夜半も超えた頃になってようやく現れた月と星明りだけしかない闇の中、小さく震えるような息
 が吐き出される。今にも白く溶けてしまいそうなその息は、しかし次の瞬間、酷く熱を帯びたもの
 に転じた。
  慌ただしい衣擦れの中、触れ合う部分から肌の匂いが沸き立って、それが零れる吐息にいっそう
 熱を抱かせる。外は冷えているというのに、まるで、そこだけ切り取ったかのように熱が籠ってい
 るよう。首筋や脇腹を伝い落ちる汗が、それを物語っている。
  けれども、それではまだ足りないのだと言わんばかりに、擦れ合う肌の動きが止まる気配はない。
 吐く息が忙しなく訴えても、それは激しさを増すばかり。
  そしてもはや、どの腕が誰のものかも分からなくなった時になって、ようやく溜まりに溜まった
 熱を吐き出すように、一際大きく溜め息を吐く音が聞こえた。




  夜明け前





  これまで大勢の賞金首を殺してきた。保安官に突き出して縛り首になった者もいれば、自分の手
 で撃ち殺した者もいる。彼らの中にはお零れを頂戴するだけの小悪党もいれば、人を殺す事に快感
 を見出すような趣向の持ち主もいた。どんな罪を犯していたのかなど、あまりにも多種多様すぎて、
 全てを覚えておく事は出来ない。
  ただ、一様にして言えるのは、彼らも何らかのコミュニティを持って、何らかの形で社会の中に
 入っていたという事だ。悪党仲間とつるんでいる者もいれば、家族がいる者もいて、その社会性も
 多種多様だったけれど。
  そんなだから、追いかけている賞金首が、誰とどんな関係を持っていても、決して驚く事はない。
  だから、荒野の今にも砂に呑み込まれそうな町の片隅で、荒野の化身のような男が女と二人でい
 るのを見ても、特に驚きはしなかった。確かに病的なほどに他人と関わる事を避ける賞金首だが、
 けれども彼にも家族や仲間がいてもおかしくはないはず。年齢的な事を鑑みても、妻の一人や二人、
 いてもおかしくない。
  彼が囁きかける女の顔は見えなかったが、もしかしたら、男が背負う罪の代わりに置き去りにし
 てしまった愛を誓い合った相手なのかもしれない。

  だが、だからと言って何が変わるわけでもない。

  これまで賞金首に家族がいる事は幾度もあった。けれどもその事を理由に追撃の手を緩めた事は
 なかった。
  家族がいるという事は、犯した罪の言い訳にはならない。もっと言うならば、罪を犯された相手
 にだって、家族はいるのだ。そしてその家族の嘆きによって、賞金稼ぎと賞金首というシステムが
 作り上げられている。
  それに寄り掛かっている以上、一つの関係を見ただけでその首を締め上げる指の力を緩めてはい
 けないし、まして、心の均衡を崩すなどあってはならない。

  例えそれが、自分と身体を重ねた事がある相手であっても。
  その相手に、過去に本当は誰か決まった人がいたからといって、或いは今現在他の誰かを抱いて
 いたからといって、それを責めたりその事で怒りを燃やす事は、全くの見当違いだ。
  だから、ざくりと足音を立てて踵を返し、呑み込まれそうに砂嵐に囲まれた町に背を向ける。女
 の前で撃ち抜くなんて悪趣味な事はしないと口の中で呟きながら、多分二度と辿りつけないであろ
 う砂の町から眼を逸らす。

  そしてもう一度振り返って、マッドは眼を覚ました。

  闇の中でしばらく瞬きを繰り返す。
  ようやく眼が慣れてきた頃、闇が青味を帯びている事から、夜が終わりに向かっている事を知っ
 た。そして、自分が横たわっている小屋の中が冷え切っている事も。それでも身震いしないのは、
 もはやこれ以上は近付けないだろうというくらい肌に密着した、別の肌があるからだ。
  弛緩したマッドの身体を、自分の胸元へと引き寄せた男は、微かな寝息を立てる以外は岩のよう
 に押し黙っている。雄弁にマッドを撫で回していたかさついた両手も、穏やかに、ただし頑強にマ
 ッドを抱き締めるだけだ。

