星が高い。
  西部の荒れ果てた大地の上。見渡す限り、何処にも人為的な灯りはなく、街は遠く離れた場所に
 ある。行き交う人もない不毛の地には、辛うじて生命の声はあるのだが、それさえも今夜は遠い。
 草も枯れた大地にはバッファローの群れなど望めず、野宿には必要なコヨーテや狼への警戒心も、
 この場所にあっては無用の長物となりそうだった。
  しかし、それは心に一物も持たぬ、善良なる市民である事が前提だ。
  何か咎めるところのある人間ならば、星空以外に何一つ見る者のいないこの場所でも、必ずや終
 始心を落ち着ける事はなく、臆病な者ならば不安を抱えたまま毛布に身を包んで視線を挙動不審に
 動かすだろうし、豪胆な者であっても予断なく周囲に気を配るだろう。
  それをしない者は、睡魔やアルコールに現を抜かしている間に、いつの間にやら眉間に銃弾を受
 け止め、気づかぬうちに死者の道を歩かされている事になる。
  それを裏付けるように、生命の気配に乏しい大地に、何も生み出せない乾いた砂を踏みしめる足
 音が響き渡った。
 
 
 

   Corona

 



    臆病者でもなければ、特に豪胆なわけではないが、しかし荒野の砂に静かに紛れ込んでいたサン
 ダウンは、少しだけ身じろぎした。
  足音は、真っ直ぐとサンダウンを目掛けている。
  荒野に静かに身を沈めたサンダウンの気配は、並大抵の人間では探り出せない。ひっそりと乾い
 た砂のように無言のサンダウンを、夜の闇が覆い隠しているのだから尚の事。
  しかし近づく足音は、サンダウンとは反対に気配を隠すつもりは微塵もないようで、高くはない
 けれども、普通に砂を長靴で踏みつける足音を立てている。至って自然体でサンダウンに近づく足
 音は、もしもサンダウンや、或いは他に潜んでいる人間が銃を構えていたら、呆気なく撃ち落とさ
 れてしまうのではないだろうか。
  しかし、砂に埋もれるサンダウンは銃を抜くつもりはないし、それにこの辺りにはサンダウンと、
 近づく足音の主以外には生命の気配はない。彼らが連れている馬を除けば。
  さくさくと拘りなく歩み寄る足音に、サンダウンは今一度身じろぎして、目深に被っていた帽子
 をずらし、足音のする方向を見やる。長時間闇に覆われていた眼は完全に闇に慣れ、星明りだけで
 も十分に周りの風景を察知する事が出来る。
  むしろ、砂の上に固まっているサンダウンのほうが、遠目に見れば闇そのものに見えるだろう。
 ただ一点、サンダウンが咥えている葉巻の先の、赤い炎以外は。
  しかし、遠目に見れば、その赤い炎ですら闇に溶け込んでしまうだろうと思うのだが、足音はそ
 れに惹かれる虫のように、ひらひらと黒い服の裾を揺らして近づいてくる。
  最初は黒い人影のように見えたものが、徐々にしっかりと形を細部に渡ってまで刳り貫かれ、そ
 れに星明りが塗されて、最後には口元の笑みがはっきりと見えた。
  まるで、自分を射抜く矢など何処にもないのだと言わんばかりに無防備にサンダウンに近づいて
 くる。
  そして、次の瞬間その繊手に魔法のように闇に溶け込みそうな黒い銃を握り、サンダウンまで後
 数歩という距離を一気に詰めた。そのまま、黒光りする銃口はサンダウンの帽子を払いのけて、サ
 ンダウンの額に。
  銃と、腕一本の距離の向こう側で、黒い眼が瞬いている。
  が、それら一連の流れをサンダウンはしっかりと見つめながらも、ひくりとも表情を変えずに、
 ゆっくりとした動作で葉巻を口から離すと、白い煙を吐き出した。そして再び葉巻を口へと戻す。
  ちろちろと零れた赤い灰が、地面に到達するよりも早く闇に飲まれて消えたのを見て、銃を突き
 つけた男は先程まで湛えていた笑みを、つまらなさそうに掻き消した。つまらなさそうに銃口を下
 げ、唇を尖らす。

