掴みどころのない男だな。
  それが最初の対峙の時に思った、第一印象だった。
  思ってから、掴みどころがないと言うよりも、触れようとすれば素通りしてしまうのだと気が付
 いた。こちらがどれだけ喚いても叫んでも、眉一つ動かさずに流れるように立ち去っていく姿は、
 乾いた大地の上を浚っていく風のようだった。
  風に首輪を付ける事は出来ない。
  それは気紛れに巻き起こっては、あっと言う間に消えていく。眼に捉える事は不可能で、辛うじ
 て木の葉の行く先、砂塵の跡で分かるだけだ。
  だから、捕まえてみたくなったのかもしれない。




 
  陽炎





  この荒野で、賞金稼ぎマッド・ドッグの名を知らない者はいない。狙った賞金首は必ず打ち倒し
 てきた負け知らずの彼は、名実ともに西部一の賞金稼ぎだ。
  その名に惹かれて彼に擦り寄る者は少なくない。それが獲物のお零れに与ろうというハイエナじ
 みた欲望であるのか、はたまたいつかその寝首を掻いて伸し上がってやろうと言うのかは知らない
 が、彼らはマッドが現れるとその前に必ずや現れ、まるで忠実な僕であるかのように媚を売ってみ
 せる。
  また、マッドは西部の荒っぽい空気には似つかわしくない線を持っている。
  真珠でも塗してあるのかと思うような白い肌や、夜の帳を一本一本解いて再度編み上げたような
 黒髪や、細く繊細な指先は、むしろ何処か貴族然とさえしていて、挙句その声も西部にはあるまじ
 き流暢さに満ちており、それに惹かれる娼婦や飢えた男達が自然と集まってくる。
  欲望に満ちた目線を持つ者達を否応なく集める身体は、もしもそれだけだったなら、先程述べた
 ような輩ばかりを集める、そしてあっと言う間に食い散らかされていただろう。
  しかし、ともすれば傲慢に聞こえる端正な声音は、そこに孕む柔らかな訛りの為に独特の愛嬌を
 生み出しており、秀麗な顔もくるくるとよく変化する表情の所為か美人が概ね持つ冷たさよりも子
 供じみた愛らしさを浮かべる。
  そして貴族や力ある者特有の権利を振りかざす横暴さは、マッドの気に障る者に対してのみ振る
 われ――それもほとんどが無法者達に対してのみ行われるので――そもそも根がお人好しなのか、
 やたら面倒見の良い彼には、彼で欲望を満たそうという者以上に、彼を慕う者のほうがより多く集
 まった。
  屈強な男から経験の深い老人、知に肥えた者まで、無数の賞金稼ぎ達と、たおやかでいながら逞
 しい美女達を侍らせるマッドには、望めば手に入らぬものはなく、むしろ全てがその足元に身を投
 げ打ってくる。
  愛され、望まれる事は、マッドにとっては当然の事だった。皆がマッドを求め、マッドが指一つ
 動かすだけで、何もかもが動き出す。

    あの男以外は。

     荒野で生きて何年になるだろうか。
  皆がマッドの視線を奪おうと、必死になって様々なものを持ち寄る中で、マッドはそれらに飽き
 飽きしていた。
  マッドは誰からも求められている。それ故に皆がマッドの願いを叶えようとする。
  しかしマッドは元来、欲しいものは自分で手に入れ、望みも自分で叶える主義だった。
  その所為か、西部一の賞金稼ぎの座に座ってからは、よほどの大きな狩りでなければ一人で動く
 ようになっていた。
  仲間達と酒を呑むのは楽しかったし、女達と過ごすのも悪くない。
  けれども、誰かが恩着せがましく差し出してくる賞金首を狩る話にはうんざりだったし、西部の
 治安を守る為とか無意味に正義を掲げる連中などは反吐が出そうだった。
  マッドは自分の為だけに銃を掲げて、自分の望みを叶える。
  だから、集まる中にどうしても混ざってしまうそういう連中から身を放す為に、一人で荒野を駆
 け巡る。

