眼を覚まして眼に飛び込んできたのは、乾ききった砂が支配する、正に不毛の大地だった。薄く
 地面を這う草木はあっても、そこから潤いなどはとてもではないが感じられない。風にも湿り気は
 なく、その風に乗って飛ぶ鳥達からも、何処か荒廃した臭いが感じられて仕方がない。
  自分のいた世界ならばもっと草木が生い茂り、その葉から滴り落ちる露だけでしっとりとした水
 の匂いを嗅ぐ事が出来たのに。そして、その茂みのあちこちに、生命の気配が潜んでいたものだ。
  だが、今、この眼の前に広がる世界からは生命というものの存在が酷く希薄だ。
  にも拘らず、己が叩き潰したルクレチアよりも遥かに色づいて見えて、オルステッドは唇を噛み
 締めた。




 臙脂





  少し歩いただけで砂煙が舞った。その砂は甲冑の隙間に入り込み、きしきしと音を立てる。
  昼間の日差しや夜の寒さをしのぐ為に持っているというフード付きのマントを手渡され、オルス
 テッドはそれを大人しく着込むしかなかった。
  この世界では、オルステッドの姿は異質なのだという。それを隠し、目立たぬようにする為に、
 オルステッドはマントを羽織りその姿を隠す事を強要された。
  むろん、その命令をきかないという選択肢もあったし、オルステッドとしてもこの甲冑は、歩兵
 用の物と雖も誇りである。隠すなど考えられない。
  しかし、今のオルステッドには、姿形で人を判断する愚者を一掃するだけの力はない。
  どういう理由か分からないが、この世界ではオルステッドの内にあるオディオはぴくりともオル
 ステッドの意志に反応しないのだ。
  勇者から魔王へと変遷した挙句、只人に成り下がった彼は、大人しくその姿を隠すしかなかった。
  その、オルステッドにマントを羽織る事を強要した男は、彼の愛馬だという黒い馬を引いてオル
 ステッドの前を歩いている。
  実を言えば、オルステッドは今回、二人乗りとはいえ馬に乗ったのは初めてだった。
  馬を個人で持つという事は、オルステッドには考えられない事なのだ。行商や農家が仕事に馬を
 使用する事はあるが、それ以外の庶民にとって馬は簡単に手に入れる事が出来るものではない。
  個人で馬を持つとなれば、それは貴族だけだ。
  馬に乗った事がないオルステッドを笑いながら馬上に引き上げた男は、いつか見た騎士のように
 巧みに馬を操って乾いた大地を突っ切ってみせた。
  がくがくと馬の背で跳ねるのに何とか振りはらわれまいと男の腰にしがみついたのは、後々思い
 返せばオルステッドの中では屈辱以外の何物でもなかったが、それ以上にその時は馬に初めて乗っ
 た事で気分が高揚していた。

「お前は、この世界の騎士か?」
「…………いいや。」

  オルステッドの問いに、男は苦笑して緩く首を横に振った。
  微かに何かが滲んだような声で、彼は続ける。 

 「この国にはな、騎士も貴族もいねぇんだよ。」

  だからお前の服装は時代遅れなんだよ。
  男はオルステッドに、何処から来たのかとは訊かなかった。ただ、その服はまずい、としか言わ
 なかった。
  質素な宿の一室にオルステッドを放り込んで、そこで待っていろとだけ告げて何処かに行ってし
 まった彼は、おそらくオルステッドの事を何一つとして理解していないに違いないのだ。だが、何
 処か仕方なさそうなその苦笑いには、何もかもが承知しているような色が漂っている。
  馬鹿馬鹿しい。
  オルステッドは鼻先で笑い飛ばし、マントの下に隠した剣を引き寄せる。
  あの男が何を考えているのかは知らないが、あの薄い笑みの下でオルステッドを何処か排他的な
 場所に突き出す算段をしていないとも限らない。
  帰ってくる時に何を引き連れているとも知れないのだ。
  その時は斬り伏せれば良いだけの話だが、しかし使えるものは使っておきたい。この世界の事は、
 オルステッドは右も左も分からないのだから。
  口元に笑みを浮かべ、抜き放った剣を見る。漆のように血で塗り固められた幅広の刃は光沢を持
 ち、オルステッドの顔を歪めて映す。そこにある笑みが酷薄に見え、当り前じゃないかと自嘲する。
 『オディオ』である自分に、血の通った人間の表情など必要ない。
  声も、言葉も。
  だから、馬に乗って興奮した事も、その前に男に色々と言われて激昂した事も、全部必要ない事
 で、何かの間違いだ。
  そう思って頷こうとした時。

