相変わらず、空は晴れている。全身の毛を撫でる風も、砂塵混じりで乾いている。
  白っぽい粉のような砂が鬣に絡むのに、ディオは少し機嫌を悪くした。
  ああ、また水浴びをしてブラシを掛けて貰わなくてはと思う。
  それらは決して嫌いではないが、しかし続けば少し面倒に感じてしまう。
  尤もそれは、この乾いた大地に生きる以上、仕方がない事なのだろう。
  青い空を戴く荒野はいつもと同じで、いつもと全く同じ乾いた風を運ぶ。
  けれども、この世界に、異質なものが混じっている事に、ディオは気付いていた。





 消炭色





  宿から出てきた時、己が主人が拾ってきた青年は先程よりもよっぽどましな出で立ちをしていた。
 趣味の良い主人が選んだ衣服を身に付けた青年は、小汚い時代遅れの人間から西部の男の姿へと変
 貌している。
  その姿に主人の手際と見立ての良さに、ディオは舌を巻いた。
  何よりも『オディオ』である青年の気配――生あるものではない、ねっとりと纏わりつくような
 不快な気配を、何度も水に曝して灰汁を取ったかのように薄めたのは流石だと思う。
  そしてそれは、同じく『オディオ』であったディオを、こうして飼い慣らしている事を思えば、
 当然の事。
  あの凶暴な光を眼に灯す主人は、きっと『オディオ』の力など所詮偽りのものとしか見做してい
 ないのだろう。
  その主人は、何処からかやってきた青年の形を模した『オディオ』を拾い上げ、甲斐甲斐しく世
 話をしている。それは恐らく、魔王の牙を受け止める者の本能だろう。
  真の勇者は、己が意識せずとも魔王の牙を持つ者を見極め、そこに働きかけるのだ。
  ディオ然り、この青年然り、そして主人が長らく追いかけている賞金首然り。
  理不尽なものだと思う。
  誰よりも秀で、愛されるべき主人は、それ故に魔王と対峙し、彼らの爪と牙に引き裂かれなくて
 はならない。
  そして主人はその事を理不尽だとは一つも思っていないに違いないのだ。

  その主人は、青年に食事を食べさせた後、買い忘れた物があると言って青年にディオの手綱を預
 けて何処かに行ってしまった。
  そんな事をして馬が盗まれるとか考えないのかと思うが、それは青年や他の人間を信じていると
 言うよりも、人の言葉をその辺の馬よりも解しているディオを信じての事だろう。その事に、ディ
 オも頬が緩みそうになり、且つ主人に答えたくなる。
  要するに、あの主人は人を褒めるのが上手いのだろう。
  ディオが意気揚々と主人の命を遂行しようとする傍ら、対照的なのは『オディオ』である青年だ。
 鬱金の髪を乾いた風になびかせる、異質な存在は、緩衝材である主人が消えた途端、また不穏な気
 配を醸し出し始めている。
  じりじりとその内に秘める『オディオ』が、息を吹き返そうとしているのだ。
  何処までも堕ちた勇者は、この世界でも良からぬ事を考えようとしているのかもしれない。
  だが、この世界の『オディオ』はディオであって、この青年ではない。従って、この青年の出る
 幕などないのだが、きっと身勝手すぎる彼には分からないのだろう。
  『オディオ』とは基本的には何処までも人間の根底にある身勝手さを示すが、この青年のそれは
 群を抜いていた。そうでなければ、時空を歪めて他の世界から、己を殺す為の勇者を引き寄せる事
 などしないはずだ。
  ディオとて『オディオ』のはしくれだ。他の世界の『オディオ』の事なら、多少なりとも知って
 いる。
  この青年の身に何が起こったのかも。
  しかし、それが未だに終結しておらず、この世界にまで介入するというのは、ルール違反では
 ないのか。まして、彼の中で英雄としなかった己が主人に、今度は英雄を演じろと言うのならば、
 尚更。
  ディオはすっと視線に力を込め、主人に言われた事を無視して何処かに行こうとしている青年を
 見やる。消炭にも似た青年の様子に、もっと顔に筋肉があれば顔を顰めるということが出来ただろ
 うと思う。