  ちょうど、そんな時期だった。
  欲望と正義のしがらみが鬱陶しくて、一人で荒野を彷徨っていた時に、その男に出会った。

  噂にだけ聞いていた、五千ドルの賞金首。
  手配書で見た顔は、くすんだ金髪と青い眼の男で、それ以外の印象は特になかった。ただ、何を
 したらそんな金額の賞金を懸けられるんだろうな、と思った。それほどまでに人に憎まれるような
 事をしたのか。
  しかし、五千ドルの賞金の割に、何を成したのかが耳に入ってこない。五千ドルという賞金だけ
 が先走って、肝心の男についての情報がほとんどない事も不思議だった。
  唯一の情報が、男が、凄腕のガンマンだという話だけ。
  そんな僅かな情報だけしか知らなかったから、初めて逢った時にすぐにそれが五千ドルの賞金首
 だとは気付かなかった。それは、オーラかなかったとかそういう意味ではない。

  うらぶれた町の、小さな寂れた酒場でその姿を見た時、その気配に思わず振り返った。
  異様、と言ってしまえば異様な気配。しかし決して不快なものではない。寧ろ、望んでこの荒野
 にやってきて、その強い色を撓めた空が気に入っているマッドにしてみれば、心地良いとさえ感じ
 るものだった。
  手配書の写真では分からなかった、男の色。
  くすんでいるようにしか見えなかった金髪は砂塵の色で、その双眸はマッドが好む荒野の空色。
 葉巻の匂いが絡む乾いた風が、男に纏わりついている。
  もしも荒野が、人間の姿を取るとしたら、きっとその形を選ぶだろう。
  これが、この男が、五千ドルの賞金首サンダウン・キッド。
  何をしたのか、そんな事はどうでも良いと感じるくらいの気配に、マッドは息を呑んだ。
  むしろ、荒野の化身に五千ドルは、安すぎる。
  そして思う。
  この男を追い掛けている賞金稼ぎ達の狙いは、もしかしたら賞金やその銃の腕をへし折る事で得
 る名声だけが目的だけではないのかもしれない、と。
  少なくとも、マッドはそうだ。
  その姿を一目見てから、五千ドルという大金も、凄腕のガンマンを撃ち取るという名声も、二の
 次だ。
  この、荒野そのもののような男を、自分の腕の中に囲いたい。砂色の髪に指を絡めて、その青い
 双眸が自分の姿を映したなら、それだけで第七天まで昇天できるだろう。
  もしもその照準が、この胸に定まったなら、きっとその瞬間に命を奪われても後悔する事はない。

  欲しい、と、そう思った。
  マッドはこれまで、欲しいと思ったものは全て手に入れてきた。サンダウンも、この手の中に捉
 えなければ、気が済まない。
  久しぶりの大型の獲物に、マッドの中の猟犬が土を掻いて、今すぐに鎖を解き放てと叫んでいる。
  けれど、罠を仕掛けたり、大勢で襲いかかる方法で仕留めても意味がない。それでは、あの男の
 視線はマッドを捉えたりはしないだろう。マッドだけがその眼に映るように、マッドは一人であの
 男と対峙しなくてはならない。
  サンダウンの前に一人で立ち尽くす事を考えた時に感じるのは、恐怖や緊張よりも、喜悦や興奮
 のほうが大きい。
  そんな、まるで熱に浮かされたような思いを抱えて、初めてサンダウンの前に立ったのは、誰も
 邪魔するものがいない、荒野のど真ん中。
  サンダウンの気配に包みこまれているような錯覚さえ覚えそうなくらい、その日は晴天で風には
 一点の湿り気もなかった。
  自分はこの男を自分の物に出来るだろうか。
  それともこの心臓をこの男に差し出すのだろうか。
  そのどちらであっても、マッドは後悔しない。
  震えるような一瞬が、これほどまで長く感じた事もなければ、もっと長くあれと思った事もなか
 った。
  しかしそんな喜悦の時間は一瞬で終わった。
  そして終わった時、マッドは冷や水を浴びせかけられたような気がした。

