「へへへへ………きっどぉ……。」

  語尾にハートマークが付いていそうな甘えた声で自分に擦り寄り、あまつさえ頬やら鼻先やら、
 兎に角顔面の至る所に口付けを仕掛けてくるのは、日頃もはや病気なんじゃないかと思うくらい自
 分を追いかけてくる賞金稼ぎだ。
  ぎゅぅっと首にしがみ付いてくる男は、先程から舌足らずな口調で、きっどきっと、と自分の名
 を連呼している。
  それをどうする事も出来ずに、とりあえず身体を支えてやっているサンダウンは、自分の忍耐強
 さに驚きを通り越して呆れていた。
  それでもやはりしかめっ面にはなっていたらしく、その顔を覗き込んでいたマッドは、眉間に皺
 発見!と叫ぶとそこに口付けを落とし始めた。ちゅっちゅっと軽い音を立てるたびに、そこから酒
 の強い匂いがする。
  いや、むしろマッド全体が、何かに醸されたように酒臭い。




 Deep Kiss





  酒場の扉を開けてこれほど後悔した事は今までに一度もなかっただろう。
  その時の事を振り返り、サンダウンは後々までそう思った。
  日も暮れた頃に辿りついた小さな町の小さな酒場は、明りが点いているにも関わらず妙に静まり
 返り、確かにおかしいとは思ったのだが、しかし特にそれ以上考えずに扉を開いた。
  その瞬間に眼に飛び込んできたのは、子供がジュースを飲み干すように、こくこくとテキーラを
 それは嬉しそうに飲み干す黒い賞金稼ぎの姿だった。ぷはあ、と風呂上がりに牛乳を飲み干した時
 のような音を立てた後、彼は常日頃からは考えられないようなあどけない口調でマスターを呼ぶ。

 「ますたー!おかわりぃ!」

  既に舌足らずなマッドの周辺には、十を越える酒瓶が転がっている。それを見てとったサンダウ
 ンは、長年の経験からこれは厄介事の気配がすると存分に理解した。即ち、酒場で繰り広げられて
 いる光景に背を向け出ていった。
  いや、出ていこうとした。
  それが予定で終わったのは、サンダウンがマッドを見縊っていたからに他ならない。
  もはや無意味にサンダウンを追いかける事に特化しつつあるマッドは、酔っぱらって子供返りし
 ていても、サンダウンの気配に敏感だった。
  テキーラで満たされたグラスを両手で持ったまま、くるんとこちらを振り向いた。その視線が、
 ひしひしと背中に伝わってくる。いやそれでも酔っているから気配に反応しても、誰が誰だか分か
 らないかもしれない。
  だがそんな儚い願いは次の瞬間、あっさりと潰えた。

 「あ、きっど!」

  究極的に嬉しそうな声と共に、ぱたぱたと走り寄ってくる音がする。
  この時にサンダウンは振り返らずに酒場を出ていけば良かったのかもしれない。が、反射的に振
 り返った時にはもう遅い。
  眼の前には、満面の笑みを浮かべて両手を広げ、自分に向かってダイブしてくる西部一の賞金稼
 ぎの姿が広がっていた。

 「きっどぉ!つかまえたぞー!」

  サンダウンの胸に飛びこみ首に腕を回すマッドは、全体重をサンダウンにかけてくる。それを支
 える為にもマッドの身体を受け止めてしまえば、へへへと嬉しそうな声がマッドから上がる。その
 瞬間、サンダウンはマッドの言葉通り、自分が捕まった事を悟った。そしてマッドの肩越しに広が
 る酒場の風景が、自分達に注目している事にも。

 「きっど、きっど!」

  嬉しそうに頬を擦り寄せてくるマッドの姿に、酒場からの視線の幾つかが、見てはいけないもの
 を見てしまったかのようにさっと逸れた。うち何人かは、何故か頬を赤らめている。
  そんな視線になど全く気にしていないマッドは、西部一の賞金稼ぎの名を冠している姿からは想
 像もできないくらい、へにゃりとした笑みを浮かべて、ぐんにゃりとサンダウンに身を任せている。

 「なあ、きっど。さけ飲もうぜー、いっしょにー!」
 「………駄目だ。」

  己の状態に現実逃避したくなったサンダウンだったが、マッドからの申し出にとりあえず断りを入
 れる。というか、マッド自身にこれ以上アルコールを入れる事が、今何よりも危険だ。
  が、次の瞬間、サンダウンは自分の説明不足を後悔した。
  サンダウンに断られたマッドは、むぅっと口を尖らせ、

 「おれのさけがのめぇってのかー!そんなわがままいうと、こうしてやるんらからなー!」

  やや呂律の回らない言葉でサンダウンを脅し、

  ちゅっ。

  サンダウンの頬に口付けた。

  それを見た酒場の様子は、絶筆し難い。ぶっと酒を噴き出す音が方々で聞こえ、先程よりも大人
 数が視線を逸らす。多分マスターも含めほとんどの人間がこの場から逃げ出したいのであろうが、
 生憎とサンダウンとマッドが扉を塞いでいるのでそれも出来ない。
  困惑と混乱に、マッドが醸し出すピンク色のふわふわとした世界が配合され、妙な空間が錬成さ
 れている。そしてその原因であるマッド本人はというと、周囲の硬直っぷりなどお構いなしに、
 ちゅ、ちゅ、と可愛い音を立ててサンダウンに口付けを送り続けているのだ。

