その日も、アメリカ西部に広がる荒野は、突き抜けるように晴れ渡っていた。
  手が届きそうで届かぬ顔をした空は、手を伸ばせばやはり透き通るように高く、そこを横切って
 いく千切れ雲の足取りは普段よりも少し速い。白く漂う彼らを急かしているのは、荒野と蒼穹の間
 を駆け抜ける乾いた風だ。
  水分のほとんどを感じさせない風が、荒野の砂を巻き上げる中、マッドは苛立ったようにバント
 ラインを手の中で弄んでいた。





  真昼の月 






  他人から見れば、マッド・ドッグという人間は、恵まれているように見えるらしい。
  他の賞金稼ぎ達と一線を画す銃の腕は、弱肉強食の傾向の強い西部では、限りなく全ての権限を
 与えられているに等しい。そしてそんな荒野で生きる娼婦達もまた強い男を求める傾向にあり、も
 ともと秀麗な身体もあいまって、マッドは彼女達に不自由はしない身だ。
  誰からも跪かれ愛される姿は、力もなく誰の歯牙にもかからない者から見れば、手を差し伸べる
 だけでその手の中に望むものが差し出されるように見えるのかもしれない。
  しかし、マッドは自分が決して恵まれた人間でない事を良く知っている。
  もしも本当に、この世がマッドの手一つで思い通りになるのだとしたら、マッドはもっと別の道
 を歩んでいただろうし、誰もが秀麗だというこの身体を、もっと荒野に近い色にしていただろう。
 けれどもマッドにはそれを望んでも出来ないから、西部の不毛の大地で歩き続け、そして誰からも
 愛される代わりにいらぬ欲まで受けねばならない。
  そして、もしも本当にマッドが恵まれた人間だというのなら、眼の前にいる男の首は、既に自分
 の腕の中になくてはおかしいのだ。

  何度も繰り返されてきた状況に、マッドは喉の奥だけで悪態を吐く。それは眼の前にいる、マッ
 ドになど見向きもしない男に吐き出す罵声とも怒号とも形が違い、ひたすらにマッド自身を責める
 言葉だ。
  並外れた、いっそ天賦とさえ言って良いほどの銃の腕を持つ五千ドルの賞金首は、これまであり
 とあらゆる賞金首をその腕に抱いてきたマッドが、唯一撃ち落とせなかった男だ。何度も何度も挑
 んでも、あっさりと銃を叩き落とされる。

  しかし、決闘で敗北したにも拘わらず、マッドはこうして生きている。
  決闘で敗者が生き延びる事など、普通は有り得ないのに、生き残っているという事は、つまり情
 けをかけられているという事だ。そしてそれは、ひいては端から相手にされていないという事に通
 じる。
  それは西部のガンマンにとっては屈辱以外の何物でもない。
  ましてマッドは、名実共に賞金稼ぎの頂点に君臨している。自他共に認めるその立ち位置を、マ
 ッドがその手で掴んだ地位を、男は存在しないもののように素通りしていく。それはマッドの矜持
 を根底から打ち砕く。
  何処にも寄る辺を持たない孤高の玉座にいる男は、マッドが弱者に見向きもしないのと同じよう
 に、マッドを見ようともしない。空色の眼は撃鉄が上がる瞬間にだけマッドを一瞥するだけで、砂
 色の髪はマッドなど興味がないように眼の前を素通りする。
  何にも興味を示さない寡黙で背の高い影は、まるで荒野そのもののようだ。
  乾いた風に乗って駆け抜ける風は、捕まえようとすればするりと指の隙間から零れてしまう。青
 い空はすぐ近くにあるように見えて、手を伸ばせば実は酷く遠い事が分かる。なのに、こちらの気
 が狂いそうなほどその存在を主張する。
  それは、マッドに興味を示さぬサンダウンと同じ色を成している。
  その空色の双眸がマッドを映さない事に、マッドがどれだけ苛立っているのかなど、知らないだ
 ろう。灼熱の銃弾が、太陽の光が全てに降り注ぐように、マッドを貫けば良いのに。
  そしてその苛立ちは、そんな気違いじみた事を考える自分自身に向かっている。サンダウンの歯
 牙にかけられないくらい惨めな自分に、その事に女々しくうじうじと苛立つ自分自身が、何よりも
 腹立たしい。
  望めば手に入る、など愚か者の考える事だと鼻先で笑っているのはマッド自身。望むものは手に
 入れるのが、マッドの信条だったはず。なのに、それが出来ていない自分が、腸煮えくり返るほど
 腹が立つ。

 「なんで、毎回、俺を殺さねぇんだ!」

  吐き捨てる捨てるようにそう言って、マッドは更なる自己嫌悪に陥る。サンダウンがマッドに見
 向きもしないのは、別にサンダウンの所為ではない。見向きもされないマッドが悪いのだ。にも拘
 らず、そう言ってしまう自分は一体何様なのか。
  それは、賞金稼ぎ達の頂点にいる事に浮かれて、望めば手に入るのだと勘違いしているのと、大
 差ない。
  まるで、太陽のお蔭で輝いている事を忘れて、自分よりも強烈な光がないと夜空の中で威張って
 いる月のようだ。そして勘違いしたまま太陽のいる昼間に、その姿を追い掛けて分不相応に現れる
 月のようだ。
  そう、頭の中では理解しているのに、マッドは地団太踏んで罵声を浴びせかける事を止める事は
 できない
  何か口にしなければ、その光で自分自身までもが掠れていきそうだ。
  何よりも強烈で巨大な光は、周囲の小さな光を掻き消してしまい、それ故に孤独だ。その孤独を
 齎す光によって、マッドまでも消し去られては堪らない。あまりにも自惚れた考えかもしれないが、
 誰よりも長く共にあったという時間の流れが、マッドにそれを感じさせる。それは、長く殺される
 事なくあったからこそ齎されたのだという、撃ち殺される事を望む言葉を吐くマッドにしては矛盾
 した感情だったが。
  ぎりり、と歯噛みするマッドに、サンダウンがふと何かを思ったかのように立ち止り、肩越しに
 一瞥した。
  俯いたマッドも、その視線に気づく。皮膚だけで視線を感じる事が出来るのが、果たして進化な
 のか退化なのか、マッドには分からない。
  そして、サンダウンが振り返った意味も。
  いや、意味を問う事が出来るほど、サンダウンがマッドを一瞥する時間は長くない。太陽が月と
 共に空にある時間が短いように、二人の道が重なる時間は一日の中の空隙とも言える時間だ。
  サンダウンの視線は、通り過ぎる雲のようにマッドの頭上を横切る。そしてそのまま逸らされる。
 一瞬の時間の中で、その意味を嗅ぎ取らせてくれるほど、サンダウンは隙のある人間ではない。
  だから、マッドは、その一瞬でもサンダウンがマッドを見やる理由を、今の今まで知らないのだ。
  ただ、マッドはやはり昼を渡る月のように、何処か自惚れて勘違いしたまま、サンダウンを追い
 掛け続けるだけだ。いつかは追いつく事を夢見ながら。















Titleは稲葉浩志の『不死鳥』から引用