「指、どうしたの?」
 「あ?」

  娼婦の言葉にマッドが眉を顰めると、彼女は磨かれてもいないテーブルに肘を付き、葉巻を燻ら
 せていたマッドの手をとり、銃を扱うには繊細すぎる長い指を撫でた。そして彼女は少し眉根を寄
 せる。

 「ささくれてるわ。」
 「別に、大した事じゃねぇだろ?」
 「あら、いつもはこっちが見てて腹立たしくなるくらい、滑らかなくせに。」

  大理石のよう、という形容詞が正に相応しいマッドの指は、女にとっても羨むばかりのものだ。
 例えマッドにとっては、男らしさに欠けると苛立つ指先であっても。
  そんな美しい指先であるからこそ、荒れた時はその変化がすぐに目立つ。いつもなら陶器のよう
 な滑らかさで肌に触れる指先が、僅かとは言えささくれだっているのだ。滑らかな手に慣れた肌な
 らば、その変化に気づくだろう。

 「ちゃんと手入れしないからよ。」

  そう言って、娼婦はマッドの手に何やら小瓶を渡した。開けて中を見てみると、白いどろっとし
 たものが入っている。それを怪訝に見ていると、毒じゃないわと彼女は言った。

 「クリームよ。肌につけると荒れが治るわ。」

  一夜の思い出に、とそれを渡した娼婦の後ろ姿を、マッドは酷く複雑な表情で眺めた。




  Cream





  ばしゃばしゃと派手な水音を立てるマッドの後ろ姿を、サンダウンは無言で眺めていた。
  時刻は宵も暮れた頃。
  ちょうど夕飯を食べ終わり、大したものを食べる事が出来ない放浪生活の中でようやくありつけ
 た真っ当な食事で、腹がくちくなっている。
  久しぶりに訪れた小屋には、あまり良い食材は残っていなかった。それでも干し肉を細かく砕い
 て湯で柔らかく戻し、それを団子状にして、塩と胡椒と干し肉でとった出汁に浮かべた、人の手が
 加えられた温かいスープは、ぱさついた保存食などよりも遥かに優しく胃袋に収まった。
  胃袋が満たされた後の心地よい倦怠感に身を任せて、サンダウンはまだ忙しく台所で作業をして
 いる料理人を見る。せっせと洗い物をしているマッドは、まだ当分こちらに来そうにない。つまり
 それまで夕食後の一杯の晩酌はおあずけということだ。
  何せ、この家の一切のアルコールを握っているのはマッドなのだ。サンダウンが買ってきた酒も、
 何故かマッドの管理下に置かれている。マッドに無断で勝手に飲もうものなら、おそらくしばらく
 家に入れてもらえないだろう。
  そんなわけで、サンダウンは待てと言われた忠犬よろしく、マッドが洗い物を終わる時を今か今
 かと待っている。
  やがて、最後の皿を拭き終え、戸棚に丁寧に戻したマッドがエプロンを解きつつ、サンダウンが
 座るソファーの前にやってきた。やれやれと言わんばかりに気だるげな様子で、解いたエプロンを
 その辺に放り投げ、マッドはサンダウンの前に腰を下ろす。
  ようやく一仕事終えたマッドは、しばらくの間、何をするでもなく自分の手を擦っている。良く
 見れば、その手はほんのりと赤い。どうやら水仕事の所為で、いつもは白い手が赤くなってしまっ
 たらしい。
  冷たそうだ温めてやろうか、などと頭の湧いた事を考えていると、マッドの口から小さな苦鳴が
 漏れた。
  はっとして見やれば、マッドの指から一筋、赤い線が流れている。長時間冷たい水と格闘してい
 た所為で、あかぎれを起こしたらしい。
  薄く裂けた皮膚を見て、その手をこちらに引き寄せようかとサンダウンが腰を浮かしかけると、
 マッドはそんなサンダウンなど眼中にない様子で、サンダウンとはまったく別の方向を見ている。
  何を見ているんだ、とちょっぴりサンダウンは不機嫌になり、マッドが見ているほうを見れば、
 そこには小さな小瓶がある。そうこうしているうちに、マッドはそれを引き寄せ、小瓶の蓋を開け
 る。その中から、白くどろりとした得体のしれないものが現れ、その得体の知れないものがマッド
 の掌に乗せられたあたりで、サンダウンが遂に口を開いた。