  額に男の髭の感触を感じながら、マッドはぼんやりと先程の夢を思い出す。細かいところは夢で
 ある為、ほとんど覚えていないが、今、自分を掻き抱く男が自分以外の誰かを抱き寄せていたのは
 覚えている。
  しかしそれは至極当然な事で、確かにこの男の今の現状を考えれば他人と一緒にいるところなど
 想像もつかないが、誰か想う相手がいてもおかしくない。むしろおかしいのは、マッドを抱き締め
 ている今の状況だ。

  マッドは賞金稼ぎだ。
  そしてそのマッドを抱き締め夜を共にする男は、マッドが長年付け狙っている賞金首サンダウン・
 キッドだ。

  対極にある二人が、こうして抱き合って眠りにつくなど、普通に考えればおかしな事だらけだ。
 仮に、ただの性欲処理だと言い聞かせるには、終わった後も離れない肌が邪魔をしている。他の誰
 も割り込めぬほど寄り添いあった身体は、身体だけの関係と言うには情が籠り過ぎていた。
  本来ならば、それは別の誰かと分かち合う熱だろうに。
  自分も、サンダウンも、間違った相手と抱き合っている。
  そう思い、腹の底が冷えたような気がして、マッドはサンダウンから身を離す。と言ってもサン
 ダウンに抱き締められている以上、ほとんど動く事は出来ず、布切れ一枚が挟み込める程度の隙間
 が出来ただけだった。
  だがその瞬間、敏い男のマッドを抱き締める腕に力が籠り、再び引き寄せられてしまう。あっと
 言う間になかった事にされた僅かな隙間に、もしかして自分が寝返りを打つ度にこうして引き寄せ
 ていたのかと、マッドは呆れたような気分になった。
  しかし、今マッドは眼を覚ましていて、サンダウンの急な動きに少し身を硬くしてしまった。そ
 れが、サンダウンに伝わらぬはずがない。マッドを引き寄せたサンダウンは再び眠りに落ちる事は
 なく、そのまましばらくマッドの身体を抱く腕に力を込めていた。
  やがて、抱き寄せるだけだった腕を動かし、サンダウンの胸に埋もれているマッドの頬を撫でる。

 「マッド………?」

  夜の底を流れる風のように静かな声で名前を呼ばれて、マッドは肩を少し震わせる。肉欲を伴わ
 ない声音は穏やかなだけで、この声で囁かれたら誰でも大切に想われていると感じるのだろうな、
 とそんな事を考える。しかし、だからと言ってそれに溺れるわけにもいかず、マッドはぼんやりと
 するだけだ。
  すると、サンダウンから舌打ちの音が聞こえた。唐突すぎる変貌ぶりに、マッドが眼を見開いて
 いると、今度は威嚇する蛇のような声で囁かれる。

 「何を、考えている。」
 「何も、考えてねぇよ。」

  呟くように言い返すと、その青い眼に疑惑の色が浮かぶ。サンダウンにしては激しい感情の変調。
 だが、頬に添えられた手が乱暴なものへと転じる気配はない。代わりにもう一方の腕が肩へと回り、
 逃げないようにと身体を捕えられる。そして、まるで傷つける事を恐れるかのように、額に触れる
 か触れないかの位置で唇が止まり、吐く息が耳に聞こえてきた。

 「今だけは………私の物だろう………?」

  どこか躊躇いがちに告げられた声には、微かな焦がれがあった。その焦がれは、先程見た夢を焼
 き尽くせそうな熱が裏側に煮詰まっている。それは、先程の穏やかな声音以上に、何かを勘違いさ
 せる危険性を帯びた熱だ。
  だから、マッドは敢えてそれに火を点けようとは思わなかった。自分の物だと強請る男のそれに
 火を点けたら、本当に間違ったほうに転落しそうだ。そして一度堕ちてしまえば、這い上がる事は
 途方もない労力を必要としそうだ。
  けれど、マッドが何もしなくても、サンダウンは身勝手に燻る焦がれを口にし始めた。普段は口
 にしないくせに、マッドがこの関係に疑問とその薄弱さを感じる今になって、それを払拭しようと
 言うのか声を落とす。
  マッドがぎょっとしているその耳に、サンダウンは切々と吹き込んでいく。
  