 「あんた、ちょっとは焦ったりしてみたらどうなんだよ。」

    真っ黒な若い賞金稼ぎの、流れるように端正な声を聴き流し、サンダウンは白い煙をもう一度吐
 く。その無言は、若い男をますます不機嫌にさせた。

 「けっ、すかしやがって。おもしろみもなんもねぇおっさんだな、あんた。反応も鈍いしな。これ
  で賞金の五千ドルがなけりゃ、俺も放っておけるんだけどよ。俺はあんたみたいに、俺以外の奴
  に構ってもらえねぇってわけでもねぇんだし。」

  だからさっさと俺の腕の中でくたばれよ。
  乱暴に、しかし星の瞬きよりも繊細な声音で告げられたサンダウンは、何一つ言い返さない。賞
 金稼ぎは賞金稼ぎで、サンダウンからの反応を求めていたわけではないようだった。
  そもそも、今夜サンダウンを打ち取る気がないであろう事は、その気配の形から分かっていた。
 無防備に近寄ってくるのは毎度の事ではあるが、しかし決闘を申し込む時とそうでない時の違いく
 らいは分かる。それほど、長い付き合いだ。
  だが、長い付き合いだからと言って、彼が何を思って此処までやって来たのか、分かるわけでは
 ない。
  彼が先程口にした『構ってもらえないわけではない』という言葉を疑うつもりはサンダウンには
 ない。西部の荒くれた男達とは一線を画す容姿をした彼は娼婦達には人気であろうし、賞金稼ぎ仲
 間達の評判も悪くない事をサンダウンは行く先々で聞いている。
  きっと、酒場にひとたび繰り出せば、誰からも構ってもらえるだろう。そういう気質がある男だ。
  それが、決闘を申し込むわけではないのに、わざわざサンダウンの傍に寄ってくるのはどういう
 意味だろうか。ただの暇つぶしなのだろうが、それならば女や仲間にちやほやしてもらえば良い。
 それとも、一人きりでいるサンダウンをからかいにでも来たのか。また一人で街から眼を背けて生
 きているのか、と。もしくは、そんなサンダウンに慈悲でも垂れているつもりなのか。
  慈悲、という言葉を思い浮かべて、サンダウンは少しだけ機嫌が悪くなったような気がした。
  確かにサンダウンは人から眼を背けて生きている。人に対する不信は腹の底に蟠っているし、そ
 の一方で何処かで人恋しいと思う部分も残っている。
  だが、そこに付け入るような形で慈悲など垂れて欲しくない。
  サンダウンは、目の前にいる男に慈悲を求めているわけではないのだ。
  そもそも、サンダウンに慈悲を垂れるにしても、通り過ぎる草木に水をぶちまけたというくらい
 の認識だろう。何よりもただの気まぐれである可能性が高い。サンダウンの事を考えてそうしてい
 るなんて事は考えにくい。
  現に、むっつりと押し黙ったサンダウンの事など意に介せず、葉巻を取り出してナイフで吸い口
 を作っている。

 「おい、キッド。火、貸してくれよ。」

  燐寸を持ってくるのを忘れたと呑気な声で告げる賞金稼ぎに、サンダウンは内心はまだむっとし
 たままだったが、それを表情には浮かべずに、ごそごそと懐を弄って燐寸を探す。
  だが、まさかその時間が待てなかったわけではないだろうに。
  賞金稼ぎは、燐寸を探すサンダウンの顔をいきなり掴むと、火のついていない葉巻を咥えたまま
 顔を近づけてきた。
  サンダウンが眼を見開く暇もない。明々と火の灯っているサンダウンの葉巻と、賞金稼ぎが口に
 咥えている葉巻の先端が深く押し当てられた。葉巻に火をつけるには、実は炎自体には葉巻を直に
 付けないのが良いと知っている者から見れば、非常に雑な付け方だ。そしてその事は目の前の賞金
 稼ぎとて知っているはず。
  だが、雑ではあるが葉巻に火の灯った賞金稼ぎは、その行為自体には何も思っていないのか、火
 の灯ったばかりの葉巻をふかしている。
 