 「…………それは、何だ?」
 「クリーム、だってよ。」

  女に貰った、というマッドに、サンダウンはもう一度不機嫌になったが、生憎とマッドはそんな
 サンダウンには気づかない。

 「手が荒れてるから使えば、って言われたんだけどよ。そんなに荒れてねぇって思っててさ。けど
  こうなるとやっぱり荒れてたみてぇだな。」

  裂けた皮膚を見ながらマッドは薄く笑う。ま、別にかまわねぇけど、と言って掌に出したクリー
 ムを適当に伸ばすマッドの手を、サンダウンはひょいと掴んだ。そしてそれを何の衒いもなく口に
 咥えた。マッドの肌の味に混ざって、クリームの苦い味がして少し顔を顰める。

 「………おい、てめぇそりゃ何の真似だ?」

  サンダウンの突然の行動にマッドが険を孕んだ声を出せば、サンダウンはマッドのあかぎれを起
 こした皮膚を一舐めしてして言った。

 「確かに、少し荒れているな………。」
 「ああ、てめぇが水洗いさせるからな。」
 「かまわないんだろう?」
 「原因が水洗いじゃなきゃな。」

  マッドも西部で暮らして随分経つ。けれども今の今まで手が荒れるなんて事はなかった。荒くれ
 男達特有のかさついた手からは縁遠く、ほんの少しそれに憧れもしてみたのだけれど。
  ようやくその憧れに辿り着いたはいいものの、その原因が水洗いなんて、なんの冗談なんだか。
  そして今日もマッドに皿洗いまで全て任せて、何の役にも立っていないサンダウンは、まだマッ
 ドの手を掴んで、自分の指の腹でマッドの指の根元から先端まで撫でている。その感触はかさつい
 ていて、まさに西部の男の手だ。日に焼けた肌も節くれだった指も、マッドの白い手を閉じ込めて
 いるとそれが一層際立つ。
  クリームの所為で何だかぬらっとしているのが、一週間前の夜を想像させた。

 「なあ、あんた、変な事考えてねぇか?」
 「………例えば?」

  ぬるりとした小瓶の中身をちらりと見たサンダウンは、マッドの問いに問いで返す。別にマッド
 には必要ないであろうクリームの有効手段を考えていただけであって、まあ確かにそれはマッドの
 勘と一致する考えなのかもしれないが。
  マッドが不穏な空気に気づいて身を引こうとするよりも、サンダウンの行動が早いのはいつもの
 事。
  じたばたと暴れるマッドを、高い身長を生かして押さえ込むのもいつもの事だ。

 「放せ!何すんだ、馬鹿!」
 「………酒を遅らせたお前が悪い。」
 「な……っ!だったらあんたか皿洗いしろよ!」
 「お前が台所にいるのは見たいんだ。」
 「なんのフェチだ!」

  ばたつく脚を押えて、確かに少し荒れているがそれでも十分に甘い肌に顔を寄せる。

 「酒なら準備してやるから!」
 「…………。」
 「一本じゃなくて二本にしてやってもいい!」
 「…………。」
 「秘蔵のワインもやるから!」
 「…………いらん。」

  もしもマッドが自分を秘蔵のワインよりも低い存在だと思っているのなら、それは大きな間違い
 だ。なるほど確かにサンダウンは、夕飯後の一杯の晩酌を楽しみにしているが、それ以上にこの男
 の事を楽しみにしているわけで。
  いっそ鼻歌混じりでクリームの入った小瓶をマッドに垂らそうとして、物凄く嫌そうなマッドの
 視線に先程のクリームの苦みを思い出して、流石にそれは思いとどまった。
  代わりにまだ苦みの残るマッドの指先を舐めて、諦めたのか抵抗を止めたマッドを引き寄せる。
  明日の朝、朝食の準備する人間がいない事には眼を瞑って。