  仕方ない事だと分かっているが、と諦めきったような言葉から始まったそれは、睦言と言うには
 甘すぎず、しかし酒の肴にするには甘すぎた。
  マッドが他の誰かを愛している事や、他の誰かに愛されている事を告げて、その環の中に自分も
 含まれている事の喜びと、そしてマッドが自分だけの物ではない事への嘆き。

 「思い上がりも甚だしいが、お前が他の賞金首を追い掛けている事さえ腹立たしい。」

  想像していた以上に欲望に満ちた言葉。
  それに戸惑って、あんたも他の誰かを抱けば良いだろうと言えば、お前の代わりなどいないと囁
 かれる。
  俺はあんたの物にはならないと突っぱねれば、諦められないと引き寄せられる。
  勝手な事を言うなと、あんたは身勝手だと言えば、微かな苦笑いと共に、今頃気付いたのかと吐
 き出された。

 「お前に追われる事を望んだ時点で、私は十分に欲深だ。」  

  だから諦めてくれ、と呟くサンダウンは、もう一度マッドを深く抱きこむ。今だけでなくどうか
 ずっと、と願う男の言葉は、まるで、マッドがサンダウンと一緒に地獄に堕ちる事を当然と思って
 いるかのような台詞だ。けれども、マッドがそれを否定できないのはどうしようもない事実だ。先
 程の夢のように、女の影ちらついたところで、サンダウンを追い掛ける事を諦めるなど出来はしな
 い事を、夢の中でも確かめたばかりだ。
  過去に何人誰を抱いたとかそんな事どうでも良いくらい、互いがいなければ存在の輪郭があやふ
 やになるほど近くに在り過ぎている。
  その事を認めたくなかったのか、それとももはや観念したのか、マッドはただ眼を閉じた。する
 と、それに応じるように口付けが降ってくる。
  焦がれるような戸惑うような、ゆっくりと侵食していくような口付けに、マッドは小さく息を零
 す。

 「俺があんたの物だって言うんなら、あんたは俺の物になるのかよ。」
 「お前は最初からそのつもりだろう?」

  命を奪ってくつもりのくせに何を言うのか。
  サンダウンの言葉に、マッドはそうだったと思う。
  命の投げ出し合いで始まったこの関係は、マッドから作りだしたものだった。マッドはサンダウ
 ンの命ごと連れ去っていくつもりだった。
  そして今は、サンダウンが積み上げたものが複雑に絡み合っている。そしてサンダウンは、マッ
 ドと作り上げた塔に自分の礎を注ぎ込んだと言う。もしもこの関係が破綻したなら、もう何も残ら
 ない。

 「はっ、あんたは、とうの昔に俺のものだったってか。」
 「………お前を私の人生に巻きこむのはどうかとも思ったがな。お前はまだ若い。他の関係も築け
  るだろう。」
 「でも、無理なんだな。無理だったんだな。」
 「ああ………。さっきも言ったが私は欲が深い。お前を諦められない。」

  誰からも愛される、凶暴な命が自分に絡みついている。それを欲しいと思わない人間はいないだ
 ろう。
  だから、とサンダウンは言う。だから手放せないと。
  そう言って口付けるサンダウンに抱き締められながら、マッドは思う。これは愛だの恋だの友情
 だの仲間意識だの、なんらかの社会性の中にある言葉ではない。互いに絡み合い過ぎて、破綻すれ
 ば斃れるしかないその関係は、ただの欲望だ。
  だが、それの何が悪いのだろう。
  社会性よりも深いところで繋がって、何が悪い。

  きっと美しくはないだろう。良ともされないだろう。
  だが、それでも、ありとあらゆる関係を越えて沈んでいけるのなら、それは悲劇であっても離れ
 る事はな



















TitleはT.M.R『夜明け前』より引用