の
 耳にも届くものとなっていた。
  最初は何処から洩れたと慌てた二人だったが、マッドが自分から名乗り出たのだという事に安堵
 した。それは自分達が漏らしたのはないという事への安堵と、マッドが再び西部の賞金稼ぎとして
 働く事への安堵だったのだが。
  眼の前の男は、マダムと主人の安堵を余所に、酷く顔色が悪い。それはサンダウンにブッチとバ
 ットの討伐を依頼したという話を聞いてから、いっそう酷くなった。


 「当分、此処には、来ねえ。」

  蒼褪めたままそう呟いた男は、今にも倒れそうだ。

 「それとその賞金はやっぱりいらねぇ。その代わり、俺が今日此処に来た事は誰にも言うな。」
 「どうするんだい、これから?」
 「…………逃げる。」

  マッドの眼は酷く暗い。今、マッドの頭の中を駆け巡るのは、自分の姿をサンダウンに見せてし
 まった事への後悔だけだ。
  しかも、よりにもよって同じ仕事を引き受けた。ならば、再び、この店で出会ってしまう可能性
 だってあったし、これからもあるのだ。ブッチとバットを撃ち取った瞬間は萎んでいた恐怖が、再
 び頭を擡げてくるのを止められない。

 「北か東か………ほとぼりが冷めるまで、西部から遠ざかる。」
 「何言ってんだい!」

  マッドの言う『ほとぼり』が何なのか分からないマダムは、思わず叫んだ。

 「前も言っただろ!あんたがいなきゃ、またブッチとバットみたいな考えなしで目立ちたがり屋の
  馬鹿が出てくるんだよ!あんたがどれだけ嫌がったって、あんたは西部一の賞金稼ぎの座にいる
  んだ!」
 「お前の代わりだって、そう簡単には見つからないんだ。今回の事で我々も良く分かった。」

  主人も、ゆっくりと言い聞かせるように言う。

 「失ってみて初めて気付くって言うのは本当の事だな。お前が死んだという噂が流れて、ブッチと
  バットが好き放題やり始めて、それに追従する馬鹿が出てきて、そうなってからお前が奴らの暴
  走を止めてたんだと分かった。賞金稼ぎの中でお前ほどすば抜けて銃が上手い奴はいないし、そ
  れに、お前は賞金稼ぎ仲間から、結構好かれているんだ。そんな人間の代わりが、そんな簡単に
  見つかるわけがない。」
 「…………………。」

  だが、マッドは首を横に振る。頑是ない子供のように、しかし子供にはとても作る事の出来ない、
 何かに追い詰められたかのような表情で。

  誰に好かれていようと、どの賞金稼ぎよりも銃に秀でていようと、このまま平然ともとの立ち位
 置に戻る事は、マッドにはとても不可能な事に思えた。撃たれて大怪我をして復帰したとかならと
 もかく、墓場にまで送り込まれたのだ。本来ならば地獄で待っているはずの人間が、眼の前に現れ
 たら、感じるのは嫌悪以外にないだろう。これまでサンダウンに呆れた様な眼で見られた事はあっ
 ても、侮蔑や嫌悪の眼差しで見られる事はなかった。それが、一気に翻ったなら、きっと動けない。
  逃げ出したいのだ。
  あの男のいる、この乾いた空の下から。
  せめて、あの男が自分の気配を忘れるまで。
  はっと顔を上げる。ばさりと音を立てて立ち上がる。皮膚を突き刺すような感覚を、近づく気配
 が放っている。身震いして、泣きたくなるくらいに身体が嬉々とする。乾いた砂塵を纏った男が近
 づいてくる。

  マッドはジャケットを引っ掴むと、マダムと主人の間を擦りぬけて、店の裏口へと足を向けた。
 何が起こったのか分からないという表情を浮かべた二人には、何も言わない。どうせ心臓が数拍脈
 を打った後には分かる事だ。殊更気配を殺し、足音を殺し、裏口へと向かう。




  肌に馴染むほどよく知った気配が店に入ると同時に、店を抜け出した。