世界はいつものように乾いた風で回されている。強い日差しも青い空も、特に普段と変わりない。
 稀にもしかしたら、何処かで育まれた雨雲がやってきて驟雨を流していくかもしれないが、それも
 今のところは切欠すら見当たらないようだ。
  そんな只中に、マッドが銃を掲げて現れるのも毎度の事で、サンダウンの中には目新しさはない。
 せいぜいマッドの後ろの毛に、本当に眼を凝らさねば分からないような寝ぐせがあった事くらいし
 か、想定外の事は起こっていなかった。
  だからマッドの罵声を背中で浴びながら、ああ今日も平和だと思っていたのだ。




 砂色 





  背後で弾けるマッドの声を避けて、サンダウンは路地裏へと身を隠す。
  鬱陶しくも愛くるしい男の声が必死になって己を探す様子は、サンダウンの優越感と嗜虐性を擽
 るには十分だ。
  だから、時折こうして完全に逃げ切るでもなく、マッドの手の届く範囲のぎりぎりで身を隠し、
 彼が追いつくのを待つ事がある。特に、こうした建物の間でその気配を探るのは堪らない。息を切
 らせて追いついたマッドが、その肩から頭上高くにかけて、見事な瑠璃色の天蓋を背負って現れる
 瞬間の青と黒の対比は絶筆し難いものがある。
  さて今日はどれくらいで追いつくか、と葉巻を咥えながら舗装もされていない乾いた砂地を露わ
 にした道を歩いていると、奇妙な気配が漂っている事に気がついた。
  葉巻に火を点けるのを止めて、ふと顔を上げて視線を巡らせる。そこにあるのは何の変哲もない、
 ほんの少し安っぽい造りの家が立ち並んでいるだけで、風景自体に大きな変化はない。
  しかし、濃い色をした空が存在を主張しているにも関わらず、その一帯だけが空気が澱んで見え
 る。

  ねっとりとした、生温い風のような気配。   その、身に纏わりつくような熱を、サンダウンは知っている。

  あの、ここではない、何処か。
  遠く、寒く、悲しい世界。
  その中央で産声を上げていた存在が、生々しくあちこちに飛ばしていた気配だ。
  そしてそれは、確かに自分がその脇腹に銃弾を幾つも叩きこんで、潰したはずのもの。
  思わず足早になる。
  何故、此処で、この世界で、その気配が漂っているのか。この世界には、魔王の気配など有り得
 ないはずだ。あるとすればこの身の内に巣食うものだけのはずで、腹の底で眠るその魔王は他でも
 ないマッドを貪って大人しくしている。
  では、この気配は?
  葉巻に火を点けるのを止め、そのまま地面に落とし、その手で腰に下げた銃に手を掛ける。
  長年の経験によって培われたサンダウンの予想は、十中八九当たる。それも、嫌な予感ほど、外
 れてはくれないものだ。冷ややかな銃の冷たさが、その予感をいっそう増長させる
  しかし、サンダウンの予想通りの展開だというのなら、それを止めるのはやはりサンダウンの役
 目なのだろう。何よりも、もしもこんな気配をマッドが見たら、きっとサンダウンの中に蠢く魔王
 を飲み下したように、意識せずにその腕に迎え入れるだろう。
  その瞬間を想像して、心臓の裏側が冷える心地がした。
  マッドの腕があの魔王を引き寄せて、その胸に存在を刻み込んで。
  けれどもその時、誰が、何が、マッドの中で一番大きくその存在を示す事ができる?
  今でも、サンダウンとディオの二つの魔王を腕の中に抱え込んでいるのに。
  魔王の数が増えた時、何が彼の中から弾かれる?
  マッドの中で何かの位置変更が行われない為にも、今この場で確実に魔王の息の根を止めねばな
 らない。
  腰から銃を抜き、気配の深いほうへと足を移動させる。
  足を踏み出すたびに、明瞭だった景色がぐねりと歪む。身体に纏わりつく空気が粘度が高いもの
 に変じたように感じ、その所為で世界が滲む。
  その奥から、あの、喚き立てるような苦しげな笑っているような、魔王の声が聞こえる。
  それに喚起されるのは、サンダウンの奥深くで眠っているもう一つの魔王だ。闇の縁で眼を開い
 て、飛び出す機会を窺って爪を磨いでいる。
  これが終わったら、とサンダウンは皮膚の表面から噴き上げそうな魔王の牙を押し留めて思う。
  真っ先にマッドに逢いに行こう。
  あの熱でなければ、血液の一滴一滴にさえ存在するこの魔王の哄笑は、押し留める事ができない。
  抜き放った銃を掲げ、目標を視界に捉える。
  澱んだ空気とは対照的な、濃い空の下で、燦然と輝く鬱金の髪。
  振り返った臙脂の瞳が大きくつり上がって、一緒になって口元も引き上がる。

 「そうか、お前か。この世界は、お前の世界か。」

  裂けるような鮮烈な笑みを浮かべた魔王は、以前見た時と変わりなく醜悪だった。人々の血臭を
 塗り固めて赤黒く照り返す剣を堂々と抜き放ち、片頬を歪めて笑う。
  お前達と自分達は同じだと吐き捨てた唇は、やはり毒々しい赤に濡れていた。