 「きゃああああ!」

  扉の前に、真っ白なシーツを抱えた女性が、オルステッドと抜き放たれた刃を見て悲鳴を上げて
 いた。どうやらシーツを新しいものに変えていて、ここを使用済みの部屋と間違って入ってきてし
 まったらしい。
  それだけなら苦笑いだけで済んだのだが、間が悪い事に部屋の中には人相の悪い男が剣を抜いて
 いた。
  ひくひくと喉を引き攣らせながらけたたましい声を上げる女は、足さえも引き攣らせて縺れさせ
 て逃げようとする。
  洗いたてのシーツを薄汚れた床に落とし、手を泳ぐように揺らめかせて逃げる女は、オルステッ
 ドの眼には不愉快に映る。
  ああ、あの、国民共のように、切り裂いてしまいたい。
  しかしそんな不穏な思いは、廊下の向こう側から聞こえてきたどこか笑い含みの男の声に掻き消
 されてしまった。

 「おいおい、どうしたよ、そんなに慌てて。」

  女を宥める男の声には些かの緊張も孕んでいない。オルステッドのこの騒ぐ心境を、一片も理解
 していないのだ。この世界が、どれだけオルステッドの神経を逆撫でするのか。

 「ああ、あれは演劇で使う剣だ。あいつはああ見えて俳優志望なんだよ。驚かせてしまなかったな。」

  勝手に作り上げたオルステッドを、男は見ず知らずの他人にそうやって押し付けていく。
  怒鳴ってやりたいのを堪え、今此処でオディオの力が使えるのなら、こんな不毛な土地は一瞬で
 引き裂いてやるのにと思う。
  オルステッドの心根など微塵も解さぬ声が続き、男の手が廊下の床に落ちたままの白いシーツを
 掴み上げるのが見えた。オルステッドには、男の笑みを浮かべた横顔しか見えないが、その動きか
 ら壁で隠れてしまって見えない女に手渡しているのが分かる。
  だが、女を見送ったらしい男が次にオルステッドに向けた視線は、酷く冷然としていた。恐ろし
 いくらい透明度の高い瞳が光を鋭く弾いて、オルステッドを貫いている。

 「変な気配をあちこちに飛ばすのは止めろ。」

  冷ややかにオルステッドの気配をぶった切り、腕に抱えていた紙袋をオルステッドに投げつけた。
 その時にはもう、眼差しに冷たい凝りは消え失せている。
  あっさりと感情を翻してみせた男は、ゆっくりと壁に凭れかかると、面倒臭そうな口調で告げた

 「さっさと着替えてこい。さっきも言ったが、その服だと表歩けねぇからな。俺もそんな変態を連
  れ回したかねぇ。」

「ならば、捨て置けば良いだろう!」

  咄嗟に出た言葉は、先程思っていた『使えるものは使えば良い』という事とは全く裏腹の、正に
 売り言葉に買い言葉的なものだった。
  その事に男も気付いているらしく、口角を持ち上げて、それでお前は良いのかよと言う。

 「強がるなよ、坊ちゃん。どうせ、一人じゃ何も出来ねぇだろう。馬にも乗れないし、宿に泊まる
  だけの金もない。それに御大層な剣を持ってたって、大勢で襲ってこられたら、一溜まりもねぇ
  だろうが。言っとくけどな、てめぇが思うほど、この世界は優しかねぇぞ。」

  オルステッドの額を指で弾き、男は不敵な、けれどやはり仕方なさそうな笑みを浮かべた。
  そして、未だ抜き放たれているどす黒い剣の刃を、その細い指の腹でゆっくりとなぞる。

 「てめぇがどういうふうに生きてきて、それをどう感じてるのかは知らねぇが、この剣みたいに表
  に見える分だけでその苛酷さを推し量れる世界じゃねぇんだよ、此処は。」

  それともまさか、と男は低く笑った。

 「血に濡れた剣を掲げてれば、自分の人生が如何に同情すべきものかを相手に分かって貰えるとで
  も思ってんのか?」

  甘ったれんなよ、と言外に込められているような気がした。   けれど刺のある言葉も一瞬の事。   男はオルステッドの頭を軽く叩くと、着替えてこいよと笑みを湛えたまま言った。

 「それで飯にしようぜ。てめぇの事を考えるのはそれからだ。それまでは、何が食いたいのかでも
  考えときな。」