 「………止せ。」

  決闘だとか賞金首だとか血腥い理由とは全く異なる、変な形で注目を集める事になったサンダウ
 ンは、もはや諦観の域に達したのか、冷静にマッドの行動を抑え込んだ。言葉と実力行使――サン
 ダウンより背が低いマッドは伸び上がって口付けを送り続けるのでその肩を抑え込んだら良いのだ
 ――でマッドを止めると、マッドはやっぱり口を尖らせる。

 「なんだよー、せっかくキスしてるのにー!」
 「いらん。」

  やや硬い声で弾くと、マッドの表情にはっきりと傷ついたような色が浮かんだ。そして、

 「じゃあ、あっちのおっさんでいいや。」

  ころりとその表情を消すと、近くで酒を飲んでいた髭面のいかついおっさんに手を伸ばそうとす
 る。
  西部一の賞金稼ぎに口付けの相手として指名されたおっさんは、え、とたじろいだ後、頬を赤く
 染めるというその顔には似合わない乙女っぷりを披露した。
  が、転瞬、今度は西部一の賞金首の青い眼に冷たく射抜かれて、赤く染めた頬から血の気を引か
 せ、すごすごと引っ込む。

 「マッド。」

  こともあろう事か自分を差し置いてマッドの口付けを受けようとした男を撥ね飛ばし、サンダウ
 ンはお前は誰でも良いのかと危うく口にしかけてそれを呑み込み、まだおっさんに手を伸ばそうと
 しているマッドの名を呼んだ。
  サンダウンに名前を呼んで貰ったマッドは、これまたころりと表情を変え、嬉しそうにサンダウ
 ンにしがみつく。そしてまたサンダウンに口付けを始める。もうどうする事も出来ない。

  そんな凍りついた、そして一部ピンク色の世界を動かしたのは、涙眼になっている酒場のマスタ
 ーだった。鍵を手にした彼は、西部一の賞金首と賞金稼ぎの口付けの合間に割り込んで、震えなが
 らその鍵を差し出した。

 「部屋は用意してやる。部屋代は結構だ。今夜の事は誰にも言わない。あんたが此処にいる事は誰
  にも言わない。だから、頼むから。」

  余所でやってくれ。





  マスターの言葉の何に心を動かされたわけではない。
  部屋代はいらないと言われても、どうせ此処に寝るのはマッドだけであって――サンダウンはマ
 ッドを置いて別の宿に泊まるつもりだ――別にサンダウンには旨みはない。今夜の事は誰にも言わ
 ないといっても思いっきり大勢に見られている以上、それは無理な話だ。サンダウンが此処にいる
 事を言わないというのも同じ事。何より自分を追いかけているマッドが、酔っぱらっているとはい
 え眼の前にいるのに、秘密にされても意味がない。
  サンダウンには一切利益がないマスターの申し出に、それでもサンダウンが頷いたのは、やはり
 サンダウンとしても、あれ以上マッドを放置しておくわけにはいかないという危機感が働いたから
 だ。
  何よりあのままマッドを酒場に放っておいて、誰彼構わず口付けを始めようものなら、きっと次
 の日には魔王と化したサンダウンが、マッドに口付けされた男共を跡形もなく粉砕しているだろう。
 己の内々に巣食っている絶望には気が付いているが、サンダウンとしてもそんなしょうもない理由
 で絶望して魔王にはなりたくない。

  自分が嫉妬している事は棚に上げて、これは世界平和の為だと言い聞かせている賞金首は、宛が
 われた部屋に賞金稼ぎを導く。その間も口付けを止めないマッドを、どうにか引っぺがしてベッド
 に座らせ、ほっと一息吐いた。

  赤い顔をして、ぽぅっとしているマッドは、日頃決闘を申し出る姿からはかけ離れており、酷く
 子供っぽい。許容値を上回るアルコールによってその身体は熱を持っている。
  水を飲ませたほうが良いだろうかと思い、水を汲む為に身体を離すと、マッドが見る間に頬を膨
 らまして不機嫌になった。どうやらサンダウンが離れる事が気に入らないらしい。ぽむぽむと自分
 の隣のシーツを叩いて、そこに座るように促している。
  やれやれと思いながらも促されるままにそこに座ると、マッドがべったりと凭れかかってきた。

 「ん………きっど。」

  サンダウンの肩に額を擦りつけ、腕を首に回して膝に乗り上げてくる。そしてまた頬に口付けて
 くる。
  頬から顎へ、そして鼻先から額、米神。
  軽い音を立てながら顔中に隈なく口付けしていく。そして最後に、今夜はまだ一度たりとも触れ
 ていなかった唇へ。子供がするような、触れるだけの口付けを何度も繰り返す。普段からは、やは
 り到底考えられないような仕草。
  子供返りしている所為か、素に戻っているだけなのか。
  素直にサンダウンに擦り寄る身体を、そろそろ寝かしつけようと考えていると、マッドが口付け
 の合間に甘く囁いた。