 「ちょうどいい。この世界の負抜けたオディオの代わりに、私が思い知らせてやろう。オディオの
  意味を!生を謳歌する人々の裏側で死に行く者の、敗者達の懊悩と苦痛と悲嘆を!」

  魔王が大袈裟にその場にいた黒い馬――マッドの愛馬であるディオだ――を指差し、不敵に叫ん
 だ。しかしサンダウンはオルステッドの台詞の後半部分を聞いていない。
 オルステッドの指し示した方向にいるディオを見て、もしかしてもうマッドと逢ってるんですか、
 と胸に凝っていた不安が――ほんの少しの違った形で――的中した事を知った。しかも引いてきた
 自分の愛馬が、のそのそとディオに歩み寄り毛繕いをし始め、一体いつからそんな仲に?と飼い主
 も知らぬうちにコミュニティを作り上げていた愛馬達の手回しの速さ、もといコミュニケーション
 能力の高さに脱帽せざるを得ない。

 「おい!お前、私の話を聞いているのか?!」

  いいや、聞いていない。
  とりあえず上っ面だけでそう返答すると、魔王の顔にひびが入ったような気がした。
  今更なような気もするが、もしかしたら傷ついたのかもしれない。本当に今更だと思うのだが。
  しかし悲劇のどん底に陥ったという魔王は、たかが無視の一つや二つで心の琴線を切り落として
 しまったらしい。
  かっと赤い眼を見開き、そこから何か生やそうとでもいうかのようにぶるぶると肩を震わせ始め
 た。おどろおどろしい空気が、彼を中心に渦巻き始める。

 「英雄の名を冠し者よ!今こそ我らの力を思い知るがいい!我が名は魔王オディオ!如何なる場所、
  如何なる時代にも存在する悲劇の土壌!嘆きの母親!荒廃の予兆!その意味を今教えてやろう!」
 「こんな所にいやがったのか、キッド!」

  胸を張って叫んだ魔王をぶった切るように、マッドの鋭い息切れを起こした声が雪崩れ込んでき
 た。叫んだ恰好のまま立ち尽くすオルステッドになど路肩の石ころほどの興味も示さず、マッドは
 サンダウンに突っかかる。

 「俺から逃げようなんざ、良い度胸じゃねぇか!ああこの場でしっかり蹴りつけてやるぜ!今日こ
  そその眼を二度と開かなくしてやるから覚悟しとけよ!さあとっとと抜きやがれ!でなきゃ俺が
  先のその頭に風穴開けっぞ!」

  白皙の顔をサンダウンの髭面に擦り寄せて――サンダウンにはそう見える――マッドはサンダウ
 ンに迫る。
  その身体を受け止めるサンダウンのやや右斜め前あたりでは、台詞と行動を途中で中断させられ
 たオルステッドが、直後のポーズのままで固まっていた。
  不可思議な気配もおどろおどろしい空気も生温い風も何もかもを止めて、石に、むしろ灰になっ
 ている魔王にマッドが気付いたのはさんざんサンダウンに迫り、その間さんざんサンダウンに腰や
 ら尻やらを触られた――この事実にマッドは気付いていない――後だった。
  ちらりとオルステッドを見やり、それからもう一度サンダウンを見て、かくんと首をそれはもう
 可愛らしげに傾げる。

 「なんだ、お前ら、知り合いか?」

  しかしそんな可愛らしい態度とは裏腹に、台詞の裏に『変態仲間か』という言葉を正しく嗅ぎ取
 ったサンダウンはすぐに首を振る。そしてサンダウンにしては珍しく、きっぱりと言い切った。

 「赤の他人だ。」

  こんな変態と知り合いなわけがないだろう、と。
  その時、ディオが醒めた眼で見ていた事には気付かないふりをする。
  納得していなさそうなマッドを、どうやってこの場から引き離そうと思案していると、オルステ
 ッドが不気味な声を上げた。

 「そうか………ならば、貴様にとって最も大切なものを壊してやろう。おい、お前、こっちに来い。」

  薄ら笑いを浮かべてマッドを手招きするオルステッドは、その背に混沌とした翼を背負っている
 ようだ。
  その様子をしばし怪訝に見ていたマッドだったが、突然、ふらふらと魔王の手招きに吸い寄せら
 れていく。

「マッド………?」

  引き止めようとするサンダウンの手を擦りぬけて、魔王の牙に引き寄せられる姿は夢遊病者のよ
 うだ。その光景に、オルステッドが口元まで裂けた笑みを浮かべた。

「そうだ、こっちに来い。こっちへ……………ふぐゅっ!」

  マッドがオルステッドの指先が届くすぐ傍まで近寄ったその瞬間、オルステッドの腕よりも長い
 マッドの腕が伸び、オルステッドの額を鷲掴むようにぐりぐりと手を押し当てたのだ。

「大丈夫か、お前。熱でもあるんじゃねぇのか?それともそれも演劇の芝居か何かか?なあ?」

  ぐりぐりどころか、ぎゅこぎゅこと骨がねじ込まれるような音が聞こえそうな勢いで、マッドは
 オルステッドの額に手を押し当て、熱を測ろうとしている。
  おそらくあらゆる時代あらゆる場所のどの勇者よりも凶暴な男に掴まった魔王は、その手から逃
 げる事が出来ない。ついには、ほげげげげ、と変な声を上げ始めた魔王オディオの姿に、サンダウ
 ンは今日も平和である事をしみじみと感じた。