  マッドはサンダウンを自分のものにする事は出来なかった。
  けれどもサンダウンはマッドの心臓を受け取りもしなかった。
  投げ出されたのは誰の身体でもなく、マッドが直前まで銃把を握っていたバントラインだった。
 サンダウンの銃撃を黒い銃身で受け止めたバントラインは、弾き飛ばされて砂に塗れている。
  呆然として銃を弾かれた腕を押さえて座り込むマッドは、自分の状況を把握して、顔を紅潮させ
 た。それは、怒りよりも、羞恥のほうが強い。ガンマンにとって、決闘の敗者であるにも拘わらず
 生かされている事は、屈辱の極みだ。何よりも、賞金首に情けを懸けられたという事は、同時に殺
 すに値しない――放っておいても問題がない小物だと思われているという事だ。
  一度としてマッドをその視界に入れなかったサンダウンに、マッドは己の矜持が砕かれた事を思
 い知る。
  無言で背を向けた男は、西部一の賞金稼ぎという座にあっても、まだ手が届かない。その玉座さ
 えも蹴り飛ばして追いかけなくては、追いつかない。
  それを知らされれば、一人で荒野を駆け抜けていても結局のところ現在の座に齧りついていた自
 分に対して、羞恥で頬も赤くなるというものだ。
  けれど、不思議とあの男を諦めようという気にはならなかった。
  寧ろ、手に入れようという思いは強くなる一方で。
  この脚が、粉々になるまで追いかけて、あの青い視界に自分を映さないと気が済まなくなった。




  その日から、マッドはサンダウンを追いかける事に集中した。
  その他の賞金首については、生活費の捻出か、よほど眼に余るものがない限りは基本的には相手
 にしない。
  西部一の賞金稼ぎのその様に、仲間の賞金稼ぎ達は、ある者は首を傾げ、ある者は頭を痛めた。
  そして正義感ぶった連中や、マッドの身体に興味があるというような連中は、サンダウンを捕え
 る為に手を組まないかと言い寄ってきたりもした。
  それらをマッドは全て雑音と判じ、薄い笑みを刷いただけで、背を向けた。
  マッドがサンダウンを追いかける理由など、それはマッドにしか分からない。そしてそれが理解
 できぬ者と手を組むつもりもないし、そもそも理解できる人間ならば手を組もうなどとは言わない
 はずだ。
  マッドは、何もかもを振り払って、サンダウンを追い求める為だけに荒野を駆ける。
  広い荒野の中で、一人の人間を見つける事は至難の業だ。
  しかし、もとより賞金稼ぎとしては随一であるマッドは、情報収集の能力にも長けている。その
 上、サンダウンの気配を擦り込まれたマッドにとっては、それは決して困難な事ではなかった。持
 ち得る全てを使い切って、マッドはサンダウンを見つけ出した。
  幾度も幾度も対峙し、その中で少しずつ、サンダウンの中の無言の質が変化している事に気付い
 た。微妙な気配や表情の変化にも、気付くようになった。マッドの叩く軽口に、眉を顰める事も時
 々見られるようになった。
  少しずつだが、その距離が縮まってきて、そろそろその瞳に自分の姿が映るのではないだろうか
 と、マッドは密かに期待をしていた。
  だが同時に、横顔を眺めている時に、その瞳に何か引き攣れたような、傷跡めいたものが見え隠
 れするのも見つけてしまった。
  深淵を覗き込んだような気分にさせるそれが、一体なんなのか、マッドには量りかねる。
  しかしそれは確かに不吉な光を宿していたし、軋むような色も浮かべていた。
  荒野の化身のような男だ。
  荒野の持つ、無情な日差しと同じように、何処か酷薄な部分があってもおかしくない。
  普段のサンダウンを見ていると、今まで対峙してきた賞金首達のような残忍さであったり臆病さ
 のようなものを感じないが、彼も賞金首なのだから、それらがあって普通だろう。 
  ただ、他の連中に比べて、それが底知れないだけで。
  そう思って、特に気にも留めず、いつものようにサンダウンに絡んで怒鳴って、その表情の変化
 を見ていた。