 『いい加減にしねぇか。』

  表情で青年を止める事はできないので、声だけは不機嫌丸出しで青年に言った。
  その瞬間、弾かれたように鬱金の髪が翻る。
  信じられないものでも見るかのようにディオを視界に映す青年の眼は、零れ落ちそうなくらいに
 見開かれていた。
  その様子に、驚かせたかとは思ったが、けれどだからといってそれを謝るのもおかしな話だ。
  最初にルール違反をしたのは向こうなのだから。

 『てめぇだってガキじゃねぇんだ。この世界でうろちょろするのが褒められた話じゃねぇ事くらい
  分かるだろうが。』
 「お前…………。」
 『この世界はてめぇの居場所じゃねぇんだ。いくら『俺達』があらゆる場所あらゆる時代にいると
  しても、この世界は俺の場所であって、てめぇの入る隙間はねぇ。』
 「お前も『オディオ』か…………。」

  低く呟いた声は、主人のものに比べればそれでも高く、しかし主人のように甘やかさがあるよう
 な色はない。寧ろ素朴で未発達な、ぼこぼこと節くれだったような声だ。
  けれどもその声の底辺では、深淵よりも尚深い場所で得体の知れぬものが蠢いている。

 「『オディオ』であるお前が、こんな所で何をしている。我らは争いの火種。人に不和を齎すもの。
  この世の不幸の全て。それらを咲かせるのが我らの役目ではないのか。」
 『生憎、俺はそんなに仕事熱心じゃねぇんでね。それに、てめぇに指図される謂れもねぇ。』
 「あの男に、負抜けにされたか。」

  揶揄するように主人の事を言われ、ディオは流石にむっとした。
  しかしそれはこの青年も同じ事。
  何より、『オディオ』の役目を謳い、その役目を果たしていない己を詰るのならば、主に砕かれ
 た牙を取り返してくれたならよいのだ。
  もしくは主を貫いて抜く事が出来ない爪を。
  だがそれはきっと、自分にもこの青年にも無理な話。その気になれば全てを燃やし尽くせる主人
 に、たかが『オディオ』が敵うはずがない。
  恨み、僻み、呪い、嫉み、そして憎しみ。
  自分達の糧であるそれらは、主人には必要がないものだ。彼の中にあるのは爆ぜるような熱ばか
 り。誤って牙や爪を突きたてれば、その瞬間に毒のように熱が回り『オディオ』が溶けてしまう。
 きっと、そうやってディオがただの馬に戻るまで、あの主人は笑ってその身にディオの牙と爪を受
 け止め続けるのだろう。
  そしてそれはディオの望むところだ。

 『俺は主人の馬だ。負抜けと謗られようが、馬で在り続ける。再び『オディオ』の姿になる時は、
  主人に仇なされた時だ。』

  その時は、相手が同じ『オディオ』であってもきっと牙を剥く。
  黒い目で睨みつけると、青年の臙脂色をした瞳がゆっくりと細められた。 

 「なるほど、時代の敗者になっただけでなく、己の役目まで忘れたのか。」
 『俺の役目を決めるのは俺だ。』

  血腥いねっとりとした気配を漂わせ、不気味にその赤い眼を輝かせ始めた青年に向けて、ディオ
 は姿勢を低くした。
  馬である己が、どこまで未だ消せない憎しみを腹の底から沸き立たせている『オディオ』に敵う
 かは分からないが、別世界の憎しみをこの世界に持ちこむわけにはいかないのだ。
  それはかつて『オディオ』であったディオの本能が悟っているが、別世界の『オディオ』が齎す
 混沌を悦ぶほど、ディオは『オディオ』から未だ近い位置にいるわけではない。

  肌を焦がすような圧倒的な気配が立ち込めた。乾いた風さえ、この場を通るのを憚っているよう
 だ。
  きっと勝てない
  ディオはそう思った。
  牙と爪を抜かれて久しい。そんな状態で、未だ生々しく剣を秘めている青年に勝てるはずがない
 のだ。
  強い覚悟をした。
  だが、一瞬後にそれは崩れ去った。
  立て続けに起こった二発の銃声。
  直後に、主人の怒鳴り声が聞こえた。
  日常の時間が、あっと言う間に戻ってきた。圧し掛かるような空気は、何処にもない。路地のあ
 ちこちで、主人が何かを捜すような、鋭い怒鳴り声を上げている。
  ディオは、そのいつも通りの状況に、深く溜め息を吐いた。