 「………お前は、まさか他の奴にもそんなふうに火を貰っているのか?」
 
  今日出会ってから一番最初にかけた言葉がそれだというのは、あんまりな気もしたが、これから
 の人生がまだ長いであろう若い男の事を思えば、その問い掛けは当然のような気もした。
  女だけではなく、実は男からも言い寄られる事が多いのだという彼に対して、そんな相手の気を
 惹くような事をするべきではないと叱りつけるのは年長者としての務めのような気がしたのだ。
  しかし、そんなサンダウンの考えなど一蹴するかのように、賞金稼ぎは呆れたように言う。

 「んなわけねぇだろ。俺が火って言ったら、こぞって燐寸持って火をつけにきやがるぜ。」

  その光景が容易く想像できて、サンダウンはげっそりとする。この男には、玉座で足を組んで、
 下々を睥睨している様が良く似合う。
  きっと、火をつけにくる者の中には、心底この男に惹かれていたり、昏い欲望を持っていたりす
 る者もいるのだろうが、この男はそんな連中になど興味もないに違いないのだ。そして、よくよく
 考えてみれば、小賢しいところがある男が、わざわざ自分の貞操を危険に曝すような真似をするは
 ずもない。女にならともかく、男に対してそんな事するはずもないのだ。
  が、それならば自分に対して行われたこれは、一体何なのだ。
  それを聞こうにも、賞金稼ぎは何事もなかったかのように葉巻をふかしており、そこでそんな事
 を言ったなら、まるでサンダウンが気を惹かれてしまったかのようではないか。
  賞金稼ぎが誰にでも彼にでも、葉巻同士を擦り付けあって火を灯すなんて事をするわけではない
 という事を知って安堵する一方で、賞金稼ぎの行為が再び分からなくなってきてサンダウンは混乱
 を葉巻の煙と一緒に飲み下す。
  そのサンダウンの鼻腔に、サンダウンのものとは違う、賞金稼ぎの甘ったるい匂いが香ってきた。
 ちらりとそちらを見れば、賞金稼ぎは既にサンダウンのほうなど見ておらず、端正な横顔をサンダ
 ウンに見せていた。
  星空と同じ、深い黒の眼差しは、酷く遠い場所を見ているように思えた。
  瞬間、サンダウンは先程までの葉巻二本分の距離までに縮まった距離は何処かに流されてしまい、
 一人荒野に取り残されてしまったような、世界と自分との差が広がったような気がした。
  はく、と口を開閉させた所為で、ほろりと葉巻が零れそうになった。それを慌てて噛みしめると
 もう一度、ようやく黒い眼がサンダウンの方を向いた。そして、サンダウンの行動に気だ付いてい
 たのか、あんたは何をしてるんだ、と呆れたような声を上げた。
  いつもとは少し違う、夜が染みついたような落ち着いた声だったが、それでもサンダウンは微か
 に安堵した。この男が、自分から眼を逸らしているところなど、想像出来なかったからだ。自分が
 近くにいるのに、自分以外の何かに気を取られているところなど、見た事もない。
  甘ったるい葉巻の匂いの風向きが、完全にサンダウンに戻った事に、治まりの悪かった神経が落
 ち着くように、サンダウンもひっそりと砂に沈み込む。その様子を賞金稼ぎが眺めている。きっと、
 サンダウンが砂に完全に沈んでしまっても、賞金稼ぎがすぐに掘り起こしてくれるだろう。
  葉巻二本分の距離ほどに近づいてはいないが、賞金稼ぎの眼が遠かったのは一瞬の事。何かあれ
 ば、賞金稼ぎはすぐに、また距離を詰めてくるだろう。サンダウンもそれに慣れている。ただ、こ
 れまで銃と腕一本分だった距離が、葉巻二本分の距離まで縮む事がなかっただけの話。
  今後は、葉巻二本分の距離が普通になるだろう。
  ちり、と赤い灰が零れるのを視線だけで追いかけて、落ちた先に賞金稼ぎが落として風に流され
 た赤い灰が居るのが見えた。
  二つは折り重なって、一際強い光を放って、すぐに闇に溶け込んだ。