  そして、ならず者に悩まされているとある町で、共闘までやってのけた、その直後。
  不意に、サンダウンの気配が荒野から途切れてしまった。
  影一つ残さず消えた男に、マッドは何が起きたのかが分からず、次に全身を満たしたのは感じた
 事がない焦燥だった。
  ずっと欲しかった玩具が、突然店先から消えてしまった時のような、言いようのつかない感情。
  誰に奪われたのか、それとも誰の手にも入らないから処分されてしまったのか。
  がくがくと早鐘のように打つ心臓を押え込み、必死になって考える。
  サンダウンが簡単に誰かに撃ち取られるとは思わないし、もしも撃ち取られたのならその噂は耳
 にするはずだ。マッドはそんな噂聞いていないから、サンダウンが誰かに奪われたとは考えにくい。
  では、逃げ回る事に飽いて、何処か別の場所に行ってしまったのだろうか。国境を越え、船に乗
 り、遠くの国へ。けれども手配書に顔が載っているような男が、簡単にそんな事できるのだろうか。
 そもそもその長い旅路には、かなりの資金がいる。あの男に、そんな金があっただろうか。
  ならば、一体、あの男は何処へ行った?
  マッドでさえ捜し当てられない場所なんて、そう多くはない。 
  地の果てまでも追いかけられるマッドが叩く事の出来ない門など、せいぜい天国か地獄の門くら
 いだ。
  そう考えて、腹の底が冷えたような気がした。
  もし、生きる事に飽いた男が、自らの手でその門の何れかを開けてしまったと言うのなら。
  もう、マッドの手にはどうする事も出来ない。
  思いついた最悪の考えに震えるマッドを見て、賞金稼ぎ仲間達は、どうしたのかと不安そうに訊
 く。蒼褪めた顔で、なんでもないと首を振るマッドは、どのように見えたのだろう。
  しかし、マッドには彼らを気にするほどの余裕がない。
  いつも望みが叶ってきた中で、初めて手に入れられなかったものが、未来永劫失われたのだとし
 たら。
  これが玩具ならば諦めもついたかもしれない。代わりの玩具で我慢もできる。
  けれどサンダウンは玩具ではない。
  あの男の代わりなど、あの男と同じ荒野の色を纏う存在が、何人もいるとは思えない。
  喪失の恐怖は、唐突であればある程、強い。
  サンダウンが賞金首である以上、その死がいつか訪れるとは分かっていたはずだったのに、マッ
 ドにはその覚悟が足りなかった。
  西部一の賞金稼ぎの名が聞いて呆れる。
  今のマッドは、ただ手を拱いて、荒野に蹲って恐怖の嵐が去るのを待つだけの子供でしかない。
  そして、手で触れる事が出来ない風の中を、痛みを堪えるように駆けていたある日、ようやくマ
 ッドは忽然と消えていた気配を再び感じる事が出来た。
  朝焼けが荒野を燃やしているその日、地平の縁が赤く染まる線を途切れさせるように、すっと立
 ち上がった気配に息を呑んで息を吐く。
  逆光と未だ残る夜の闇で良く見えなくとも、それは確かにサンダウンだった。
  この手の中から零れ落ちたと思っていたものが、まだ指先に引っ掛かっている事に気付き、マッ
 ドは安堵の息を漏らした。そしてそんな事おくびにも出さずに、普段のように軽い声音を響かせた。

 「よう、久しぶりだな。遂にこの俺にびびって逃げたんじゃないかと思ったぜ。」

  バントラインを掲げ、口の端に笑みを作ってそう言えば、サンダウンはこちらに視線を向けてく
 る。いつものように、酷く緩慢な動きで。
  けれど、その視線が、止まらない。
  いつもならマッドをろくに見る事なく、視線はすぐに逸らされてしまう。だからマッドは、これ
 まで正面からサンダウンの視線を受け止めた事がなかった。
  だが、朝焼けを背負ったサンダウンの青い双眸は、今はっきりとマッドを見据えた。
  その瞬間にマッドの背筋を走ったものはなんだったのだろう。
  初めて照準を合わされたという、喜びではない。
  背中を粟立たせるそれは、むしろ、恐怖に近い。
  初めて見つめたサンダウンの眼は、まるで空っぽだった。
  狂気も正気もなく、ひたすらに、空だった。
  それは、サンダウンの横顔を見て時折感じた、あの引き攣れたような跡。底知れないと感じ、け
 れど普通の事だと割り切ってしまった。
  何が普通だ、とマッドは己を罵った。
  この男の眼の中にあるのは、普通どころか、何もかもからかけ離れて、何一つとして映していな
 い。何一つ映さない眼に、マッドは思わず後退りしそうになる。
  同時に、酷く打ちのめされたような気がした。
  ずっと欲しいと思っていたものが、実は空っぽで、この腕の中に掻き抱く事ができないだなんて。
  今、青い眼が見据えているのがマッドでも、本当はずっと死にたがりのように死神の鎌ばかりを
 見ているのだ。

  そんなの、敵わないじゃないか。
  死神相手にどうやって。
  ああ、でもそれは俺のなんだ。
  死神にだって渡してやりたくないんだ。

  地団太踏んで、喚き立てて、それは俺のだと大声で叫びたかった。