 「きっどぉ………すき、すき、だいすき。」

  普段のマッドならば決して言わない台詞。いやそもそもサンダウンだって言った事はない。
  なんだかんだで未だ性欲処理の関係から抜け出せずに、それ以上の運命の相手だとかなんだとか、
 マッドが皮肉で言う事はあっても、結局甘い関係になれずにいる自分達の間に、そういう言葉は存
 在しなかった。
  水面下で、あいつらデキてるとか言われても、要するに既成事実があるだけで、そこにちゃんと
 した言葉は伴っていなかったのだ。
  が、今、此処でマッドがはっきりと口にした。

 『大好き』と。

  子供返りしているだとが、酔っ払いだとか、そういう現実はサンダウンの頭の中からすっ飛んだ。
  如何せん、実のところマッドが別の賞金首を追いかけているという噂を聞いただけで魔王になり
 そうなおっさんである。言葉の綾で『恋人同士』とか『生まれ変わっても追いかける』だとか平気
 で言うマッドに、無言でイラついてきた。
  それが今夜、どんな形であれ、声になって降り注いできた。
  その瞬間のサンダウンの行動は素早かった。
  寝かしつけようと考えていた思考回路は何処かに吹っ飛び、まだ軽い口付けを仕掛けてくるマッ
 ドをベッドに押し倒す。
  突然の事に眼を瞬かせているマッドの白い顎を掴み固定するや、今度はこちらから口付けた。
  マッドの形の良い唇を割って、舌先で歯列をなぞり、奥で縮こまっている彼の舌を引き摺り出す。
 絡め取って呼吸をする暇もないくらい追いたててやると、苦しそうにマッドが身を捩った。それさ
 えも押さえ込んで、細い肩からジャケットを払い落し、窮屈そうなタイを解いてやる。
  頭の片隅で、もしかして部屋の鍵を渡したマスターはこうなる事を考えていたのかとも思ったが、
 それは今はどうでもいい事である。
  兎に角今は、眼の前にある身体を解いてやるのが先決だ。
  口付けを深くしながら、シャツのボタンを外した手をベルトに掛ける。カチャカチャと音を立て
 ながら外していると、突然頭を両側から掴まれ、酔っ払いとは思えない物凄い勢いで押しのけられ
 た。
  驚いて見下ろすと、口の端から唾液を垂らしながらも、その眼に冷然とした色を浮かべているマ
 ッドが不機嫌そのものの表情で自分を見上げていた。

 「………おいおっさん、てめぇ俺に一体何してやがるんだ。」

  どうやら強すぎる口付けに理性が戻ってきたらしい。そして身に覚えのない己の状況に対して、
 サンダウンが原因であると見当をつけているようだ。
  だがサンダウンにしてみれば、それは誤解以外の何物でもない。

 「誘ったのはお前だ。」
 「俺は覚えてねぇな………。」

  酔っ払いに記憶を求める事のほうが間違っているのかもしれない。
  しかしサンダウンは食い下がる。

 「証人は大勢いる。」

  酒場のマスターとか、その場にいたその他大勢とか。
  そう言ってやると、マッドの顔が見る間に赤くなり、バントラインを手に何処かに行こうとする。

 「………何処に行く。」
 「あんたには関係ねぇ!」
 「脅して口外させないようにするつもりか。」

  まあ確かにマッドに脅されたなら――というか今更脅されなくても――その場にいなかった人間
 に口外はしないだろう。だが、サンダウンがこの夜のマッドの行為について彼らに同意を求めれば、
 当事者本人という事で頷くだろう。   

 「だから、諦めろ。」

  再び組み敷いて、先程まで彼がしたように、顔中に口付ける。ただし、あんな可愛らしいもので
 はなくもっと濃厚なものを。
  額から米神、頬から鼻筋を通って唾液で濡れている唇へ。そして顎先を伝い落ちて敏感な首筋へ
 と。

 「あっ、おい、こら!止めろって!」
 「だから煽ったのはお前だ!」
 「だから俺は覚えてねぇんだって!」
 「私が覚えている。」
 「忘れろ!」
 「無理だ。」

  あんな可愛い告白、忘れられるものか。
  ほとんど脱げ掛けたシャツをあっさりと肌蹴させ、サンダウンは眼の前に広げられた白い肌に舌
 舐めずりせんばかりの凶悪な表情を浮かべて囁いた。

 「………好きだ。」
 「………………。」

  その瞬間、顔を赤くして騒ぎ出すだろうと思っていたマッドは、特に顔色も変えずに微妙な表情
 でサンダウンをまじまじと見ている。
  そして、

 「何年甲斐もなく可愛らしいこと言ってやがるんだ。あんたみたいな髭親父が言っても薄気味悪い
  だけだろうが。」

  身震いまでしてのけた賞金稼ぎに、賞金首は明日は動けなくしてやると胸に誓い、その細い足を
 引っ掴んだ。





















TitleはB'zの『Deep Kiss』から引用